「あなた成美の部屋で何をなさっているんですか?」
「うわっ・・・っと、・・・おかえり、美子さん」
思いがけず名を呼ばれて、桃色・・・いや、茶色の日記を取り落としそうになる。
後ろを振り向くと、入り口に立っている訪問着姿の女が、冷めた目で自分を見ていた。
「いつまでもそんなところにいると、また成美がうるさいですわよ。用がすんだなら、さっさと出ていらっしゃい」
「いや、何・・・その、ちょっと定規を借りようかと」
咄嗟に隠した日記を後ろ手で机の抽斗にそっと戻し、もう片方の手で隣にあった20センチ定規を手に持って見せた。
「定規なら書斎の窓辺に置いてあるマグカップに、ハサミやカッターといつも一緒に立ててあるでしょう」
「ああ、そうだったかね・・・」
とりあえず娘の部屋から出てゆく。
「ところで私、これからお花のお友達とお食事に行く予定ですから、お夕飯は勝手に何か作って食べて下さいまし」
「わかりました」
「成美は塾ですから帰りはまたどうせ10時過ぎです。お父様はそろそろお帰りになると思いますが、二人とも外で何か食べて来ると思います」
「はい・・・。その美子さん、最近成美に何か変わった様子ってないかなぁ・・・変な趣味にハマッってるとか、色っぽい男に興味を持ってるとか・・・」
「あの子も年頃ですから、そりゃ少しは異性に興味を持つでしょう」
「そういう意味では・・・あれ?」
「どうかなさったんですか?」
・・・何か忘れているような。
「いや、そういうことではなく・・・たとえば、マニアックな書物に夢中になっていたり、妙な店に出入りしていたりということは・・・」
「ハッキリ仰って下さいまし」
「ちょっと聞きたいんだが、・・・君は受けとか攻めとかという、何かの隠語のようなものを聞いたことはあるか」
その瞬間美子の目が月夜にキラリと光った。
「五十六さん、男が立ち入ってはならない女の聖域というものがあるのです」
ごくり。
「聖域ですか」
「無闇に人前でその言葉を口にするものではありませんわ。殿方にそれなりの覚悟がおありになるというのなら、その知を得るのも吝かではないでしょう。ですが、断じて父の立場で娘にその意味を知っていることを悟られてはなりませぬ・・・それほど罪深いものなのです」
「なんと」
「成美に引導を渡されたくなければ、直ちに引き返して下さいまし」
「そんなに・・・危険なのか」
「ええ、それはもう。私はこれからグランドイースタンのラセールへ行って参ります。火の元と戸締りを宜しくお願い致しますね・・・あら、誰でしょう。受話器が上がりっぱなし」
止める間もなく美子は受話器を元へ戻すと、佐賀綿の草履を履いて再度振り向き、行って参りますと声を掛けて出て行った。
fin.
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