それから30分後、結局俺に代わって洗い物を済ませてくれた峰を送るために、俺たちは城西公園駅方面へ向けて夜道を歩いていた。
「なんか結局すまなかったな、掃除させたり洗い物させたり」
家政婦の仕事にやってきたような扱いだった気がする。
「かまわん。そういうものは俺の日常の一部だから、どうってことはない」
なんの感情も籠らない調子で峰は応えた。
「つくづく、よく出来た子だなお前」
うちと同じ放任主義だったにも拘わらず、峰家は子育てに大成功したようだった。
どこに差が出たのだろうか、やれやれ。
「その言い方はもうやめろ。俺はお前より年長者だぞ」
「いや、あのな・・・一時的に年上で間違いはないんだが、年長者っていうのはちょっとニュアンスが違うと思うぞ。・・・っていうか、そこでだな、峰」
一旦言葉を切って、俺は制服の上に羽織って出て来た、ハーフ丈のパーカーのポケットから、折り畳んだ紙袋を取りだし、峰に渡した。
「何だこれは・・・」
峰は戸惑ったような声を出していた。
顔は見ていないから、表情はわからない。
妙に気恥ずかしくて、見られなかったのだ。
「だからさ・・・その、お前誕生日だろ、今日?」
「ああ・・・お前、覚えてくれていたんだな。開けていいか?」
「どうぞ」
紙をガサガサと鳴らす音が聞こえる。
続いて袋の中から、柔らかい物を取り出す音が聞こえた。
「えっとさ、お前、皮膚弱そうじゃん? だからまあ、そういうモンがいいかな、と・・・」
日曜に臨海公園のショッピングモールで買ってきた、黒革の手袋。
ショーウィンドウで目にした瞬間、なぜか俺は峰の顔が頭に浮かんでいた。
黒木さんに早く行けと促されて店に入った俺は、捕まえた店員に、あそこにあるのと同じ手袋が欲しいと伝え、その店員はディスプレーからこの手袋を包んでくれた。
最後のひとつだったらしい。
俺は本当に危ない所でこれを購入出来ていたのだった。
今度黒木さんに会ったら、是非礼を言わないといけない。
「お前・・・本当に、いいのか? こんな物貰って」
峰は俺に聞いてきた。
声が少しばかり上擦っている。
「だってまあ、ほらさ、こうやって色々と世話になってんじゃん。それに、去年はお前が俺に誕生日プレゼントくれただろ? ・・・まあアレにはちょっとビックリしたけど、でも結構高そうなもんだったし」
去年、俺は誕生日プレゼントとして、峰からボイスメッセージ付きの目覚まし時計を貰っていた。
そのボイスメッセージというのが、有名な女性声優による、妹が兄を起こす設定の演技で、メッセージを大音量で再生してしまった俺は腰を抜かしそうになったのだが、しかしながらよく調べてみると相当多機能で、価格は1万円を下らない、目覚まし時計としては高価な品だった。
「ああ・・・いや、あれはもう忘れてくれていいんだが。それにあの頃は俺の方が色々迷惑かけていたから、礼がしたかっただけの話で。いいタイミングだったし」
峰はやや気不味そうな声で言った。
「それなら俺だって同じことだ。俺もこうしてお前に世話になっているし、その礼がしたい。これはいい機会だろ?」
「だが、俺は多分そう取らないぞ。それでもいいのか?」
「どういう意味だよ」
俺は漸く峰の顔を見た。
峰はこちらを向いて立ち止り、真剣な表情でじっと俺を見ていた。
「俺はこれを貰うことで、間違いなくつけあがる」
胸の前辺りで手袋を握り締め、そこに意味を持たせようとしているのがわかった。
「つけあが・・・って、勝手にしろよ。それはもうお前のもんだ」
何をつけあがるというのか・・・そう考えるだけで、もうドキドキしている自分を、俺はなるべく意識しまいと必死に努めた。
「それに、俺はけして紳士的じゃない」
「お前に紳士な態度なんて期待したこともねえよ、安心しろ」
「・・・覚悟は出来ているんだな」
「何のかく・・・んっ」
目の前の端正な顔がフッと微笑んだかと思えば、次の瞬間には手袋を持った手で俺の背中を引き寄せ、峰が口唇を合わせてきた。
それがなぜだか、あまりにも自然な仕草だと思えてしまい、俺は完全に抵抗を忘れていた。
しばらくそのままキスを続け、ガードレールの向こう側で鳴ったクラクションの音が聞こえて、俺はやっと我に返る。
そのときになって、初めて自分が目を閉じて峰の口付けを受けていたことに気が付き、愕然とした。
俺は慌てて峰の胸を押し戻し、後ろへ一歩下がったが、一秒後には再び峰に身体を引き寄せられていた。
そのまま峰が強く俺の身体を抱きしめてくる。
「好きだ秋彦」
「みっ・・・峰、お前・・・な・・・」
さらに気が付くのが本当に遅いのだが、漸くこの時になって、峰が俺の呼び方をすっかり変えていることに気が付いた。
もうこれは誤魔化しようがない。
峰と俺は友達という関係から完全に逸脱していた。
もう戻れない。
「知らなかったとは言わせないぞ。俺は何度もサインを送った筈だ。お前もそれを逃げなくなった」
「それは・・・」
「秋彦、俺と付き合え」
「何言って・・・」
「今すぐじゃなくていい。けど、お前の中では、じきにそういう答えが出て来るだろう」
「意味わかんねえよ」
「わからなくていい。俺にはわかっている」
「エスパーか」
「ああ。俺がエスパーでお前が納得するなら、それでいい。エスパーでも宇宙人でも、半魚人でも、何にでもなってやる」
「お前なあ」
「そんなことでお前の傍にいられるのなら、俺はそういうものすべてになってやるよ。お前を傷つけるものから、お前の身も心も護るために・・・それが霜月だろうが、一条だろうがな」
「峰、お前・・・」
俺と篤の間に起きたことを、お前はどこまで気づいているんだ?
耳のあたりに、微かに触れる、くすぐったい息遣いを感じた。
峰が軽く笑ったようだった。
苦笑だ。
「ああ、今はそれでいい・・・でも、近いうちにちゃんと祥一と呼べよ」
そう言って峰は再び俺の口唇を塞いできた。
俺はもう一度目蓋を閉じて、それを受け止めた。