ラセールへ顔を出してみると、夕食時を過ぎてやや落ち着いた厨房には料理長の藤林彌太郎(ふじばやし やたろう)とソムリエ長の佐々準之助(ささ じゅんのすけ)が、やや神妙な顔をして立ち話をしていた。
「お疲れ様です」
「黒木君じゃないか、ずいぶん早いね。ひょっとして気になって、様子を見にきた?」
「2012号室のゲストなら、もう上に行ったよ。……ああ、今は2105号室か」
 藤林料理長と佐々ソムリエ長が教えてくれる。どうやら狩尾達と入れ違いになったらしい。
「冬のアニバーサリーを注文していたと聞いたんですが……そうですか。いずれにしろ、この度は本当にご迷惑をおかけしました。飲料部の皆さんにもまた、改めてお詫びに伺います」
 改めて、二人に頭を下げる。
「いいって、いいって。その様子だと、チーフマネージャーにしつこく嫌味言われたんだろ。君が悪いわけじゃないのに、可哀相になあ」
「いえ、嫌味っていうか……まあ、俺が上手く収められなかったせいで、ハードクレームになったわけで。さすがに、インペリアル・スイートだとか、1985年のラベイとかの代金払わされるのは、ちょっと痛いですけど……」
「何それ。まさか黒木君、今回の騒ぎ代を請求されてるの?」
 藤林氏が聞き返し、すかさず佐々氏も前のめりになった。
「おいおい、何だよ、それ……そんなのアリなのか? おおかた馳部さんが、責任逃れをしたくて、君に無理難題押し付けてるだけだろ。支配人知ってんのかよ」
 どうやら、費用が私に請求されるという話については、馳部チーフマネージャーの独断だったらしい。しかし、話を聞いた彼らが興奮して支配人へ報告すると言い出してしまった為、私は焦った。
「あの……とりあえず、その件については、あとでまた、チーフマネージャーと話し合ってみますから」
 クレームの件は恐らく馳部氏に一任されているため、解決方法についても彼に決定権がある。だから何らかのペナルティが私に課されても、それは仕方ないと思っていた。さすがにインペリアル・スイートの宿泊費用を出せと言われたときは驚いたが、ハードクレームをここまでこじらせたこと自体初めてだった私にとっては、責任の取り方もそういうものかと受け止め、一応納得していたのだ。
 だから、藤林氏と佐々氏が怒りだしたことこそが意外であり、同時に私のことで怒ってくれる彼らの気持ちが嬉しくもあった。
 しかしこのときの私は、上司との関係をこれ以上悪化させたくない気持ちが勝っていて、金で解決するならそれでも構わないと考えた。あるいは私を懲らしめるために、チーフマネージャーが脅しただけにすぎず、案外本気ではなかった可能性だってある。
 いずれにしろ、これについては私が馳部氏と直接話し合うべきであり、部外者の彼らに任せるのは良くないだろう。
「まあ、黒木君がそう言うなら……。けど、あのゲストが誰なのか、もう知ってる?」
「狩尾修平の御子息……ですよね」
 まだ納得がいかない顔をしている佐々ソムリエ長に私は応えた。
「まあ相手が相手だから、馳部さんが焦る気持ちもわからなくはないよな」
 藤林料理長が溜息を吐く。
「けど、なまじ裕福な家庭に育ったから遊び方も半端じゃない。あの子……というより、その友達がだけど、ラセールでラベイの1985年を空けたことはもう知ってるんだよね?」
「はい、……並木から聞きました」
「引き続き、先ほど2105から二回目のルームサービスが入ってる。一回目はただのジュースだったが、今度は1969年のエノテークだぞ」
「…………」
 ソムリエ長から注文を聞かされて、私は暫く放心した。
 ドン・ペニリヨン・エノテーク……日本ではドンペリ・プラチナと呼ばれているシャンパンだ。
 葡萄の出来が良い年にのみ仕込まれ、なおかつ「プレニチュード」と呼ばれる、二回もしくは三回目の瓶内熟成ピークで出荷される。エノテークとは、モエシャンドン社の最も古いセラーの名称から来ており、そこに貯蔵されていたシャンパンというわけだ。そして1969年とは、やはり年間を通して気象条件が不安定であり、開花時期が遅れた上に畑が激しい嵐に見舞われ、葡萄の収穫が遅れた年だ。つまり、これもまた希少酒ということだ。
「まったく、大学生の癖に高い酒ばかりよく知ってるよな……さすがは代々代議士の家柄に育っている御曹司だ。それはともかくとして、大丈夫かねシャンパンばかり持っていって。あのゲスト、ほとんど何も食べてなかっただろう? とくにお連れの友達だが、部屋へ上がるとき、彼の肩に頼らなきゃ、歩けないほどだったじゃないか。これ以上飲むのは、お勧めできないがね……」
「そんなにですか?」
 思わず私が聞き返すと、神妙な顔で藤林料理長が頷いた。
 確かに、ろくに食べもしないでシャンパンばかり飲んでいれば、酔いもするだろう。
だが、並木の話ではオーダーした酒はフルボトルだ。二人で飲んでいたなら、そこまで乱れるほど酔うだろうか。体質にも寄るだろうから、何とも言えないが、いささか奇妙な気がした。
「まったくだな。ラベイは半分しか空けていなかったとはいえ、あの泥酔じゃ、何をしでかすことやらわかったものではない。黒木君、悪いが客室部の連中にも気に掛けるように言ってくれるかい?」
 佐々ソムリエ長の指示に私は頷くと。
「それはいいですが、あの……彼らはラベイの他に、なにか飲んでいたんですか?」
「ん? ……ああ、注文は確かグレープフルーツジュースだったよ。ああ、違った。レストランではジンジャーエールだ。そのあと、ルームサービスでグレープフルーツジュースを持って行ったんだ。……まったくふざけてるよな。せっかくのラベイは、半分しか口をつけていないなんて……それがどうかしたかい?」
 どうやらエノテークの前に、すでにルームサービスでグレープフルーツジュースを持って行ったらしい。それにしてもラベイ半分とジンジャーエールで、歩けないほどの泥酔というわけだ。
「同伴者は来店時から、どこかで飲んで来たとか……でしょうか」
「たしかに賑やかな客ではあったが、飲んで来たって感じじゃなかったぞ。威勢は良かったが、酒の匂いはしていなかった。俺が直接VIPへ通したから間違いない。……なるほど。確かに変だな」
 藤林料理長が私の疑問に同調してくれる。
「あの……ルームサービスですが、俺が直接部屋へ持って行ってもいいですか? さすがに気になるので」



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