学園口駅前商店街に到着した頃、電話を着信した峰は『ラナペケーニャ』へ入るや否や、ガラケーを片手にトイレへ籠ってしまった。
「またかよ……」
 一緒にいるのに、どうにもこの日は峰とすれ違いばかりだった。ブラジル人も相変わらずで、誰から話しかけられてもまともな会話が成立しそうにない……俺を嫌っているのかと思ったが、どうやら彼も峰に劣らず人見知りが激しい性質のようだった。
 従ってということでもないのだろうが、撮影中は峰一人が忙しかったこの番組制作班では、打ち上げのスタートとともに、俺が二人のフォローに回ることとなってしまった。ギャラが出ないといっても、せっかく招いてくれた打ち上げなのだ。誰か一人だけでも、愛想を見せないと失礼だろう。
「秋彦君、ここのケーキ好きなんでしょう? はい、これお土産」
「うわあ、ありがとうございます。すいませんこんなことしてもらっちゃって」
 番組のゲストだった女性タレントのミユキさんから、Bonne Mamanが入った包みを渡され、俺は恐縮する。実はキャラメルタルトは少し苦手なのだが、厚意を無碍にはしたくなかった。
 突然、背後から強く身体を引き寄せられ、大きな声が耳元で聞こえる。
「なんだ、秋彦君はケーキが好きなのか?」
 彼は撮影時にはいなかったスポンサーで、なんと太陽電光(たいようでんこう)の茂木巴(もぎ ともえ)社長だった。
 太陽電光といえば、俺のアイドルであるラナFCの石見由信(いわみ よしのぶ)が所属していた地元企業で、そこの代表取締役というから俺も興味があった。出来れば茂木氏からJPNFL時代の石見の秘蔵エピソードなんかを聞き出し、懇意になって、いずれ石見に会えたりしたら最高だと思っていた俺の妄想は、『ラナペケーニャ』へ入店し、五分で脆くも崩れ去った。
「ああ、いや……ケーキっていうより、Bonne Mamanのファンなもので」
 擦りつけられた頬から顔を放しながら返答する。髭の剃り跡や、早くも酒臭い息が不快だった。
「なんだ、女の子みたいだな。そんなものが好きなら、私がいくらでも買ってやるぞ」
「いえ、おかまいなく……伯父がしょっちゅう買って来てくれるので、不自由はしてませんし」
 再び顔を擦りつけられ、俺は耐えきれず俯き、こっそりと顔を顰めてしまう。
 こんな野郎が石見の所属チームのトップだったのだから、まことに残念な話である。そりゃあ石見が出て行くのも無理はないだろう。公表されていないだけで、色々と苦労していたんじゃないかと、わがアイドルの心中をお察しした。
「そうなのかい? だったらフランスに連れて行ってやろう。今年のゴールデンウィークあたり、マルセイユかニースで過ごすっていうのはどうかな。それともアメリカがいいかい? おじさんがどこでも好きなところに連れて行ってあげるよ」
「ど、どうかお構いなく……」
 肩に置かれていた手がするすると背中を伝い、尻を撫でまわされた。セクハラ爺と二人で旅行など冗談ではない。マルセイユどころか、熱海に一泊しただけで、俺はバージンを守れる気がしなかった……まあ、バージンでもないのだが。
「若い子が遠慮なんてするもんじゃないよ? 海外が嫌なら熱海でも……」
「だからけっこうっ……いえ、どうかお気遣いなく……」
 声を荒げそうになった口元を手で抑えつつ、ひきつった笑顔を茂木氏へ向けると、今度は内腿へ侵入しようとする右手を捕まえ、握り締めた。すると何を考えた物か、逆にその手を握り返され、さらに別の手で膝頭を撫でまわされる。
 へるぷみ〜っっ、えすおーえす、ひゃくとーばんっ……心で我武者羅に救援信号を連打しつつ、全身全霊で男子トイレの表示を睨みつける。しかし、頼みの綱たる峰祥一は鋭意籠城続行中である……肝心なときに限って宛てにならない男である。
 ふと、生温かい感触が足から消え、思わず隣へ目を戻す。
「社長、そろそろユリエさんに連絡した方がいいんじゃないですか?」
「おっと、もうそんな時間か? まずいまずい、またユリちゃんがお冠だ」
 焦ったように立ちあがった茂木氏は、ジャケットからスマホを取り出しながら誰かに電話をかける。
「ユリちゃん?」
 若い愛人か誰かだろうかと思えば。
「あれであの人、相当の愛妻家でね……いや、恐妻家かな? 姉さん女房がこれまたかなり嫉妬深い上にラブラブなんだよ」
「ええっ……奥さんがユリちゃん!?」
 どう見ても六十歳を下らない茂木氏の、それも年上の奥方を、未だにちゃん付けで呼んでいる姿は、かなり滑稽だが。
「随分とからかわれていたようだね。大丈夫?」
 そう言って俺を助けてくれたらしい祥隆氏は、今まで茂木氏が座っていた隣へ腰を下ろしながら訊いてくれた。
「ははは……お蔭さまで。だいぶ手を焼きましたが」
 それでも指摘どおりからかわれていたのだとわかり、安心したような、腹立たしいような気持ちになった。相手は相当酔っていたようだから、ある程度は仕方ないかもしれないが、それにしたってものには限度がある。
「まあ、君はなんというか、妙な色気があるからね。気を付けないと」
「え……」
 間近に見つめられて俺は戸惑った。
 峰とよく似た顔立ち、よく似た瞳……それでいて、本人にはない大人の余裕が祥隆氏には備わっている。そのような視線で見つめられると、うっかり口説かれそうになってしまう……いや、口説いているつもりはないのかも知れないが。
 不意に咳払いが聞こえて視線を移すと、打ち上げ会場になっている個室の入り口に峰が立っていた。
「おや、おかえり」
「ああ、電話終わったのか?」
 質問しながら、無表情な峰があからさまに不機嫌な顔をしていることに気が付いた。
「ああ。……一体そこで何をなさっているんです?」
「え?」
「さあねえ」
 峰の質問の意味がわからず、言葉に窮していると、隣で祥隆氏が微妙な返答をした。どこか楽しそうな声だと思った。
 入り口の峰はますます剣を露わにしている。ガラケーを握りしめている右手が、微かに震えていると気が付いた。一体どうしたことだろう。
「ああ、いたいた。すみません、茂木社長が帰るそうなんで、ちょっといいですか?」
 不意に、峰の背後から八坂Pが顔を覗かせてそう告げると、誰にという呼びかけこそなかったが、祥隆さんが返事をして立ちあがり、ゆっくりと部屋から出て行く。あの性質が悪いセクハラ社長がユリちゃんの元へ帰ると聞いて、俺は密かにホッと胸を撫でおろしていた。
 まだ入り口に立っていた峰に目を向ける。
「なあ、ひょっとしてまりあちゃん……」
 不機嫌の理由が、あるいは珍しい兄妹喧嘩のせいかも知れないと勝手に予想を立てて訊いてやると、ふたたび聞き覚えのある着信音が鳴り響く。
「クソッ」
 吐き捨てるように呟くと、再び電話をとりながら峰が部屋を出て行った。それがまりあちゃんの専用メロディであることがわかっていただけに、俺は驚く。彼が溺愛している妹に対し、そのような態度を取るのは、非常に珍しかった。
 一人にされた俺は茂木社長がいなくなったことで少しばかり心にゆとりが出て、部屋から出てみる。
「秋彦君」
 途端に聞き慣れない声で名前を呼ばれ、振り返った直後、腹に冷たい感覚が伝わった。
「え……」
 甘ったるい匂いとともに、不快感がジワジワと胴に広がる。見下ろすと、白地にチェック柄のシャツが大きなピンク色に染められ、肌に張り付いていた。目の前に立っているブラジル人が、気味の悪い笑顔と共に俺を見上げている。
「いい気味」
 小さな右手には、空にされたコリンズグラス……その中身をわざとひっかけられたのだと理解した。
 ブラジル人が何食わぬ顔をして踵を返そうとする。ここにきて、俺は我慢の限界が来ていた。
「てめぇっ、何しやがんだっ!」
 相手の細い肩を掴んで振り向かせ、利き手でその襟元を締め上げると、整った小さな顔が不快に歪んだ。自分との体格差と、怯えたような表情に不意を突かれ、俺はつい、握った拳を緩める。するとひやりとした感触がその手首に伝わり、次の瞬間激痛が走った。
「いってぇえええっ」
 慌てて右手を引っ込めると、腕にくっきり歯型が付けられていた。
「良い気になるなよ、泥棒猫!」
「ど、どろっ……!?」
 まるで昼ドラの修羅場かと間違うようなセリフを真正面からぶつけられ、どっちが猫だと言いたくなる歯型を俺に残した少年は、ふいっと顔を背けて、今度こそ去ってしまう。

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