Epilogue

「それじゃあ、また日曜な。気を付けて行けよ。変な奴に後をつけられないように、ダラダラ歩くんじゃねえぞ」
地下鉄駅まで来た俺は、肩から大きな鞄を提げている明日香に言った。
夕焼けを浴びるほの明るいドミニオン・シアターの壁面と、“We will Rock you”のサインを背中に、拳を振り上げながらスポットライトを浴びるフレディ像。
6時を回った金曜日のトテナムコートロードは、帰宅を急ぐビジネスマンと買い物客や、フレディ像を背景に記念撮影をしている観光客達で、非常に混雑していた。
階段の降り口で立ち止まって振り返り、苦笑しながら、彼女が軽く髪を掻き上げる。
何時の間にか、背中まで伸びていた、明日香のまっすぐな黒い髪がふわりと揺れて、辺りにシトラス系の匂いが広がった。
俺が知っている彼女の香りとは違う・・・・、現地で買い換えて使っているのであろう、シャンプーか整髪剤のせいだろうか。
「その言葉、そっくりそのまま畝傍君に返すわよ。ぼんやり歩いてると、怖いお兄さんや、変なオジサンに襲われるかも知れないから、せいぜい気を付けなさいよね」
学校の教材や、バイト先である日本料理店の着替えが入った重そうな鞄を、反対側の肩へかけ直しながら明日香が言った。
いつもこんな大荷物を持って異国の街を歩いているのかと思うと、可哀相な気がした。
ロンドン行きの機内で偶然に会ったジョニーが言っていた通りに、ここでの明日香の生活は多忙を極めていた。
昼間は学校、夕方はバイト、そして夜は寮で勉強。
週末も夕方からバイトがあるため、終日フリーというわけにはいかない。
土曜は英会話スクールへも通っているらしく、日曜夕方の便で俺は帰国するから、結局まともに会えるのは日曜の昼間ぐらいしかなかった。
それも、普段であれば、寮で勉強をしているところを、俺のために時間を割いてくれる様子だったのだ。
今日だって、校門で待ち伏せていた俺に、無理矢理付き合ってデートしてくれたようだった。
彼女はこのあと、すぐにバイトへ向かい、夕飯を食べるのは、10時過ぎに寮へ帰って勉強しながらになるそうだ。
おそらくは、本来であれば腹ごしらえや勉強に使うべき時間を、俺に付き合ってくれたというわけだろう。
なんだか邪魔をしに来たようで、本当に申し訳ない気分だった。
「なんでお兄さんとかオジサンに、男の俺が襲われないといけないんだよ・・・」
勢いで言い返しつつも、来る途中の機内で起きた出来事を思い出し、無意識に明日香から目を逸らしてしまう。
ましてや相手は、明日香の友人であるジャッキーこと、ジョン・ウィルキンソン・・・・あの、ジョニーである。
なぜ、ああいうことになってしまったのか・・・未だに自分で原因がわからない。
「あら、畝傍君って昔から男子にモテてたじゃない、香具山君とか、耳成君とか、いつも畝傍君の周りにいたし・・・」
「妙な言い方すんなよ、あいつらはダチだろうが」
香具山は俺が例のDVDを取り上げた野郎で、しょっちゅうレアなAV情報を入手してくるので、ときおり野郎と鑑賞会を開いていたのだ。
今は医学部で大忙しらしく、めっきり会うこともなくなり、ときどき返却催促メールをよこしてくるぐらいだ。
耳成生駒(みみなし いこま)も鑑賞会メンバーの一人だったが、大学が同じなので、彼とは今でもときどき飲みに行ったりする。
飲めば愚痴三昧の俺に、夜通し付き合ったり、終電を乗り外したときに、アパートへ泊めてくれたりする良い野郎だ。
寝相が相当に悪いやつで、朝起きると必ず俺の布団に潜り込んでいるのは困るのだが、まあ俺も寝ている間に脱いだりしているみたいだから、人のことは言えない。
先週、耳成の家で泊まったときには、朝目が覚めるとついに素っ裸になっていて焦ったものだ。
自分の部屋では一度もそんなことになっていないから・・・多分、アルコールが入りすぎると開放的なってしまうのだろう。
少し酒を控えた方がいいのかもしれない。
ふと、明日香が苦笑する。
「そう思っているなら、まあそれでいいけど・・・とにかく、変な人に絡まれそうになったら、走って逃げるか、迷わず大声出してお巡りさんを呼ぶのよ。日本と同じように考えてたら取り返しつかなくなっちゃうから・・・やだ、もう行かないと! じゃあね」
「あ、明日香・・・」
「なあに・・・あっ・・・」
振り向いた彼女に、軽く口唇を重ねる。
「・・・また夜、メールしていいか?」
「馬鹿ね。メールは毎日してるじゃない。・・・電話っていうのよ、そういうときには」
「ああ、・・・そうか」
「じゃあね、畝傍君・・・それと、さっきから携帯ずっと鳴りっぱなしよ」
指摘されて、漸くリュックのポケットに入れたままの携帯の存在に気が付いた。
「あ・・・」
雑踏が五月蠅くて、気付かなかったようだ。
「それ、さっきマダムタッソーでもずっと鳴ってたの、気付いてないでしょう?」
「そうなのか? ・・・わ、やべぇ・・・俺、超迷惑野郎」
「大丈夫じゃない? 賑やかなところだから。・・・じゃあ、あたし本当に行くね。・・・ジャッキーに宜しく言っておいてくれる?」
「えっ・・・」
俺は慌てて携帯を出してみる。
つい最近登録した名前と番号が、液晶に表示されていた。
「あれで彼、つい最近まで本当に元気がなかったのよ。カミングアウトしたことで、大好きだったお兄さんとすっかり上手くいかなくなって、大げんかの末に顔を痣だらけにして学校にやってきたりして・・・本当に見ていられなかった」
「なんかお前のメールで読んでいたのと、全然印象違うよな、ジョニーって・・・あ、ジャッキーか。恋人にDV受けてたとかいうから、俺は最初、女だと思ってたんだぞ」
「ジョニー・・・そっか、畝傍君はそう呼んでるんだよね。本当はそっちの方が好きみたいだけど、学校には古い友達がいっぱいいるから、ついみんなと同じようにあたしは呼んじゃってるの。多分、畝傍君はジョニーのままでいいと思うわよ。・・・でも、あたしDVなんて話した記憶ないんだけどなあ。・・・あたしが知っている限り、ジャッキーはずっとフリーみたいだし、元カレの話とか聞いてないし」
「おいおい、ちょっと待てよ。言ってたじゃないか。ええと・・・確か、ケヴィンって野郎から殴られて、すげぇ顔腫らして・・・でも、ジャッキーはケヴィンが今でも好きで、家を出られないとかなんとか・・・」
「だから、ケヴィンがジャッキーのお兄さんじゃない。カミングアウトして、大げんかしたときの話ね、それ・・・。あれからずっと、ジャッキーは元気がなくてね。みんなでハロウィンパーティーを計画して誘っても、俺がウィルキンソンを名乗ると、ケヴィンが嫌がるから、これはちょうど良いなんてことを言って、ジョン・ドゥの墓石を持ち歩いたり、ミイラ男は、死人も同然の俺にお似合いだと言ったり・・・ああ、やだ、本当に時間がないわ! とにかく、そんなジャッキーが、今じゃすっかり元の明るい彼に戻っているの。本当に・・・何があったのかしらね?」
「ああ・・・そうだな。じゃあ、マジで気を付けて行けよ」
「ええ、畝傍君も! 何かあったら、ジャッキーに守ってもらうのよ!」
そういって明日香が、小走りに地下鉄の階段をおりていった。
「てめえの彼氏を女扱いすんなっての・・・」
携帯の液晶を見る。
着信履歴は3件。
うち1件はメールで、ロンドン行きを伝え忘れていた香具山からの返却催促・・・どうやら前にメールを貰ってから、もう半年経つらしい。
あと2件はジョニーからだ。
かけ直すかどうしようかと迷って、そのまま携帯を仕舞い、日が暮れ始めたチャリングクロス・ロードを南へ向けて歩きだす。
「なんで、無視するんだよ」
交差点を渡ったところで、電話のかけ主と遭遇した。
黒革のライダースジャケットと黒デニム。
それは機内で初めて彼と会ったときとほとんど同じであり、また、夕べ彼の部屋で会ったときとも変わらない格好だった。
もっとも、今朝別れたときは、ベッドで裸のままダラダラしていた気がするが・・・。
「すぐに会うのが分かっているのに、なんでかけ直す必要があるんだよ・・・っていうか、待ち合わせ場所はエロス像の前だった筈だろ? なに勝手に動いてんだよ!」
「あそこ人が多いから何だか落ち着かなくてさ、観光客だらけだし・・・」
「だったらなんで、ピカデリー・サーカス指定したんだよ」
俺はどこでもよかったのに、場所を決めたのは、彼の方である。
「それはまあ、お上りさんには一番わかりやすいかなぁと・・・冗談、冗談。ちょっとね、さっきまであの辺りで、人と会ってたからさ」
ジョニーの顔が僅かに蔭る。
「それって・・・ええと、兄貴だったりするのか?」
目の前の男が、俺より頭ふたつ分上で、青い瞳を丸く見せながら不意に立ち止まった。
「そうか。明日香から聞いたんだね・・・」
「まあ、そうなんだが・・・。ええとさ・・・俺が差し出がましいこと言える立場じゃないってのは、わかってるんだが・・・やっぱ肉親同士で喧嘩したままってのは、良くないっつうか・・・」
「ああ、それなら・・・」
すぐにジョニーが話を遮ってきた。
「何も分かっちゃいないくせに、偉そうに説教垂れるつもりなんて、俺はないんだ。たださ、・・・・お前、兄貴のこと大好きなんだろ? だったら兄貴だって、本当はお前を愛してる筈だよ。なのに、こんなの悲しいじゃん・・・」
「畝傍・・・」
「けど、そう簡単な問題じゃないんだよな・・・。だからさ・・・・俺でよかったら、力になりたいっつうか・・・何も出来ねえけど、せめてお前が愛してる兄貴の代わりでいたいつうか、俺でよければお前の傍にいたいっていうか・・・ああいや、そうはいっても日曜には帰国しなきゃなんねえんだけど、・・・とりあえずそれまでは・・・って、えぇっ!?」
急に身体が強く締め付けられた。
往来のど真ん中・・・それも交通の超激しい、夕方のチャリングクロス・ロードで身長190センチを超えるジョニーが、男の俺を抱きしめているのである。
目立つなんてものじゃない。
「畝傍・・・」
「ちょ、ちょ、ちょっと・・・馬鹿野郎、放せっての・・・何すんだよ、いきなり!」
どうにか身体を捩って離れる。
ジョニーは目を細めて俺を見ていた・・・なんというか、身体の芯から温かくなってくるような、慈しみに満ちた表情だった。
こんな目で誰かに見られたのは初めてだ・・・いや、一度だけある。
出発の3日前、俺の告白を聞いた明日香が、これに近い表情をしていた。
「だって、俺の傍にいるって言ったのは君だろ?」
「だ、だからってな・・・いきなり、ソーホーのど真ん中で、抱きつく奴がいるかよ! 野郎同士で・・・」
「その野郎同士で、君は俺と・・・」
「アホ〜! それ以上言ったら殺す!」
俺は慌ててジョニーの口を両手で塞ぐ。
あっさりとその手を取って、またジョニーは俺の身体を引き寄せた。
そのまま再び、強い力で彼の腕に抱かれる。
今度はもがこうが暴れようが、放してくれそうになかった。
「俺だってケヴィンときちんと仲直りしたいんだ・・・今すぐは無理だけどね。それでも今の俺には君が傍にいてくれる・・・それだけで、幸せだよ」
そう言ってジョニーは、往来のど真ん中で俺の口唇を奪った。
直後に俺が目の前の大男を殴り倒したのは言うまでもない。
もっとも、その晩彼の部屋でしっかりと返り討ちに遭ったわけだが・・・。
翌朝、裸のままベッドでダウンしている俺にキスをして、部屋の主は午後からの授業へ出るために大学へ行った。
耳元に低い囁きを残して。
畝傍、愛していると・・・。

 

帰国した日の、夜のこと。
明日香がくれたメールでわかったことだが、金曜の夕方、ピカデリーのカフェにジョニーを呼び出したのは、ケヴィンの方だった。
話し合いは相変わらず平行線だったそうが、それまで2週間に亘り、ジョニーの誘いを無視し続けてきたケヴィンが、自ら彼を誘ってきただけでも、実は大きな前進だったそうである。
そして俺は、気になってすぐに明日香へ返信してみた。
俺たちが地下鉄の駅前で喋っていたとき、交差点の向こうにどうやらジョニーがいたらしいのだが、気付いていたかと・・・。
気付かなかった・・・とだけ、あっさりとした文章で、明日香が返事をくれたのは、翌日の夜になってからのこと。
俺はなんとなくその返信を鵜呑みにする気にはなれなかった。


End



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