「逃げろ、秋彦っ!」
 声を掛け、二人が離れたと確認するや否や、残された広中へ肩から体当たりする。
「んむー……っ」
 自分もまた倒れ込んだ床から体勢を立て直していると、逃げたと思っていた人物が、想像よりもずっと近い位置で、何かを言おうとしていた。
「秋彦、逃げ……とにかく、少しでも離れてくれ……!」
「ぐっ……んぐっ……!」
 猿轡を噛まされ、手足を拘束されたままで、口も動きも自由が利かない秋彦が、僅か二メートルの近い位置に、動揺しきった様子で腰を下ろしている。咄嗟に拉致犯の手のうちから飛び出したはいいものの、救出に入った祥一を心配してか、格闘する二人を気にしているようだった。
「いいからっ……這ってでも離れるんだ……くそっ!」
 祥一に押し倒された衝撃から気を取り直した広中が、背中にしがみつき逆に祥一を下に押し付けようとしていた。必死に体勢を入れ替えて、祥一は拘束を逃れるが、今度は拳が顔に下りてくる。僅差のタイミングで急所を逃れたものの、したたかに打撃を食らった耳元が、ジンジンと痛みを発し、視界の利きにくい暗さの中で聴覚を狂わせていた。身体を捻って脱出を図ろうとするが、背後から予想以上に重い体重をかけられ、首の後ろから顎をロックされて、思うようにいかない……だんだん意識が朦朧としてくる。
「随分と無礼じゃないか? いきなり飛びかかって、暴力を振るうなんて、ただじゃすまないぞっ……」
 見当違いな非難が、アンバランスなほどの真剣さを伴って祥一を責め立てる。低く脅しをかけるような口調だった。
「ペドフィリアのストーカーである犯罪者が、どの口で言ってるんだ」
「おまけに侮辱か。すべては君が一方的にしたことだ。後悔させてやるから覚えておくんだな……!」
 本気で言っていることがわかるだけに、腹の底が冷えた。法的手続きをとって祥一に報復するという意味だと理解は出来るが、それ以前にこんなところへ未成年を監禁した上に拘束していることに対する罪悪感が、この男からはまるで感じられないのだ。基礎的な常識が広中は欠如していて、そんな男が秋彦に執着しているのだとすれば、その事実こそが祥一を震え上がらせた。
「えっ……」
 ふと視界の端に光るものが映り、意識がそれに集中した。
「僕と秋彦の邪魔をする奴は、許さないよ」
 次の瞬間、尖った細い金属が視界を過り、鍛え上げた腕のシャープな動きとともに、猛スピードで迫ってくる。条件反射で瞼をギュッ閉じ、咄嗟に首だけを動かす。すると、重い衝撃とともに背中へかかっていた体重が一気に軽くなり、頭の上で、硬質な物体が地面を弾く音を聞いた。ふと目を開けると、見慣れた横顔が自分の肩へ頬を乗せるようにして、上半身を預けている。ほぼ同時に納屋の引き違い戸が勢いよく開放され、警察や警備隊が突入して来る。
「確保!」
 太い声の号令とともに、ステンレスプレートを持った男達が、床から起きようとしている広中を取り囲んだ……いつのまにか、機動隊まで出動していたことに、未成年拉致監禁という事の大きさを、改めて実感した。
 機動隊員の間からスラリとしたスーツの男が飛び出し、既に拘束されている男へ飛びかかると、片膝で相手の腹に体重をかけて、手にした古い鋤の柄でその顎を押さえ付けて、再び地面に縫い止めた……進藤医師だった。鋤の柄で捉えられた男の右手が取られ、先ほどの巡査部長が手錠を嵌める。息の合った鮮やかな連係プレーだった……進藤医師の漁夫の利鋤ロックという必殺技の必要性はさておいて。
 ふと飛び起きて、疲労の色も顕わな友人を、抱き起こす。
「秋彦……」
 その口元は、まだ猿轡を噛まされたままだった。見ていられず、苦しそうな布を外してやりながら、見覚えのあるチェック柄だと気が付いた。コットン生地が、唾液の滲みを付けて、手に落ちる……どうやら自分のハンカチで口元を塞がれていたようだった。
「……間に合って、よかった」
 掠れた声でそう漏らしながら、秋彦がその目を地面へ向けた。視線を追うと、そこには先ほど祥一が投げた小型電気ドリルが無造作に落ちている。手のひらサイズの携帯用工具は、開放された納屋の出入り口より、いつの間にか到着していた警察車両が照射する、強いハイビームの中で、先端の金属を白く光らせていた。背後から押さえ付けられ、己の視界に猛スピードで迫っていた眩い金属の恐怖を思い出す。あとほんの少しタイミングが早ければ、電気ドリルが自らを傷付けていたのだと思い知り、血の気が引いた。そして口元と手足を拘束され、自由の利かない身体で、目の前の友人が身体を投げ出し、己の危機を救ったのだと気が付く……。途端に祥一は胸が締めつけられ、一層強い愛しさが込み上げるとともに、少なくない怒りが抑えられなかった。
「馬鹿ものが……怪我したら、いったいどうする気だったんだっ……」
 自分を傷つける以上に、ドリルの先は秋彦に刺さる可能性が強かったのだ。まして、縛られた状態の秋彦は、狙いを変えた広中によって攻撃を加えられても、逃げる術がなかったのだ。それを想像すると、恐ろしさで目の前が暗くなりそうだった。
「え……ちょっと酷くね? そもそもの原因は俺だとしても、一応峰君のピンチも俺は助けたつもりなんですけど……ってっ、あ……」
「無事でよかった……」
 自分へ体重を預けたままの目の前にある頼りない肢体を、祥一は渾身の力を込めて抱きしめた。そして、長めの髪に指を差し入れて顔の向きをを変えさせると、相手が拘束されたままであるのをいいことに、己の口唇を強く押し付ける。
「ちょっ……んっ……ふっ……」
 自由が利かない身体が一瞬強張り、微かな抵抗を感じたが、構わず祥一はその口唇を吸い続け、胸に溢れだしそうな万感の思いを存分に噛み締めた。


 縄目が痛々しい手首を、隣で擦り続ける秋彦に手を貸してやると、形の良い双眸が大きく見開かれ、照れ臭そうに顔を背けられたが、同時に互いの指がおずおずと絡みつき、まもなく掌が合わされた。自分からもそれをしっかりと握り返し、懐かしくも忌々しい思いを残した納屋を後にする。
「秋彦っ……!」
「おっと……」
 外へ出た瞬間、慧生がダッシュで駆け付けて秋彦に勢いよく抱きついた。秋彦は小柄な体重を弾みで受け止め、従って繋いだ手が、あっという間に外されてしまう……本当に傍迷惑なカップルだと祥一はつくづく思う。
 薄暗い納屋で、拘束されている秋彦を見たときは、その痛々しさい佇まいに、拉致した広中へ激しい怒りを感じた。同時に、まだ乱されていない衣類に、懸念が杞憂に終わったことへ少なからず安堵もした。そして再び自分の傍らへ秋彦が戻り、胸に抱きしめた瞬間、祥一は迷わず誓った……もう二度と放しはしないと。秋彦の心の裡に、たとえ誰が居座ろうとだ。祥一は衝動的に口唇を合わせ、始めは抵抗をしていた秋彦が、しなやかな身体から強張りを解いて、彼からも応えだしたとわかった途端、わざとらしい進藤の咳払いが耳に届き、漸く思いが通じあったに違いない筈の二人は、事件現場から速やかな退去を促された。
 付近にいた警官に手伝って貰い、漸く拘束が外れた秋彦を連れて出てくる途中、機動隊員に囲まれている広中を振り返った。その視線が自分を……いや隣を歩く秋彦を追っていると気が付いたとき、秋彦もまた、彼を拉致した犯人を見ているとわかった。

 秋彦……。

 くぐもった声はよく聞きとれなかったが、忌々しい口唇が確かにに彼の名前を呼んでいると確信した祥一は、再び秋彦を抱き寄せるように両腕を回し、その身体をしっかりと捕えた。そして悍ましい視線から彼を護るようにして、納屋を出たのだ。
「心配したぞ、この野郎め」
「悪かったから……おいおい、こんなことで泣くなよ」
 背丈の差がある慧生が、ボタンを留めたシャツの胸に自分の顔を擦りつけるようにしてしがみついている。秋彦は戸惑ったように細い両肩に手を置きながら、その顔を横から覗きこんで宥めていた。
「こんなことって何だよ、馬鹿!」
「ああ、すまない……言葉の綾だって……けど、泣くほど心配掛けてたなんて、ちょっと吃驚してさ」
「泣いてねえよ! ちょっと欠伸してただけだよっ……!」
「ああ、はいはい……」
 不意に背後がガヤガヤとして、振り返ると、突入していた機動隊員や警備隊員がぞろぞろと中から出てくる。ガッシリとした男達に囲まれ、項垂れた広中が連行されていた。不意に広中の顔が動きこちらを向こうとしていたので、咄嗟に祥一は秋彦を背後に隠した……二度とあの男の視線に、秋彦を晒したくはなかった。
 またね……。
「えっ……」
 その瞬間、男の口がそう動いたような気がした。


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