「どうかした?」
「あ、いいえ……」
振り返る広中に、俺は適当な相槌だけを返す。
光沢のある告知ポスターや、安っぽいフライヤー越しに伝わる手触りが、やたらと生々しく感じられる。もう何度も『Marine Hall』へ通っているというのに、今初めてざらついた壁材が使用されていることを俺は知っていた。
姿勢を立て直し、足を進める。既に階段を中ほどまで上がっていた広中は、そのままの位置から俺をじっと見おろしていた。
俺は最初の段差に足をかける。同時に広中が、ゆっくりとこちらへ降りてくる。
「フラフラしているね。酔ったのかい?」
そこにある筈のコンクリートの固い感触が、俺の足の裏へ一向に振動を伝えることはなかった。代わりに鍛え上げた腹筋が、頬に衝撃を与え、太く固い両腕が、倒れようとする身体を脇から捕えて支えていた。縺れきった両脚は、無様に膝を折り曲げて、コンクリートへ沈みゆこうとしている。
「酔ったのか……?」
本気で俺も、そうなのかと思った。
だが、本能的にこの男と酒を飲むことへ危機を感じていた俺は、注文を聞いてきた彼にソフトドリンクを頼んだ。その結果、確かに俺の手にはコーラが渡され、そこに酒が入っている味はまったくしなかった。
だったら、どうしてだ? 酒を混入されたとしたって、ほんの一杯のカクテルでここまで酔ったりするわけがない。たった今まで、俺は普通に歩いていたのに、……なぜ?
「送って行こう」
肩に腕を回され、広中が俺の身体を支えながら、階段を上がって行く。辛うじて足を交互に繰り出すことはできても、自分で体重を支えられる状態ではない。彼に頼るしか、俺に術はなかった。
商店街からコインパーキングへ移動し、黒っぽいセダンに乗せられて、きちんとシートベルトが装着される
。前方から運転席へ広中が回り込み、ほどなくエンジンがかかった。
ふと、細かいが大切なことを俺は思い出す。
「あんた、運転していいのかよ」
「おや、まだ意識があったのかい? そろそろ落ちる筈なんだけど、時間の問題かな。さっき免許証を見せたばかりだろう。まさか、まだ偽造だと疑っているのかい? まあ、どっちにしろ運転は上手い方だと思うから、安心していいよ」
「酒飲んでたんじゃないのか?」
質問しながら、言われた意味を考える。
そろそろ落ちる……時間の問題……何を言っている?
「僕が飲んでいたのはペリエだよ。カクテルか何かと思ったのかい? 大丈夫、飲酒運転で捕まる心配なんてないから。そんな鈍くさいマネを僕がするわけないだろう。せっかく君を捕まえたのに……」
アルコールが入っていたわけでもないのに、急に訪れた強烈な目眩と倦怠感。静かな振動が身体に伝わる。フロントガラスを流れゆく街の景色と、目の前を一定の間隔を保って進む車のテールライト。広中がしきりに時間を気にしていたのを思い出す、……まさか。
「何を……入れた……?」
前の車にブレーキランプが灯り、広中の車も静かに停止する。信号が赤だった。
不意に景色が暗くなる。頬に掛かる生温かい息づかい。
やめろ、冗談じゃない……。
そう考え、顔を背けようとするのに、自分の身体がまるで言う事を聞かない。
「ただの睡眠薬だよ。お喋りはここまでだ……探したよ、秋彦」
口唇に押し付けられるおぞましい感触へ、耐え難い吐気を覚える。胃がせり上がり、しかし間もなく動き出した車の振動で、却って嘔吐が収まった。
車の進路を読もうとして景色に注意を向ける。けれど、そう思った次の瞬間には、どうしようもなく瞼が重くなり、そこで俺の意識は途絶えた。
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