「鍵だよ鍵! なんでか俺、持って来ちまって……ごめんな、うわぁ〜……暗くてわかんねぇ。店員……」
部屋の外にいる従業員に事情を話して明かりを点けてもらおうかと考え、自分が今パンイチであることを即座に思い出す。このまま部屋を出るわけにもいかず、服を着るのが先だとテーブルのシャツを拾いかけたところで、峰がそのテーブルごと大きく床の上をスライドさせた。弾みでシャツを床へ取り落としてしまう。ついでに、デニムを脱ぐときに、一緒に脱いでいたスニーカーが入り口まで床を転がった。
「今落とした物のことを言っているのなら、多分こっちだろ……ああ、このソファの奥かもな。秋彦、スマホ持ってるだろう? ……ああ、ここに入ってた」
言いながら峰が、手にしたデニムの尻のポケットへ入っていた俺のスマホを勝手に操作しながら、ソファの後ろを覗き込む。しかし、慣れない機械の操作が上手くいかず、中腰の姿勢で手間取っている様子は、後ろ姿からも容易に把握出来た。見ていられず、俺もソファへ膝立ちになりながら、傍に並ぶ。
「それさ、キーロックがかかった状態だと、すぐにバックライトも消えちまうんだよ。……なるほどね、携帯の光源を懐中電灯代わりにって発想ですか。さっすが峰君、あったまいぃ〜」
だが、機械操作に関しては、現代人ではないところが残念至極だ。
「じゃあ、キーロックとやらを解いてくれないか? 俺の携帯を使ってもいいんだが、スマホの方が、画面が明るいぶん、絶対有効だろう」
峰が場所を譲りながらスマホを返してきたので、俺は即座にロックを解除する。続いて。
「だったら、もっと便利な機能があんのよ。……じゃーん、どうだ峰。こんなもの、君のガラケーにはあるまい」
言った瞬間しまったと俺は後悔する。
「なるほど。フラッシュライトを利用した新機能だな、それは。じゃあ、俺のクソガラケーにはない、その素晴らしい最新機能を拝借して、さっそくお前の失くした探し物といこうではないか」
空気が一瞬にして冷え切っていた。峰のフマホコンプレックスをすっかり忘れていたと、激しく後悔する。しかしながら、やはりさすがのトーチライト機能というべきか、ソファの背後を覗きこんだ途端に、俺はそれらしいものをすぐに見付けることが出来た。
「うわ、くそ……見えてんのに、なんで拾う段階で、こうもあっさりと見失っちまうかね」
「そりゃあ、お前の手が影になって光を遮るからだろうな。……よし、場所がわかってるんなら手伝おう。お前が光源を固定していてくれ。俺が拾う」
言葉が聞こえるなり、背後から体重が圧し掛かって俺は焦った。
「ちょっと、お前……」
ボクサーショーツ一枚でソファへ膝立ちになり、その後ろから峰が背中へ覆い被さってくる。
「しっかり光を向けてくれ。見えないぞ」
「わ、わかってるけど……」
峰が話す度に左の鼓膜がまともに揺さぶられ、妙な感覚が沸き起こりそうになる。しかし、こういうときは意識すると負けだ……負けるわけにはいかない。俺はまだ、はっきりと答えを出したわけではないのだから。
全身の神経を目の前に集中し、俺はスマホを持ち直すと、さきほど光るものが見えてた辺りを照らした。鋭い光源がカーペットの凹凸を照らしだし、キラリと光るものを再び捉える。真横でぐっと首を覗きこませながら、峰が長い左腕を伸ばした。照射がとぎれとぎれになり、また見失いかける。俺はスマホの向きにやや角度を加えた。その瞬間、峰の指先がいいところを掠めたように感じられた。
「あっ……そこ……っ」
「ここか?」
峰がさらに腕を伸ばし、圧し掛かる体重がぐっと重さを増す。
「もう少し……違っ」
肩幅に開いていた膝の間へ、峰が割って入るように腰を密着させ、動く度にむずむずとした感覚が身体の芯から込み上げてくる。それが久しく遠のいている、覚えのある快感と繋がりそうな気がして、不安になった。
「よく、わからんが……」
そう言いながら、峰がさらに体重を掛けて来た。
「ちょっ……」
「秋彦?」
耳元で名前を呼ばれながら気配を伺われる……堪らず、とうとう体重を押し退けた。直後に背後で、ガラスのローテーブルが大きく動き、背中がふわりと軽くなった。
「何をする……」
後ろ向きに倒れた峰が、フロアで尻餅を突きながら倒れている。
「悪かった……けど、お前が密着してギュウギュウ圧し掛かって来るから、つい……」
その後、間もなく祥隆氏が部屋へ入って来て俺達を見付ける。
「それならソファを動かせば早いんじゃない?」
喧嘩をしたり、気不味くなったりしていた俺達は顔を見合わせ、言葉を失くした。なぜそんな簡単なことが思いつかなかったのかと。男三人でサクサクとソファを移動させ、あっさりと落とした鍵は見つかった。
「ああ、あった……すいません、どうも」
手伝ってくれた祥隆氏に頭を下げると、つくづくそっくりな顔が、孫はほとんど見せない、人の好さそうな笑顔で笑った。
「いやいや、すぐに見つかって良かったね」
「何を探してたのかと思えば、お前は……」
そして案の定、鍵の持ち主は呆れたような、多少怒りを含んだ声で溜息を吐く……まあ、当然だろう。しかし、失くしたのは彼も同じなのだから、あまり人の事を責められた立場ではないような気がするのだが……と、それこそ、いつのまにか盗んでいた俺が揶揄できる立場ではないので、思っても口にはしない。
「ごめん……」
まずは謝りながら鍵を返す。
「まあ、気を付けろよ」
そう言いながら、なぜか鍵を持つ手を一瞬握り返し、ふたたび鳴りだした彼の携帯を耳に当てながら部屋を出て行った。またもや妹だ。
「いや……取り返さなくちゃ、駄目なんじゃね?」
首を捻りながら、どうしたものかと鍵を見つめた。
「ああ、来た来た……おいで、エドゥ」
聞き慣れない、ラテン風の名前に顔をあげた。入り口には、祥隆氏に呼ばれて、峰と入れ違いに小柄な少年が立っていた。
「エドゥ……?」
「…………っ」
俺が名前をリピートすると、ブラジル人は気不味そうに目を逸らす。
「秋彦君に言う事があるよね、エドゥ?」
すこしきつめの声で祥隆氏が促すと。
「……ごめん……なさい」
「へ……?」
蚊の鳴くような小さな声だったが、たしかにエドゥは俺に謝ってきた。あの気が強そうな少年が、首を項垂れしょげくりかえっている……とても同一人物には思えない。
「僕からもこの通り、お詫びを言わせてもらうよ……すまなかったね」
「いいえ、そんな……べつにどうってことないですよ、酷い怪我したってわけじゃなし」
野良猫のように噛みつかれはしたが、それとて、本気になった猫に比べれば大したことはない。何より、祥隆氏にまで頭を下げられては、これ以上意地を張るわけにもいかない。俺が焦りながら手を振ると。
「まあ、確かに孫が怪我をさせる少し前に、僕は君達を止めることが出来たようだし……いや、案外余計なお世話だったかもしれないけどね」
「えっ……あ、あの」
全身から変な汗が出そうで困った。この人は、一体何をどこまで把握しているのだろうか。
「とりあえず、エドゥが目のやり場に困っているみたいだから、これでも着る?」
「ああ、どうかお構いなく……」
「若い子が遠慮しなさんな。それとも、僕を誘惑したいのかな?」
相変わらず飄々とした風情で、祥隆氏が声に笑いを含ませながら言った。揶揄われていることは先刻承知の上だが、働き過ぎる勘と天然カサノヴァっぷりに、冷や汗をかかされっぱなしだ。
頭を下げながら、差し出されたジャケットをありがたく拝借しつつ、視界の隅でエドゥを一瞬捉える。俯き加減の小さな顔が、僅かに口唇を噛み締めているように見えて、気の毒に思えた。
どういう経緯によって、自分よりも年下のこの少年が、祥隆氏によって心を囚われたかはわからないが、その情熱的な恋は、些か一方的に過ぎないような気がした。恋多き人生を自認している祥隆氏の愛情とエドゥの恋情には温度差があるのかも知れない。そう考えると、峰が彼の祖父に示したともすれば反抗的で余所余所しい態度も、少し納得がいった。
「じゃあ仲直りしたところで、若い子同志、改めて自己紹介と行こうか」
俺達の複雑な心模様に露ほども気付く様子はなく、呑気そうな祥隆氏の音頭で、ほぼ無言の強制といった感じに、俺とエドゥは握手をさせられた。
「えと、じゃあ……原田秋彦です。っていうか、多分知ってるよね……」
言いながら、さきほどこのエドゥから名前を呼ばれていたことを思い出し、間の抜けたタイミングだと考えていた。エドゥが気にしていない様子で、華奢な指を絡めたまま、ハスキーな声で後に続く。
「時田三郎(ときた さぶろう)……」
「へ?」
そして、目の前の顔をまじまじと見つめると、ガイジンは同じ名前を、ごく真剣な顔で再び繰り返した。
「ああ、エドゥは学校で、そう名乗ってるんだよね。ほら、日系四世だから」
祥隆氏が改めてエドゥの本名を教えてくれた。正式にはエドゥアルド・三郎・カショエラ・時田という、実に長い名前になるらしく、学校では父方である日本名だけの方が馴染み易かろうということで、そう名乗っているようだった……というか、日本人にはない彫りの深さと、顔の小ささ、肌の浅黒さで、よりにもよって三郎はないだろうとツッコミたい気持ちでいっぱいなのだが……まあ、きっと三男なのだろう。
ちなみに母方はアマゾン川流域に今も住む、インディオの呪術師の家系らしく、彼の母親であるマリアマリアは、サンパウロのメセナ・ベルセーニョ大学ミスコンテストでベスト8に選ばれた美貌の持ち主ということだ……きっと美人ばかりが通っているのだろう。
「凄いなあ。……じゃあ、君もまじないとか呪いとか詳しかったりするの?」
アマゾンの呪術師と聞くと、なんとなくおどろおどろしい感じがする。
「さあね……なんだったら試してみる?」
「あ……いいえ、結構です」
長めの前髪からはしばみ色の瞳を細めて視線を捉えられ、祥隆氏から借りたジャケットの背中に、冷たい汗が流れ落ちるのを感じた俺だった。
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