その後まもなく遊覧船は船着き場へ到着した。 「二人だけで挙式を上げよう」 fin.
高めるだけ高められた俺の身体は、無情にもそのまま放置されていた。
理由は簡単。
クルージングが終了したからだ。
「さっさと服を直さないと、お袋さんが泣くぞ」
そう言われて、熱い体を堪えつつのろのろと身を起こしたときに、すでに船室からルシュディーは消えていた。
外でざわつく声が聞こえ、次には聞き覚えのある声がガヤガヤと階段から降りてくる。
俺は自分の身体を見下ろし、慌てふためいて服装を整えた。
身体じゅうがベタついている気がして、とても気持ちが悪い。
名前を呼ばれ、船室に今にも中へ入って来そうなお袋へ、俺は自分からそちらへ行くと声をかけて止めると、もどかしい腰の辺りを堪えながら出口へ急いだ。
「敬、何か落としたわよ」
出口に立っていた彼女がそう言って、足元でヒラヒラと風に舞う紙切れに気がついた。
拾ってみると、そこには「お代は確かに頂いた」といういやらしい伝言が、ボールペンで書きなぐられてあった。
俺はそのふざけた紙切れを手の中でひねりつぶしながら船室を出ると、お袋たちに続いて船を降り、橋から川へ向けて紙屑を捨てるつもりで腕を伸そうとする。
しかし、ふと伝言の裏に書かれているらしき数字に気が付き、再び広げて見ると、そこにはハイフンで結ばれている数字の羅列と、「その気があるなら連絡を待っている」というメッセージが控え目に添えてあった。
そしてしばらく思案した揚句、俺はその紙切れをジャケットのポケットに仕舞いこんだ。
エピローグ
”でも、そんなことをしたら君の家族が悲しんでしまう”
「君を手に入れられるなら、何も入らない。たとえ家族を苦しめても、俺は君が欲しい」
”それは本当?”
「もちろん本当さ。だから・・・」
「・・・・だから、俺と結婚しないか? 二人が出会った、思い出の大学のチャペルで」
不意に後ろから聞こえた声に、俺は驚いて入り口を振り返る。
「あんたは・・・」
そこに立っていたのは、先日もこのアパルトマンで見かけた日本人だった。
しかしここの住人ではない。
彼は確か・・・階下に住む日本人女子留学生の友人か・・・あるいは恋人かもしれない。
7ページ3行目のセリフを途中で俺から奪った男は、その上品で澄ました唇から沸き出でるに相応しい、透き通った声で言った。
「練習に精が出るのは結構だが、ドアも窓も開きっぱなしで、声がそこらじゅうに筒抜けだぞ」
そう言って彼が指さした先には、古ぼけたカーテンが揺らめいている開け放した西向きの窓。
茜色の空の下、モンマルトルの丘の上に聳え立つ白亜のサクレクール寺院が、まるで父親のようにパリの街を見下ろしている。
そして階下の女子留学生の部屋から立ち上ってくるらしい夕餉の匂いに、もうそんな時間だったかと気付かされる。
どうやら下のキッチンでは、ガーリックを使った何かの料理をしているようだった。
気が抜けて、思わずベッドに腰を下ろし、恥ずかしさに頭を掻く。
「それはすまない・・・五月蠅かったなら謝る」
「べつに構わないが・・・それって君が出演する映画の台本か何かかい? ゲイの恋愛ものとは珍しいな」
「違う、オーディションのだ・・・おい、勝手に入ってくるな」
俺の静止も聞かず、男はずかずかと部屋へ入ってくると、ベッドの横へ腰を下ろし俺の手元を覗きこんだ。
首を傾げた拍子に露わになった女のような項の細さに、ドキリとさせられる。
俺は焦って、思わず台本を隠した。
「なんだよ、よかったら練習相手になってやろうかと思ったのに。・・・・ところで君、それは伊達かい? それとも度入り?」
「度入りだ」
「だったらコンタクトか、せめてもっとスタイリッシュな眼鏡を勧めるよ」
「野暮ったくて悪かったな。君とは違ってそんな余裕はないんだ」
「裸眼じゃ何も見えないのかい?」
今度は下から覗きこむように俺に顔を近づけてくる。
俺は焦って身を仰け反らせた。
「どっちも0.1ない。・・・悪いけど邪魔しないでくれないか? オーディションまで時間がないんだ。窓なら閉めるから・・・」
「そうじゃないけど・・・」
そう言って、彼は勝手に俺の顔から眼鏡を外す。
「ほら、こうした方がずっとハンサムだ」
ぼやけた視界で、彼が微笑んだように見えた。
「返してくれ」
「悪かった・・・ところで、よかったら一緒に食事しないか? 実は律子に言われて君を誘いに来た」
「それはどうも、ありがとう・・・気持ちだけ頂いておく」
「そうか。残念だな・・・邪魔して悪かった」
そう言って彼は森律子の部屋へ帰って行った。
後にも先にも、近衛騏一郎が俺の部屋を訪ねてきたのはそのときだけだ。
しかし翌朝、郵便受けにコンタクトレンズのバーゲン広告とともに、「健闘を祈る」と書かれたメッセージカードが入っていて俺は噴き出した。
「お節介め」
それから1週間後、俺は慣れないコンタクトを入れて映画のオーディションに行った。
結果は・・・まあどうでもいいだろう。
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