「帯の色が緑です」
「ああ、だから出すのが恥ずかしいんだよ。情けないことに、期限切れに気付かなくて一度失効したからね」
「っていうことは、もう一度再取得したんですか?」
「そうだよ。いやあ、40を目の前にした男に、免許センターの教官がどれだけ厳しいか、君には想像もできないだろうね」
「何回ぐらい落ちたんですか?」
「ペーパーはストレートに通ったけど、技能は1回落ちた。どうにか2回でギリギリ70点取ったけど、最初に当たった僕より10歳以上若そうな女の教官から、プライドをズタズタにされた記憶は、未だに夢に出てくるぐらいの屈辱だったよ」
「はははは、俺も今後の教訓にします。……S県で免許を取られたんですよね。いつ泰陽市に戻られたんですか?」
 取得は2年前で、発行元はS県公安委員会だった。つまり、その頃はまだ住民票がS県にあったということだ。
「あんな小さな文字まで、よく見ていたね。こっちに戻って来たのは2年前。『蓮(れん)』っていうラーメン屋を知らないかな」
「行ったことはないですけど、存じてます。そこで厨房にいらしたんですよね」
 シンさんの話と一致した。
 『蓮』の店長から志賀さんに紹介されて、『彩』に転職した筈だ。
「そのあたりは綾さんから聞いてるか……」
「まあ、直接じゃないですけど。……ええと、また『蓮』に戻られるんですか?」
「そういう手もあるけど、まだ何も考えてないよ。色々と残務整理も残ってるし、急にご主人があんなことになって、綾さんも仕事どころじゃないだろうしね」
「でも、広中さんだって生活があるでしょう?」
「そりゃあもちろん、あまり悠長なことは言っていられないから、僕も適当に就職活動はしてるけど、どっちにしろアルバイトで食い繋いでいくことになるだろうからね」
 そういえば、広中の『彩』での立場もアルバイトだったはずだ。
「どうして正社員で勤務しないんですか?」
「おやおや、これはまた訊きにくいことをストレートに訊いてくれる。若いっていうのは、いいね」
「……すいません、言葉が足りなくて。ただ、腕のいい職人だと聞いていたので、純粋にどうしてかなって思って。たとえば、いつでもご自分でお店を持つために、身軽でいたいとか……そういうことですか?」
「君がなぜ、そんなに僕の事を知りたいのかはわからないけど、いずれにしろ買い被りすぎだな。ラーメン職人としての僕の経歴なんて、実質この2年程度のものだよ。僕が『蓮』に就職できたのは、単なる人手不足からだ。幸いずっと昔、大学を休学していた当時に、少しラーメン屋でアルバイトをしていた経験があったから、それならホールや皿洗いぐらいはできるだろうってことで、採用された。もちろん『蓮』ではガムシャラに努力をしたから、厨房リーダーまで任せてはもらえたけど、自分で店を持つなんて、まだまだ先の話さ。そこまで辿りつけるとも思っていない」
「でも、『蓮』の店長さんや、志賀さんはあなたを評価されていたし、信頼があったから、厨房を任されたんだと思いますけど。……あの、だったら泰陽市に戻られるまでは、一体何をされていたんですか?」
「工事現場やスクラップ工場、特殊清掃……雇ってくれるなら何でもこなしたよ」
 まるで日雇い労働を点々としていたようなイメージだった。とてもまともな生活とは思えない。日給は稼げるだろうが、キャリアを積んでいく働き方には程遠い。
 不意に携帯のバイブが鳴った。
「すいません……」
 鞄からスマホを取り出し、確認する。江藤からのメールだ。内容をチェックする。

 『昨日言ってたこと、お父さんに訊いてみた。話したいことがあるから、よかったら今夜会える?』

 グダグダに会話が終わった気がしていたが、江藤なりに気にして親父さんに話を聞いてくれたようだった。しかし、タイミングが悪すぎる。
 俺は、只今面会中とだけ打ち返して送信した。すると。

 『それって本人と?』

 即レスで帰ってきた。
 yes、と返す。また返事が来た。

 『伝えたい事があるから、合間みて電話して』
 OK、と返すつもりでキーパッドに指を当てたところで、広中から横槍が入った。
「ひょっとして彼女?」
 チャット状態になっていた俺と江藤のやりとりに、あらぬ想像を掻き立てられたらしい。
「ええ、まあ」
 否定してもいいのだが、馬鹿正直に答える義務もないので、適当に誤魔化しておく。その方が話を切りあげるタイミングにもなるだろうと、俺は考えた。江藤のメールが気になっていた。
「へえ、モテそうだもんね」
 言いながら、広中が視線を宙に上げた。
 さきほども同じところを見ていたと思い出し、俺にとっては背後にあたるその場所を、直接振り向いて確認する。そこには50型のプラズマテレビが壁に埋め込まれてあり、今はサッカー中継を流していた。先週末の深夜に一度放送された、エスパニアリーグ第35節の、ラナFC対カナリアFC戦で、再放送である。 ディフェンダーの石見由信(いわみ よしのぶ)が、決勝ゴールを華麗にアシストした試合だが、録画だけしておいてまだチェックが出来ていないので、俺としてはできればあまり見たくない。だが、振り返っておいて無視するのも妙なので、適当に反応をする。
「サッカー好きなんですか?」
「え? ……ああ、いやそうじゃなくて、時計をね」
「なるほど」
 よく見ると、テレビ画面の右上に小さな時刻表示があった。時間が気になったと言う事だ。
「さて……それじゃあ、そろそろ帰るかい?」
 そう言うと、俺の返事も聞かずに広中が立ちあがった。条件反射のように、こちらも席を立つ。唐突だった。
「ああ、そうですね」
 そして、広中の動作に俺は少々疑問を感じた。急いでいたのだろうが、時計の話題が引き金になったというより、むしろ俺に気付かせようとして、テレビの時計へ視線を送ったのではないかという気がしたのだ。しかし、会話こそ途切れなかったが、けっしてこの30分程度の滞在は、話が弾んだと言えるほど良いムードではなかった。本人が怒らないのをいいことに、立ち入った質問を俺が繰り返したのだから当然だ。そして、不躾な俺の態度へ、彼が何度も苦笑を漏らしたことに、俺は気付いていた。辟易されたとしても無理はない。だが、江藤のメールも気になった。俺にとっても、これがちょうど良いタイミングだ。
 先に店を出た広中に続いて、俺もワックスの塗られた板敷きのフロアから、剥き出しのコンクリートになっている玄関前へ足を下ろす。
「あれ……」
 不意に頭の芯がぐらつき、思わず俺は壁面に掌を突いていた。

 08
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