「おう、慧生じゃないか」
 男がアイコンタクトとゼスチャーのみで指図を送ると、カウンターにいた年若い従業員が、既に準備していたモップを持って噴水周りの掃除を始めた。客層に問題はあるものの、スタッフ教育は確かのようだった。
「紹介する。コイツが秋彦の今カレの……お前何だっけ?」
「峰祥一と申します」
 噴水に飛び込んだバカ学生よりも派手に内心ズッコけたが、そんな心情はおくびにも出さずに、祥一は礼儀正しく自己紹介とお辞儀をした。よもや、名前も覚えずに連帯行動されているとは思わなかった。
 肩書にも若干の勘違いがあったが、悪い気はしないのでそのままにしておいた。
「『Marine Hall』店長の石田有朋(いしだ ありとも)です。前にも会ったことあると思うが、改めて宜しく」
 差し出された大きな右手を握ると、力強い握手が返された。そういえば、以前にどこかで会っている気がしたが、よく思い出せなかった。相手には失礼だったが、おそらくすれ違った程度なのだろう。
「ところでさ、夕方ぐらいに秋彦来てなかった? アイツ今日バックれてるんだよね。それだけなら別にいいんだけど、ちょっと変なオトコと一緒だったから心配でさ……」
「何時ぐらいだ? 俺とシンは今日遅晩だから、開店時のことはよくわからんが……おい、ユウキちょっと来てくれるか」
 石田が振り返ると、噴水周りの掃除を終えてカウンターに戻りかけていた若い店員がモップを持ったままこちらへ小走りにやってきた……彼がユウキらしいとわかる。
「五〜六時頃かな、たぶんトモさんと同年代ぐらいで背は秋彦ぐらいなんだけど、日焼けしてガッシリした感じの、ワイルドな親父と一緒だったんだよね。ここ来てないかなあ」
「おい、ちょっとそれって……」
 慧生の説明に祥一は一瞬で思い当たる人物が脳裏に浮かんだ。同時に、なぜもっと早くに気付かなかったのかと自分に怒りを感じる。
「それ、マサさんじゃないか? なあ、ユウキ、夕方ここにマサさん来てなかったか?」
「いや、すいません……お名前は伺ってるんスけど、自分、マサさん見たことないもんで、どうも……ただ、慧生君の説明に該当するお客さんなら、確かに開店時、いらしてた気がします」
「そうか、お前来たとき、もう『彩』閉まってたもんなぁ……会ったことないか」
 石田が自己の認識を是正している間、ユウキは記憶を辿りつつ説明を続けた。
「茶色い癖毛のロンゲで、まだ四月なのに半袖Tシャツ着てる、がっしりした男の人でしたら、五時過ぎにその席でペリエ飲んでらっしゃいました。綺麗な感じの男の子が一緒で、どういう関係かなって不思議に思ったんですよ。友達って年格好でもないし、実際、あんまり仲良さそうでもなくって、なのにクラブへ二人で来るって、変じゃないですか。男の子はしきりに携帯触ってましたから、ひょっとしたら共通の友達でも待ってるのかなって思ってたんですけど、結局三十分ぐらいで帰ってしまって……」
「すみません、誰に連絡してたかわかりますか?」
 気がつけば、ユウキの腕を掴んでいた。
「えっ……何のこと?」
「秋彦は……マサって人の連れの男は、しきりに携帯を使っていたんですよね? それって、誰かに連絡していたんじゃないですか?」
 秋彦は目の前の人物がマサこと広中正純(ひろなか まさずみ)……或いは、本名霜月勤(しもつき つとむ)であることを理解した上で、二人きりで会っていた。その理由が何かはわからないが、あれほど怯え、かつて彼の母親を殺害し、父親を自殺に追いやられ、彼自身にも危害を加えようとしていた張本人と、正面から対峙していたからには、なんらかの目的があった筈だった。その最中に呑気にスマホで遊んでいるとはとても思えず、携帯を使っていたなら、誰かにコンタクトを取っていたと考えるのが妥当であろう。その相手が自分ではなかったことに、落胆がないわけではないが、だとすればその人物が有益な情報を握っている筈なのだ。
 初対面の人物から受ける唐突な追及に戸惑いながらユウキは慌てて首を横に振る。
「わ、わからないよ……ちょっと、そこまではさすがに」
 考えてみれば当然だろう。店員がむやみに客の通話に耳を傾けたり、あるいはメールの対話を覗き込んでいるわけはない。祥一は質問を変えた。
「じゃあ、行き先は? どこへ行くとか行ってませんでしたか? 場所の名前とか、何をするとか……」
「ちょっとタンマ。どうしちゃったんだよ、いきなりさあ。さっきまであんなクールだったのに、まるきり別人だな、お前。とにかくユウキの手を離してやれって、困ってんじゃん」
 慧生に割って入られ、仕方なく店員の腕を解放する。
「あ……すいません、つい……」
「いや、いいけど……秋彦っていうのが、あの男の子なんスよね。お連れさん、そんなヤバイんスか……でも、店長の知り合いなんスよね」
 ユウキが視線を石田に向ける。
「まあ、正確に言えば俺も知り合いってほどじゃあないんだけどな。そろそろ、理由を話してくれないか、峰君。いきなりやって来て、店先で騒がれては、こっちも困る。いくら秋彦君のカレシでもね」
「ああ道理で……」
 何かを察したようにユウキが頷く。いささか誤解を招いていたが、祥一は事件解決を優先し、速やかに事情を説明した。


「まさか、あの時の子が秋彦くんだったなんて」
 祥一が説明を終えると、いつから会話へ参加をしていたのやら、シンと呼ばれる青年が石田の傍らでしきりに頷いていた。シンこと、大谷晋三(おおたに しんぞう)は、ユウキと同じく『Marine Hall』のスタッフであり、美青年だが、よく見ると年齢不詳だった。年齢は不詳だが、十二年前の事件について新聞テレビ、あるいは口コミ等によるいくらかの事象をリアルタイムで知っており、それとは知らず、店の常連客としての秋彦へ親しく接していたことに、少なくないショックを受けているようだった。
 秋彦や彼の家族が巻き込まれた事件は、人々の好奇心を掻き立てる要素が多分に含まれており、世間が狭い地方都市においては住民の記憶に残り易いものだったのだろう。実際、秋彦と同い年である祥一も、本人の記憶としては皆無に近いが、長ずるにつれ、祖父を中心とした大人から幾つかの情報をヒントにネット検索などを経て、幼い秋彦の身に何が起こったのかを、本人の口から聞くより前に知っていた。父親に刑事を持つ江藤里子(えとう さとこ)などは、もっと詳しく知っているだろう。
「つまり、そのときの犯人があのオヤジってこと? それって超ヤバイじゃんか……」
「まあ、秋彦が言ってることも、なんとなく怖いとか目つきとかどれも漠然としたものばかりで鵜呑みにしていいものかは迷うんだが……」
 しかし、広中と会った日の夜、家の中にいてさえ怯えていた秋彦を見ていると、思いすごしだろうと切り捨て、安易に無視できるものでもない。
「秋彦がそうだって言ってんだろう? だったらソイツが犯人で決定だろうが、ちょっと待ってろ」
 さっさと結論付けると慧生がスマホを取り出し、誰かに連絡を始めた。暴論もいいところであり、どこに電話を架けているのかは知らないが、羨ましいぐらいの行動力だ。広中が霜月かどうかについて峰は何らの判断材料も持ちはしないが、当の秋彦が本来の明るい自分を見失い、情緒不安定になる原因が広中にあるのであれば、二人きりにさせてはおけない。その選択肢を秋彦自らとった理由もわかりはしないのだが、今は一刻も早く秋彦を連れ戻すことに集中するべきだろう。
「だが、はっきりしないのにいきなり犯人扱いはいかんぞ。とりあえずこっちでも出来る限り情報を集めてみよう。それから峰君、もしまだのようなら、秋彦君のおうちへ電話が最優先だ」
「わかりました。ご協力に感謝します」
 返答しながら祥一も携帯のアドレスを開いた。その間に慧生が電話を終える。
「もう少し探して見つからないなら、とりあえず警察へ相談しろってさ……あ、ちょっと待って」
 再びその手の携帯が光って慧生が電話に出た。液晶には進藤伊織と名前が表示されている。慧生の恋人兼ドクターか何かだ。
「あの店長……自分、もしかして大変なこと……」
「大丈夫だユウキ。お前は何も悪くない」
 事のなりゆきに責任を感じているらしい、若い店員を石田が慰めていた。石田の言う通りだが、どこかでもう少しその不自然な組み合わせの来店客に注意を彼が払ってくれていれば、こんなことになりはしなかったという思いが胸に込み上げてくる……それが理不尽な言い掛かりだとわかってはいても。
「山林警備隊が西峰寺前で、それらしい目撃情報を掴んだってさ。祥一、すぐ行くぞ」
「おう……」
 許した覚えもないのにいきなり名前で呼ばれて戸惑う祥一だったが、ひとまず出口へ向かう慧生を追い掛けた。


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