「ああ、気持ち悪ぃ……」
 チェリーリキュールの甘ったるい匂いに顔をしかめながらシャツを脱ぐ。そして、気を利かせた柿元が手渡してくれたおしぼりで肌を拭った。べたつく胸や腹を拭きながら、背の高いコリンズグラスでかけられた南国風のカクテルが、ベルトを通り越し、デニムの腰や腿にまでも滲みこんでいることを承知する。
「クソッ……どうすんだよこれ」
 シャツはトイレで洗うとしても、さすがに人前で下まで脱ぐことは出来ないだろう。
「おい、入るぞ」
 ノックとともに呼びかけられ、暗い部屋に通路の光が差し込む。逆光だったが、声で峰だとわかった。
「電話やっと終わったのか……あ、いや……ええと、ごめん……」
 話しかける声が自分でも苛々していると気が付いて、語尾が小さくなる。
「いや、……謝らなきゃならんのは、俺の方だから。貸してみろ」
「え……ああ、サンキュ。けど、どういう意味なんだ?」
 足元を指差され、フロアから汚れたシャツを拾って手渡すと、峰はガラステーブルに広げてトントンと叩くようにおしぼりを押し付けた。滲み抜きの要領だ。
 シャツを拭きながら、峰は俺の質問へ答え始めた。それは俺が初めて聞く、祥隆氏と峰家の関わりについての話だった。
「昔から祖父さんは、ある意味峰家のトラブルメーカーなんだ……まあ、トラブルメーカーってのは、何も祖父さんに限ったことじゃないけどな」
「そうなのか……」
 おそらくは女性家族が引き起こす峰一族としての不満と見解なのだろうと想像しつつも、適度に近しい友人として俺は返答に困り、いい加減な相槌を打った。それにしても、かの祥隆氏を差してトラブルメーカーとは、どういう了見なのだろうか。峰は話を続ける。
「祖父さんは西峰寺の救世主だ。地方の一都市で、観光収入も大して多くはない寺が、檀家のお布施だけでやっていける筈もない。裏山を含め、敷地だけは広く、文化財指定の建造物は、補助金があってもその維持管理料だけで馬鹿にならない。税金の免除もあるっていったって、出費の方がダントツに多い……当時、西峰寺は有体に言って潰れかけていたんだ」
「大変だったんだな」
 今や泰陽市を代表する歴史的名勝の西峰寺が、そう遠くはない昔、そこまでの存続の危機に見舞われていたと知って、俺は素直に驚いた。
「それを切りぬけたのは、一重に祖父さんの才覚と手腕ゆえだ」
「わかる気がする」
 峰祥隆は、西峰寺の先代住職として有名だが、同時にルポライターとしてアジアを中心とした世界各地を飛び回り、地元のケーブルテレビで活躍するテレビタレントでもある、多彩な人物だ。その知名度が西峰寺はもちろん、泰陽市の観光財源に繋がっていることは想像に難くない。
「道元は少欲を説き、過度な財を持たず道を究めろと教えた。しかし西峰寺は道元が認めた雲水の一衣一鉢すらもままならぬほど落ちぶれかけていた。そのピンチを救ったのが祖父さんだから、あの人がいなけりゃ、俺達に今の生活はなかっただろう」
「なるほど」
峰のたとえは例によってわかりにくいものだったが、俺は話の腰は折らずに先を促した。
「だが生来、祖父さんが言うところの、平等博愛の精神により、壮年期を過ぎて未だ……なんというか、恋多き人なんだ」
「へ……?」
 おしぼりを握りしめながら、俺はまじまじと峰を見た。
 店へ無断で、咄嗟に飛び込んだ個室は、電源もわからず、わずかに通路から忍び込んだ薄明かりのみが光源となっている。暗い室内で、入り口を背にして跪き、テーブルに広げた俺のシャツを拭き続ける峰の顔は完全な逆光で、その表情は伺い知れない。俺は惜しいと思った。無愛想と無表情がトレードマークの峰が口にするには、あまりに珍しい「恋」という単語を、本人は口籠りながら、一体どんな顔で言っているのか、確認することが出来ないのだから。
 じろじろ峰を見つめていると、ぼんやりとだが目が合ったような気配があり、続いて聞こえた咳払いがまた、彼の気不味さを雄弁に伝えてきた。しかし、直後に聞こえた話の続きは、けっして楽しいたぐいではなかった。
「……そんなこんなで、俺が物ごころついたころには、祖母さんが家出した……お蔭で未だに戻って来ない」
 そういえば、峰の口から祖母の話は聞いたことがないと、今更気が付いた。幼少期に両親を亡くした俺が言うのもどうかとは思うが、峰もわりと複雑な家庭事情の男だったというわけだ。
「そういうことだったのか……。お前が祖父さんにわだかまりを抱える気持ちが、俺にも理解出来たよ。お祖母さんには気の毒な話だし、孫としちゃあ、やっぱり会いたいよな」
 家族なのだから思慕があるだろう。この世にいないならどうしようもないが、峰の言い方から察すれば、彼の祖母はまだ存命しているのだ。それなら、生きているうちに会いたいと思うのは当然だ。祖父への尊敬からか、言葉こそ慎重に選んではいたが、要するに祥隆氏の浮気が原因で、夫婦は離婚に至ったと言う事だ。本当に小さな頃はきっと可愛がってくれたに違いない祖母を奪われたと、彼が祖父を恨まないとは限らない。そういう話なのだと俺が賛同で頷きかけたところ……。
「祖母さんとは年に数回、法事だ食事会だなんだで会ってるぞ」
「は? ……だって今戻って来ないって」
「頑固な人だからな。祖父さんが生きてる限り、峰家の敷居は跨がないと、会うたびに決意を聞かされる。……いや、女としちゃあ、当然だろうと俺も思うよ。正妻の顔を汚されたわけだからな」
 ついでに、別居に至って長くはあるが、峰家の籍は抜いていないと峰が続けた。名家の姓は、女が一人で生きていく上において、何かと便利らしい。不自然なこととはいえ、どちらに非があるかは歴然としているから、峰家側が何かを言える筈もなく、当の祥隆氏もこの問題から逃げまわっているようだ。
 話がますますディープになってきて、頭を抱えそうになる。
 ひとまず、軌道修正を試みた。
「はあ。あの……結局、何が問題なんだ? いや、問題があることは俺にも確かにわかるんだが」
 愛する祖母を不幸にした恨みがあるわけでもないのだとすると、峰が拘り、祖父に対しどのようなわだかまりを抱えているというのだろうか。
 峰の価値観がわからなくなってきた。
「さっきも言ったが、祖父さん言うところの平等博愛の精神ってのは、ちょっと伊達じゃない。あの人は誰とでも簡単に恋愛をする。……こう、人と会うだろ? で、互いに見つめ合う……それだけで、一瞬のうちに好きになる」
「あ、……なるほど」
 立ちあがった峰の声が間近に聞こえ、俺は相槌を打ちながら、彼が再現しているのだと気配で知った。顔がはっきり見えるわけではないが、俺はまた気不味くなるような気がして、さりげなく顔の向きを逸らすと、苦笑のような短い吐息を耳の傍で聞く……まいった。
「……祖父さんはきっと今現在、地上にいる愛人の数すらも、きっと自分で正確に把握していない。冗談抜きでな」
一瞬の間を挟み、峰が話を続けた。
「そんなにかよ……」
 冗談としか思えない派手な恋愛ぶりと聞かされ、そして冗談ではないことを付け加えられる。それでも、現実に対面してみれば、恋こそ人生といった祥隆氏の華やかな人生が信じられなくもない。還暦を過ぎてなお、若々しい風貌と、峰を快活にしたように端正なる造形と気質……おまけに、物言いたげにじっと目を見つめられ、口説き文句のような言葉を口にされれば……さきほど、自分で直に体験したひとときを思い出し、俺は納得した。直後に峰が入って来たからよかったようなものを、あれを暫く続けられたら、俺自身が祥隆氏に惑わされなかったと言い切れはしない。
 不意に金具の擦れ合う音が聞こえ、ウエストの周囲に微かな圧迫を感じて、俺は息を呑む。
「おい、動くな……」
 制止を聞きながらベルトを緩められ、俺は今度こそ抵抗した。
「おっ……お前、いきなり何して……」
「誤解するな。これも汚れてるから、拭いてやろうと言っているんだろ。それとも、このままやっていいのか? ベルトが大概ベタついているが、腰はまともにカクテルを被っているんじゃないのか? 俺はこの状態でやっても構わんが……」
「構う、構います……わかった、今脱ぐから……」
 俺はベルトに掛けられていた峰の手を引きはがし、一歩彼から離れると、焦りながらデニムを脱ぐ。おしぼりを手に持っているとはいえ、二人きりの状況で腰に触られたら、ちょっと理性を保つ自信がなかった。
 どうにも先ほどから妙な空気に流されかけている……峰のアパートで交わしたキスの感覚が、徐々に身体へ蘇っていた。
「うちはあくまで寺の人間だ。みんななんだかんだで仏教の思想が心に根付いている」
 手間取りながら服を脱ぐ俺の隣で、峰が淡々と話を続ける。けっして饒舌ではなく、まして自分のことなどほとんど語ったことがない峰が、この日は珍しく進んで家族について俺に教えようと務めていた。そんな気持ちが嬉しいようで、少し胸が痛んだ。峰が続ける。
「自己の確立、自立を哲学として、各人が自分のことは自分でするというのが、伝統的にうちの教えだ……もっとも、母やまりあといった女達は、必ずしも守り切れてるとは言えないけどな」
「まあ、そこは女の人だし」
 男と同じにはいかないだろうし、ある程度甘えてくれる方が、女性は可愛いらしくもある。
 ともあれ、峰の言いぶんを纏めれば、個人主義的といえる峰家の方針に彼は必ずしも批判的ではなく、それを今の世代に根付かせた人は、まちがいなく先代住職である祥隆氏なのだ。各人が自立して、家族と言えども干渉しない……そのような教えが、子供の頃から親に甘えない峰兄妹を育て、それは俺にも見習うべき部分が大いにある。しかし、だからと言って、夫婦関係までもが離別し、家族でありながら関係性が希薄になるというのは、絶対に間違っていると思う。それって、淋しいじゃないか……。
「問題は、祖父さんがその場限りの恋愛を繰り返し、呆れたことにすぐ忘れたとしても、相手は同じようにはいかないってことだ」
「それってつまり……」
 ここにきて、俺にも漸く問題が見えかけてきた。
「仕事でサンパウロに滞在していた祖父さんは、例によって現地の日系人をたぶらかした……未練が残った相手は、日本まで追い掛けて来たわけだ」
「まさかと思うが、その相手って……つうか、お前の祖父さん、実はそっちなのか?」
「概ね秋彦の想像通りだ。お前にしちゃあ、今回は勘が良かったな」
「そりゃあ、ブラジルなんて言われたら」
 つまり、件の泥棒猫少年が、ほかならぬ祥隆氏の火遊び相手の一人だったというわけである。そう考えれば、あの暴言や数々の非礼三昧がわからなくもない……もちろん誤解で、峰はともかく、彼の祖父たる祥隆氏と俺の間に何もあるわけはないのだが、祥隆氏の繊細な気遣いや思わせぶりな態度が、少年の嫉妬に繋がったのだろう。罪作りな人だ。
 そして、峰が俺に謝って来た理由も漸くはっきりした。無論彼に少しも非はないが、祥隆氏の親族として、彼は俺に不快な思いをさせたと、責任を感じてくれたのである。
「もちろん、祖父さんが同性愛者ってわけじゃあないけどな……ちょっと考えればわかるだろうが」
「あ……まあ、そりゃそっか」
 同性愛者なら、ここにそっくりの峰がいるわけもない。だが、俺も同性愛者のつもりはなかったが、男とそういう関係を築いたし、目の前の峰とも微妙な状態である。そして峰も……峰は、果たしてどうなのだろうか。
 これまで気にしなかった彼の性嗜好をぼんやりと考えながら、とうとう脱いだデニムを簡単に畳みながら峰に手渡そうとし……ふと、何かが床に当たる硬質な音と気配でハッとする。
「あ……まずい、鍵が……しまった、どこいったんだ」
「鍵?」
 デニムを受け取りながら峰が復唱して訊いてくる。

 08

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