エピローグ


「あっ……そこ……っ」
 暗闇に近い密室。窮屈に捻じ曲げた身体、背後から何度も打ちつけられる男の腰。
「ここか?」
「もう少し……違っ」
 ぐっと覆い被さりながら長い腕が前に伸ばされ、鍛えられた固い腹筋が背中に強く押し付けられる。素肌にザラついたシャツの生地が擦れてこそばゆい。
「よく、わからんが……」
「だから、もっと右だって……つうか、いい加減に重いから退けろよ」
 いつまでも背中に乗っている峰祥一がそろそろ鬱陶しくなり、俺、原田秋彦は半分キレそうな声を上げて、突然背を伸ばした。途端に峰がバランスを崩して後ろに尻餅を突く。油断していたらしい。何も置かれていないガラスのローテーブルが、重々しい摩擦音を立ててカーペットの上を数センチ移動する……ということは、ひょっとしたら峰が転んだ拍子に、背中でもぶつけたかも知れない。だとすると、結構痛いのではないだろうか。
「何をする……」
 恨めしそうな声で非難された。苛々に任せて思わず当たってしまい、多少良心が咎められる。
「悪かった……けど、お前が密着してギュウギュウ圧し掛かって来るから、つい……」
 考えてみたら、こうなった原因は俺にあるというのに、完全な八つ当たりだった。
「密着しなきゃ出来ないだろ。交替しても別に俺は構わんが、俺の方が長いから奥まで届くし、何かと引っかかりがいいだろうと、お前も認めたんじゃないのか?」
 起き上がりながら、峰が首や肩をコキコキと鳴らす……不自然な姿勢を取らせていたのだと、今更気付いた。
「お、俺だってそのぐらい届っ……まあ、そりゃあお前の言う通りだけどさ……」
 数分前の出来事を回想して、それでも俺は内心歯ぎしりする。
 自分の方が長いと言いきる峰の言葉を認めることが出来ず、未練がましく直接隣へ自分のものを並べて互いの長さを比較し、歴然としたその違いに敗北を認めて俺は確かに降参したのだ。最初から負けなどわかっていた筈なのに、敢えて対抗しようとした己の所業と馬鹿さ加減を、頭でリプレイしてまで思い出すという余分な工程を実施して、さらに苛々とする……我ながら不毛な作業だ。
 自分も長さに問題があるわけではないのだ。しかし、峰の方が長さで優越していることに間違いはなかった。
「何が不満なんだ、正直に言ってみろ」
 呆れるような声で峰が促した。
「だってさ、お前……不器用だし」
 言ってよいものかどうかわからず、遠慮気味にボソリと呟いた正直な感想は、しかし感度の良い峰の耳をしっかりと捉えていた。麗しい面の切れ長の双眸はしっかりとこちらへ向けられたまま、クリアに描かれた右側の二重瞼のすぐ上辺りが、ピクピクと蠢く。ほぼ無表情に近い峰のそんな些細な感情の揺らぎを、3年を過ぎる付き合いの中で俺が見逃すことはなかった。
「ほう」
 短いが好戦的な応答が狭い室内に低く響く。
「あ、……ええと、まあ俺の誘導も問題あるとは思うんだけど、なんていうか、多分呼吸の問題みたいな? 数センチの感覚が、うまく伝わらないっていうか、あとちょっとなんだけど、なんでわからないかな、みたいなっていうか……へ?」
 突然目の前にずいっと突き出された峰の掌を凝視する。
「スマホを寄越せ」
「ええと……峰君? ひょっとして怒ってます?」
「俺の携帯にはトーチライトなんて便利なものはついていない。バックライトじゃあ十数秒ですぐ消えるから、あまり役には立たんだろう。……尤も、才能満ち溢れる将来有望な匠の手先と、野生の鋭い勘に恵まれるお前をもってすれば、灯りなど頼りないガラケーのバックライトの数秒程度で充分であり、一瞬にして任務は完了されるのか?」
「いやいや、んな意味のわからないキレかたされても、どう対応していいか、俺がわからんし、匠の手先とか全然言ってねえし、……つうか絶対怒ってるよね? そういや最近やたらと俺の前では饒舌だけど、なんか怒ると、更に弁舌絶好調じゃね? ちなみに、いつか俺がお前のガラケー馬鹿にしたこと、結構根に持ってやしませんか?」
「なるほど、やっぱりお前はガラケー差別主義者だったと……」
「そんなこと言ってねえってっっ……わかりましたよ、スマホ渡しますから、好きなだけ使ってください! ……ええと、じゃあ交替ってことで、光源お願いしていいですか?」
「いつでも準備オッケーだ。位置に戻れ」
 なぜかえらそうな峰に従い、ソファへ膝を突く。
「はいはい。で、……なんで交替すんのに俺が下なのでしょうか」
「お前は俺よりリーチ短いだろ。何度も言わせるな」
「そうだけど……」
 釈然としないまま、再び背凭れの後ろを覗き込んだ。闇に慣れた視界にすら、そこは相変わらず真っ暗だ。直後に背後から峰が覆い被さり、スマホを片手に壁との隙間へ長い腕を差し込んでくる。俺も右腕を伸ばし、カーペットの表面を探っていった。指先に次々と当たっていく感触の多さに顔を歪める……傍で見ているよりもずっと手に当たる物が多く、これでは時間がかかるのも無理はないと漸く理解した。勝手に右だの左だのと言っていたが、ゴミを見間違えて見当はずれな誘導をしていたのかも知れないと、少しだけ反省した。
 何よりも、埃を触り続けることは不快な作業だった……、客商売なのだから、普段は目に付かない場所であっても、もう少し丁寧に掃除してほしいと思い、あとでお客様アンケートへ書いておこうと心で誓う。そしていつまで経っても暗いままの視界に、そろそろ首を傾げて峰に訊く。
「なんでライト点けてくんないの?」
「……すまん、点け方がわからん」
 脱力した俺が直後に峰を再び跳ね除け、スマホを全力で奪い返したのは言うまでもない。
 間もなく峰の祖父さんが様子を見に来て、3人で手分けしながらソファを動かすことになり、俺がこの部屋で失くした峰のアパートの鍵が見つかったのは、その5分ほどあとのことである。
 大して重くもないソファを動かすというだけの簡単な作業をなぜ思いつきもせず、大の男が二人で顔を寄せあい壁際を覗き込んでああだこうだと言い合っていたのか……。己の頭の悪さは承知しているとして、峰のような高IQの男が同じレベルで手を拱いていた不可思議さに首を傾げずにはいられない出来事であった。恐らく俺に付き合いすぎて、些か峰の知力が落ちて来たのかもしれない。だとすると、申し訳ないと思うと共に、将来西峰寺を背負って立つ男と日本の仏教界の行く末が、心配でならない今日この頃だ。
 また、この時俺がなぜ服を脱ぐ羽目になったのかについては、いずれ機会があれば話そうと思う。


fin.



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