**エピローグ3**

映画上映が終わり、退屈になったらしい鹿王(ろくおう)が、リモコンを弄って次の遊びを探し始めた。
シェードを少し持ち上げて外の様子を見る。
飛行機はわりと低空飛行を続けているのか、あるいは標高の高い山岳地帯を飛んでいるのかもしれないが、暗がりの中に道路の筋が見えるほど、はっきりとした山中の街並みが確認出来る。
こういった景色は来る時にも見た覚えがあるものの、ここからどのぐらいの時間で成田に到着するのかは、よくわからなかった。
ゲートで架かって来た電話のことを思い出す。
ヒデは今どこで何をしているのだろうか。
やっと思いが通じあえたと思ったのに、最後の彼の言葉は、まるで永遠の別れを予期しているようにさえ感じられた。
そして、どれほど自分が彼に溺れていたのか・・・嫌と言うぐらいに思い知らされた気がした。
ヒデ・・・会いたい。
再び会って・・・そうしたら、はっきりと彼に告げよう。
二度と君をはなさない・・・どこまでも付いて行くと。
「ほら」
不意に目の前に何かが差し出され、それを手に取る。
ペーパーバックのようだった。
座席のスポットライトを点けて中を確認するが、なんのことやらさっぱりわからない。
法律用語らしきものが、ズラズラと並んでいるということだけ、どうにかわかったのだが。
「ええと・・・残念ながら、一ケ月程度の留学では、こんな難しい本読めないよ・・・ありがとう。返すね」
「誰もお前に読めとは言っていない。そんなもの俺にも無理だとわかっている」
返した本を、再び突き出される。
「だったら何なんだよ?」
もう一度本を返すと、今度はカバーを見せるように、目の前に突き出された。
「『Lipski's Trial』。ルナが探していた本は、これじゃないのか?」
「えっと・・・あれ、なんか聞いたことあるな、それ」
「よく見ろ」
改めて本を手に取り、表紙を確認する。
黒いカバーに白い文字で、タイトルと著者が記してあった。
『Lipski's Trial』。
作家の名前はJames.F.Stephen。
ジェイムズ・スティーヴン・・・どこかで聞いたことがある。
「ジェム・・・?」
最初に頭に浮かんだ名前がそれだった。
「・・・の、父親だ」
「え?」
鹿王が何やら補足してきた。
「Lipski's Trial・・・つまりこれは、リプスキー事件の公判についての本。判事であり、当時、非常に批判を受けた裁判官、ジェイムズ・フィッツジェイムズ・スティーヴンが、彼なりの言い分を纏めた回顧録だ。事件が起きたのは1887年の6月、舞台はホワイトチャペルの身窄らしい安宿の屋内・・・エリザベス・ストライドの殺害現場、バーナー・ストリートのすぐ近所だったらしい。売春婦のミリアム・エンジェルが寝ている間に硝酸を掛けられ、それが元で亡くなった。下のベッドで寝ていたユダヤ人のリプスキーに容疑がかかり、逮捕をされたが、彼には動機も犯行を立証するような大した証拠もなかったんだ。審問にあたったのはウェイン・バクスター医師、公判を担当したのが、ジェムの父親であるミスター・ジャスティスこと、スティーヴン判事。・・・ちょっとしたリッパー・マニアならよく知っている事件だよ。ルナが目を付けるのは無理もない」
「へえ・・・ジェムのお父さんの本だったんだ」
裏表紙を見ると、第28版となっていた。
大した増刷数である。
「スティーヴンは有名な判事だからな。それにこのリプスキー事件と、もっと有名な『メイブリック事件』は、今でも英国の代表的誤審として、並び称されている。なぜああいうことが起きたのか、法律を学ぶ上で勉強したいって人は沢山いるんじゃないのか。そのスティーヴンが、誤審といわれる自らの公判について書いたのであれば、さらに読みたいって人は多いだろう」
「なるほど・・・でも、こんな本、姉上が読んだって面白くないと思うんだけど・・・」
姉の渡月はただの切り裂きジャックマニアで、法律の本を読んでいるところなど、見たこともない。
「まあな・・・ただ、そこに出て来る人物名は一介の巡査にいたるまで、切り裂きジャック事件と共通する部分が多い。ルナぐらいのマニアなら、それだけである一定の興味を保って読み進める気はするけどな・・・。いいじゃないか。とりあえず、お前はルナからこの本を買ってこいって言われていたんだろう? だったら、それを渡してやればいい」
「まあ・・・そうだけど。でも、どうして鹿王さんがこの本を・・・って、まさか、切り裂きジャックのマーケットに並んでいた本を買ったのは、鹿王さん・・・!?」
姉のミッションを遂行するために、到着早々ドックランズまで出向いたが、僕はこの本を見つけることが出来なかったのだ。
売却済みなら、当然である。
「勘違いするな。お前だって、その本が増刷に増刷を重ねていることぐらい、今自分で確かめて知ったばかりだろう。それは希少本でもなんでもないんだよ。普通の本屋に行けばいくらでも売っている。まあ最近は電子図書やなんかが流通して、密林.comごときでは見つかるかどうか知らんが、少なくとも倫敦市内の本屋に行けば、在庫になかったとしても、取り寄せるのに苦労するような本ではない。・・・気にせず、渡してやってくれ」
「ありがとうございます・・・姉が喜ぶと思います」
「まあ、別にルナを喜ばせたいわけでもないんだけどな・・・それじゃあ、成田までまだ時間があると思うから、俺は寝る」
そう言って鹿王はブランケットを引き寄せると、なぜかこちらを向いて目を閉じてしまった。
モスグリーンの瞳に瞼が下ろされ、長い睫毛が頬にかかる。
荒々しい鷲がひとときの眠りに就くのを確認してから、僕も座席のスポットライトを消した。


End


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