話を聞いていた江藤は実に愉快そうだった。
というか、笑いすぎて少々呼吸困難に陥っていた。
「いや、お前・・・それすごく失礼だからな?」
「で、どうなったのよ?」
湿り気を帯びたタオルハンカチをいつまでも弄んでいた江藤は、それをようやく四つにたたむとジャケットのポケットに戻した。
江藤と並んで水道の流しの淵に腰を掛けていた俺は立ちあがると、接触部分が少し濡れていたことに気がついた。
「何が?」
ひんやりとしたズボンの感触の不快さに顔をしかめつつ聞く。
「だから、あんたの初恋の君」
パッキンの弱くなっている水道の栓が、ひときわ大きく水を弾いたらしく、気がついた江藤が立ちあがって後ろを振り向くと、蛇口を思いっきり捻った。
「あまり強く捻ると、後の人が困るぞ」
「気になるのよこういうの」
水が落ちてこないのを確かめた江藤は、満足げに首を縦に振って頷いた。
「・・・成就したと思うか?」
「まあ、ないわね」
江藤がこちらを振り向いてニヤリと笑う。
だったら聞くなよ。
っていうか、当時もクラスメイトだったんだから、俺に大学生の彼女なんか出来ていたら江藤も知ってるだろうに。
「実はそれからしばらくして、再会する機会に恵まれたんだよ」
「へえ・・・彼氏でも連れてた?」
てめーはよぉ・・・。
「いんや。・・・その頃の俺はすでに高校へ上がっていて、急に背が伸びていたから、さすがに女性専用車両へは乗れなかったが・・・」
「いや、母親と一緒の小学生でもない限り、普通乗らないからね、君」
俺は江藤のチャチャを無視して話を続けた。
「また彼女が女性専用以外の車両に乗っていたんだよ。でも、さすがに声をかけづらくて、どうしようか迷っていたら・・・俺、見ちまったんだよな」
「ん?」
「スケッチブックを網棚に乗せようとする彼女の白い喉に、はっきりとした仏様が・・・」
「それはあれのことかな・・・いわゆる・・・」
喉仏。
「なんつうかさ・・・俺を女と間違えた一条のこと、これじゃぁ笑えねぇなぁと・・・」
「アンタもアンタで、彼女を・・・いや、彼を女と間違えてのぼせあがっていたってわけね・・・アハハ。いいじゃないの、恋愛は自由なんだから」
「おまえ、明らかに楽しんでるだろ?」
「というか、アンタの場合はさすがにちょっと不可抗力よね、だってその人見事に女装してたわけでしょ?」
「というか・・・俺さ、これまでにもちょくちょくあの電車に乗ってたのに、今までなんであんな綺麗な人に気づかなかったんだろうって、不思議だったんだよな」
「ちょい待った。アンタ、それまでにも女性専用車両に乗ってたの!? それって常習犯ってこと? 女子トイレに忍び込むは、一体アンタって何なのよ! 警察に突き出されしまえこのエロガキが!」
急に興奮しだした江藤を無視して俺は話を続けた。
ときどきこういうヒステリーを起こすから、女は難しい。
「たぶんだけど、初めて話したときあの人、慣れない靴履いてくるんじゃなかったって言ってたんだよ。つまり、夏休みに入るまではたぶん、普通の男の人だったんじゃないかなぁ・・・」
「ああ、その直前性転換した、と・・・っていうか、アンタさっきから、なんであたしの話を無視するのよ」
「たぶんな」
「こら聞け!」
「だいたい彼女、女装というか完全に女になってたっぽいし・・・」
俺をドキドキさせたあの危うい体の線が男のわけがない・・・。
「妄想の世界に突入しかけてるところ引き戻して申し訳ないけど、それから一条君の方とは、どうなったのか聞かせてくれないの?」
「どうもしねぇよ」
してたまるか。
「えー、だって曲がりなりにもアンタに告白してきたわけでしょ?」
「だからそれは俺を女と間違えてたからだろ」
「ああ、なるほど・・・」
実は続きはある。
快速が出発した城西駅のホーム。
一条と二人取り残されて、茫然と小さくなってゆく電車のシルエットを駅員よろしく見送っていた俺にあいつは言ってきた。
「・・・僕は、それでも構わないよ」
もちろん俺はすぐさま丁重にお断り申し上げた。
惜しかったがiP○Dも返却した。
だが、こんなこと江藤に言ってみろ。
卒業するまでネタにされること請け合いだ。
「その後はお前もよく知ってるとおりだよ」
半年後。
俺はあいつとクラスメイトになっていた。
城陽と同じ中高一貫の二葉に通っていたはずのあいつが、偏差値が10は違う城陽なんぞに、どういうわけか進学しており、これまたどういう神様の気まぐれなのか、クラスメイトになっていて、今年も引き続きクラスメイト様というわけだ。
「運命ね」
「俺は抗いがたい作為的な何かの力を感じるんだがな・・・」
そのとき一条が校舎から走ってきた。
「原田、鞄持ってきた」
いや、俺の鞄はさっき受け取っただろ。
それは江藤の鞄じゃないのか?
なんで宛名が俺になっている?
突っ込もうと思ったが、江藤を楽しませるだけなので、やめておいた。
「ありがとうね、一条君」
「いいよ全然。じゃ、帰ろうか原田?」
馴れ馴れしく俺の横に並ぼうとする。
「一条、後ろを歩け、後ろを」
「・・・? うん、判ったよ原田」
日はもう沈んでおり、東の空はとっぷりと暮れ始めて星が瞬いていた。
「明日は晴れそうだな」
俺が言うと。
「晴れるといいね」
一条が言った。
「寒くならなきゃいいけど」
11月になっても素足で頑張っている江藤が、肌寒そうに両手をこすり合わせて空を見上げる。
見上げる空には秋の星座が、ぼんやりと薄暗い夕闇に光を滲ませて、俺たちを見送っていた。

fin.

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