「峰?」
 現場の動きに気が付いた秋彦が、こちらを振り返り、表情を固くしている祥一に気が付いて名前を呼ぶ。その手には、まだ厚かましい慧生の両肩が捉えられていた。
 いつのまにか到着していたパトカーのドアが開かれ、連行された男を間に刑事達が乗り込む。同時に前の座席にも警官達が乗り込んで、速やかに車両は現場を離れた。行き先は自分達が入ってきた西峰寺の方角ではなく、住宅街へ通じる広い舗装道路だ。西峰寺を迂回しながら臨海公園駅近くの泰陽(たうよう)警察署へ向かうのだろう。
「なんでもない……俺達も帰ろう。香坂、そろそろ手を放してくれ」
「んだと、てめえ……僕がせっかく心配して……」
「わかっている。だが、おまえもいい加減にしないと、恋人に見られたら厄介だろう」
「そ……それは、そうだけど……でも……」
 まだ秋彦にしがみついたままの慧生は、シャツを握った手を、なぜか一層強く締めた……その手が震えていた。
「慧生……お前、どうかしたのか?」
「心配いらないぞ。お前の男なら中で犯人逮捕に大活躍していた。それは、かっこよかったぞ。当然、強いから怪我なんてしていない」
 祥一の言葉を聞くや否や、顔を真っ赤にして慧生は手を放した。
「あ、当たり前だろ! 伊織は誰より強くて、正しいんだから……僕は別に最初から心配なんて」
「わかったわかった。いいから行ってやれ。一仕事を終えて、お前の顔を見たがってると思うから」
「し、仕方ないな……どうしてもって言うならっ……」
 言い終える前に慧生が駈けだす。同時に中から出て来た進藤が、いきなり慧生に飛びつかれて倒れそうになっていた。
「行くぞ」
 隣の男に手を出してやる。
「ああ、……そうだな」
 掌が合わされ、握り返そうとした。その手を一旦放し、祥一は互いの五指を交差させるようにして握り直すと暗い農道を進む。
 現場を離れようとしたところで、例の巡査部長に呼び止められた。後日で良いからという条件付きで事情聴取を約束し、秋彦と共に住所や電話番号だけ伝えると、今度こそ西峰寺へ向かう。そして心配しながら待ってくれていた伯父の幸助へ簡単に報告を済ませた。結局解放から三十分の時間を要して、祥一達は漸く山門を後にした。
 そのまま駅へ向かおうとすると、指を絡めたままの手へ僅かに力が入る。秋彦の家は反対方向だ。相手の言いたいことはわかっていたから、祥一は自分から切り出した。
「今日は……この後の時間を俺にくれないか?」
 一瞬の沈黙があった。断られたとしても、強引に連れていくつもりではあったが、祥一が振り返る寸前に。
「わかった……お前に合わせる」
 穏やかな声で返事があり、顔を見るとこの上もない甘い笑顔が自分を見つめていた。
 指を絡めあったまま駅に到着し、祥一の実家とも違う学園口方面の電車へ乗った。何人かの乗客が自分達を興味深そうにチラチラと見ていたが、その間も指をしっかりと絡め合わせた手が、秋彦から放される気配はなかった。駅に到着し、まっすぐアパートへ向かう。
 外階段を上がり、二階の角部屋へ向かいかけ……その足を思わず止めた。
「おせーぞ、おいこら!」
「慧生っ!?」
「なんで、アイツらが……」
 茫然とする祥一の前で、再び秋彦は慧生に抱きつかれていた。その向こうから、どういうわけか『Marine Hall』の石田店長や大谷というスタッフもやって来る……手にはピザやビールが入った袋を提げていた。
「トモさんやシンさんまで……ええっと、まだ営業中なんじゃ……っていうか、どうしてここが……」
「さっきオマワリに言ってたじゃん。先にお前ん家行ったけど留守だったし、だったら多分カレシん家だろうなーって思ってさ」
 慧生が平然とのたまった。自分達が西峰寺で律儀に報告と挨拶を済ませている間に、とっとと先回りされていたようだった。……というより、犯罪捜査協力は市民の務めと思えばこそ信用して警察に伝えた自宅住所が、これほどあっさりと第三者に漏洩されるものとは思わなかった。胸にショックと警察不信という二つのキーワードが芽生え、祥一は強かに打ちのめされていた。
「秋彦君が誘拐されたっていうのに、呑気に営業している場合じゃないからね、すぐに店仕舞いして警察に連絡したり、心当たりを探したりしていたんだよ。いや、無事で本当によかった」
「心配したよお、秋彦君」
「すみません、トモさんやシンさんにまで迷惑かけてしまって……それで、一体何の準備です? これからどこかで宅飲みされるんですか? っていうか、慧生お前進藤先生は……」
「伊織なんか知るかよ! それより今日はパーっとやろうぜ」
 どうやら慧生は、忙しい男に放置され、不貞腐れてなぜか自分の家にやって来たらしい。
 慧生が背伸びをして秋彦の肩を抱き寄せる。その拍子に電車の中という公共交通機関ですら放れなかった互いの手が、いとも簡単に外れてしまった。
「えっ、また喧嘩……」
「大したもんじゃないが、これは俺の奢りだ。ささやかながら、事件解決と秋彦君の無事を祝して打ち上げをと思ってね」
「そそ、打ち上げ、打ち上げ。ピザだけで淋しいようなら、いつでも言ってね。僕が作ってあげるから……ナポリタンにチョコレートパフェ、クリームソーダ」
「人の家の台所を勝手に使おうとするな。……その前に、峰君だったね。いきなり押しかけて本当に申し訳ないんだが、そういうわけだから、少しばかり俺達もお邪魔していいかな。難しいようなら、また店に戻ってもいいし、もちろんぜひ君達も一緒に……」
 思い出したように石田店長が祥一に申し出る。祥一はまだ戸惑いを隠せない秋彦の横顔を見て、次に押しかけて来た面々を一人づつ見て回った。思わず溜息が出る。
 秋彦を心配していたのは自分だけではない。彼らとて皆、その無事が本当に嬉しいのだ。不器用ながらも案内を買って出てくれた慧生……彼が恋人に連絡をして、山林警備隊と警察が動かなければ、恐らく救出どころか、未だに秋彦の居場所も突き止められなかったことだろう……今頃秋彦がどうなっていたかを想像するだけで恐ろしい。そして捜査協力の為に店を早仕舞いしたという石田と大谷……。そんな彼らをどうして無碍に追い返すことが出来よう。
「ええ、どうぞ中へ……」
「申し訳ないんですが、今日のところは引き取って頂いていいですか」
 祥一が鍵を取り出し、アパートへ入って貰おうと足を踏み出したと同時、隣にいた秋彦が、正反対の返事をしていた。
「…………」
 日頃は誰よりもノリが良い秋彦の思わぬ拒絶に、場の空気が一瞬で凍りつく。
「秋彦、俺ならべつに……」
「ごめんなさい……日を改めて、みなさんへ必ずご挨拶に伺いますから」
 秋彦が静かに頭を下げる。
「あ、そ……そうだな、いきなり押しかけるってのも行儀が悪かった」
「そんなあ……せっかく秋彦君と飲めると思ったのに……いたっ」
「馬鹿野郎、空気を読め、空気を」
 石田が傍らの頭を小突きながら、大谷と連れだって先に階段を下りて行く。秋彦は下げていた頭を上げると、まっすぐ慧生を振り返った。見つめる先の小さな顔は俯き加減だ。
「ごめんな慧生……」
 呼びかけられた慧生は、一瞬目を泳がせたが、ふいっと顔を背けると。
「ば、馬鹿やろ、何言ってんだ……ま、せいぜいカレシと上手くやれよ」
「わかってるよ、じゃあな」
 小さな影も小走りに階段を下りて行き、間もなく前の二人に追い付いたらしい賑やかな会話が、夜風に乗って聞こえて来た。三人を見届けると、祥一は改めて鍵をドアの穴へ差し込んだ。
「驚かせてごめんな」
 秋彦がその傍らへ立ち、再び身体を寄せて来る。
「いいんだな……俺はもう制御が利かんぞ」
「そのつもりがなきゃ、こんな状況でここへは来ねえよ……祥一」
 祥一は目を見開く。再び呼ばれた姓ではない名前……振り返った瞬間、いつのまにか肩に掛けられていた腕に引き寄せられ、口唇が重ねられた。後ろ手にドアをしめるやいなや、その場へ秋彦を押し倒す。
「秋彦……」
 角度を変えながら、何度もその口唇を奪い、シャツの裾から差し込んだ手で滑らかな肌を弄った……肌がじんわりと汗ばんで冷えていた。


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