無人の喫煙室に腰を下ろし、9階から目の前の通りを見下ろす。目に映る景色そのものは、カスタマーサービス部にある席近くの窓からと変わりはしないが、9階からの視点はやや新鮮だ。通勤途中で買ったばかりのパッケージを開封し、立ち上る煙草の匂いに、ささくれ立った神経が、少しだけ癒される。
すっかり慣れた工場から、コールセンターへの出向を言い渡された理由は、今考えると随分いい加減なものだった。コールセンターといっても任される仕事は事務だ。しかし、就職以来3年間も、青い作業衣でひたすら螺子を締めてきた男に、いきなり畑違いの事務をさせるというのは、あまりにも乱暴だろう。工場長の階上(はしかみ)が直接説明しに来てくれたことには畏れ入ったし、確かに彼が言うとおり、就職当時の研修内容は事務だった。だが、そんなものは3年も前の話で、研修期間の仕事など所謂経験のうちに入りはしないだろう。しかもあとから知ったが、通常研修は約1ヶ月あるというのに、自分はたった2週間で終了しているのだ。これだけ聞けば、研修中の成績が特別優秀だったか、あるいは配属先が猫の手も借りたい状態かのどちらかと思うだろう。ところが聞いてびっくりだ……研修期間中に籍を置いていた総務部の女子社員達から、気持ちが悪いと苦情が殺到して人事が根を上げたのだそうだ。それを知ったのは、第3工場に配属されて半年ほど経った時期のこと。たまたま立ち寄った事務室で、パートのおばちゃんたちが面白おかしく配送ドライバーと話していたのだ。まさか自分がすぐ後ろにいると思わなかったようで、焦りまくって、あとから意味不明の煎餅をこっそり一袋持ってきてくれたが、たぶん謝罪のつもりだったのだろう。
苫米地には錯乱紛いの大騒ぎをされ、電車で乗り合わせただけの見知らぬOLには痴漢未遂の疑惑をかけられ、義妹には部屋に鍵を取りつけられた上に外泊され、総務の女子社員から人事に苦情が殺到し……そんなに自分は気持ち悪いのかと溜息をくしかないが。
大方派遣OLが忘れて行ったのだろう、ゴテゴテとした装飾過多なフレームを持つ手鏡を手に取って己を映してみる。
20代半ばにして頭皮が透けて見えつつある薄い髪。色白の餅肌。はれぼったい瞼。締まりのない口元。やたら赤い口唇。ここには映っていないが、全身のスペックを数字で表すと、身長こそ172センチと並の高さだが、67キロの体重を占める主な原因は、けっして鍛え上げられた筋肉などではなく、間違いなく運動不足と不摂生によって貯まった脂肪が、薄い皮の下でだらしなく体型を弛ませている。自慢ではないが、最近は走ると乳が揺れていると、派遣のOLに笑われた。3年前に引きこもり生活からは脱出したものの、休日は相変わらず、アパートに籠ってネット三昧なのだから、当然、日焼けとは縁遠く身体が鍛えられる片鱗もない。そのくせ、人嫌いでちょっとしたことで何日も眠れぬほど思い悩む神経の細さ……だらしない体型と薄ハゲという、情けない容貌を築き上げる要素は、嫌になるほど心当たりがある。
「まあ、気持ち悪いよな……」
自分で自分の評価に納得がいって、誰のものとも知らない手鏡を元の場所へ戻した。こんな光景を社の人間に見られて鏡の持ち主であろう女性に密告されて、また大騒ぎされた日には、淋しい髪がさらに抜ける。
コールセンターで一時的に配属された場所は、6階のカスタマーサービス部。工場長自ら頭を下げにくる勢いで説得された出向だったが、畑違いの自分を配置させるからには、当然理由があった。カスタマーサービス部は、臨海公園駅前にあるコールセンターの、言わば心臓部といっていい場所で、顧客からのあらゆる電話対応を行っている。その中でも6階の会員サービス課は、主に郵便請求などに対応しており、フジエレクトロニクスのメンバーズクラブ会員による属性変更請求やDM等郵便物の不着連絡、あるいは取説や各種資料請求といった一般入電等に応じている。ほとんどはIVRという機械アナウンスでカバーしており、振り分けられた資料請求については直接専門センターに連携されて配送処理されるのだが、オペレーターに繋がったものだけが対話の上で手作業となる。そこでリクエストされた資料は部署内で郵便物を作成し、定時の社内便とともにメールセンターへ運ばれ、夜間に郵便局へ持ち込まれるのだ。そういった事務作業はこれまで派遣社員のリーダー達が電話の合間に行っていた。ところが春先にさしかかり入電数が激増して、受電率が目に見えて落ちたのだ。これはコールセンターにとって見逃せない大問題である。そこで、繁忙期の間、10名近くいるリーダー達にも受電へ専念してもらい、事務作業は社員のSV達で対応することになったが、彼らは派遣社員の業務管理やエスカレーションされたクレーム対応、各種資料作成、研修指導、部署間の連携、日誌作成等、諸々の日常業務もこなさないといけない。できれば短期の事務員を雇いたいところだが、派遣会社に募集広告を出してもらっている時間もないし、契約手続きにオリエンテーション等の入社儀式を一から行っている余裕もない。そこで、……要するに誰でも良いから、社内から一人、雑用係を引っ張ってほしいと人事に要望を出し、僕に白羽の矢が当たったと……給湯室でのお喋りや、電話待ちの派遣オペレーター達による無駄話を総合すると、このようないきさつだったようだ。
僕に任された仕事は、会員、非会員といった顧客から請求のあった、各郵便物の作成、折り返し電話依頼の割り振り、他部署との電話、FAXの連携、前日に処理された事務手続きのダブルチェック、午前、午後の社内便、備品管理……こんなところが主な仕事であり、つまり大きな責任に関わることはなく、量だけは多い諸々の単純な作業を、いかにテンポ良く効率的に進めていくかが課題だと……出向前に直接説明してくれた階上工場長はそう評していた。はたして、出向から1ヶ月が経過した僕に対する会員サービス課の反応はというと、日に4、5回は指摘を受ける、発送物の入れ間違いに、備品切れ、社内便の出し忘れに、社内間だからよかったようなものの、一歩間違えると個人情報流出に繋がりかねないFAXの宛先間違い……数え上げたらきりがない。
直接の教育係として主に携わっている百目木泉(どめき いずみ)の第一印象は神経質な痩身の男で、小奇麗にまとまっているイケメンといっていいような細面の眉間に常に深い皺を寄せながら、苛立ちも顕わに、毎日僕のミスを指摘していたが、最近では無表情がデフォルトと化している……どうやらいちいち苛々していると、神経が持たないと気付き、僕は間違えることが当たり前と、最近頭を切り替えたらしい。だが、その無表情から眉間の縦皺が完全に消え去ったというわけではなく、淡々と仕事をしている彼に僕が声をかけたときにだけ、眉間の縦皺を復活させながら、不快そうに美貌が振り返る。思えば最初の顔合わせでネームタグに書いてある彼の名前を「ひゃくめ(姓)きせん(名前)」と読み間違えた瞬間から因縁の火蓋が切って落とされたような気がする。恐らくはあまり器用な性格でないらしく、広いフロアの半分ほどを占有している、会員サービス課全域に、日に何度か響き渡る、「ヘァ〜ハッハッ」という、なんともぎこちない笑い声が、随分と大きく轟くことには、かなり驚かされたものだ。また、その声ときたら間が抜けており、おまけに音量の調節が効かないらしく、そのくせ律儀にきっちりと「ヘァ〜ハッハッ」という三音節で区切られるところが、心の底から笑っているのでもなければ、聞かされた者にとっては笑い慣れていないのだろうという哀れみすら誘われ、耳に付いて仕方がない。ついでに言うと、コールセンターという場所柄、クレーム対応中のオペレーターがヘッドセットのマイクで拾ってしまえば、厄介なことにもなりかねない……知る限り、そのような致命的被害にはなっていないようで幸いだが。ともかく、笑い声すら神経質な百目木青年であった。ちなみに彼は僕よりも2歳年下の23歳。入社二年目である。
百目木にとって、直接の先輩にあたる人物が鹿橋幟(ししばし のぼり)であり、第一印象はにこやかな好人物だった。会員サービス課をSVとして中心的にひっぱっている男であり、神経質な百目木とは違って、陽気な鹿橋は日常的にオペレーター達へ声をかけ、また各リーダーとの連携にも気を遣っている。万一、鹿橋の損失があれば、おそらく会員サービス課は大きなダメージを受けるであろうと思うほど、彼がこの課を中核となって運営している印象がある。だがもっとも口うるさいのも彼だ。百目木は相手が仕事を出来ないと見切った瞬間に、さっさと諦めてそれなりに接し方を変えるようだが、鹿橋はとにかく干渉してくる。加えて言葉が雑になり、ジョークに混ぜて愚弄する……もちろん男相手のときのみだ。干渉した結果として教育するというよりも、苛立ちを相手にぶつけて侮辱しているという方が表現は適切だろう。善し悪し両面であけっぴろげということなのかも知れない。そんな男だから、人との衝突も少なくない。とりわけ会員サービス課と連携の多い総合案内課には、どうやら彼が気に入らないSVがいるらしく、週に3日は内線で長々と喧嘩している。当課のリーダーが請け負い、総合案内課に連携された、厄介な既会員のクレーム対応が差し戻しされたときなど、どちらが担当するかで当日に3回戦交え、さらに翌週まで延々と喧々諤々、どちらかが思いつく度ごとに喧嘩をしていた。よくよく詳細を聞いてみると、会員サービス課より受けた折り返し電話依頼を、顧客の指定日から二日も過ぎて、なぜか総合案内課で架電していた。それに対して立腹した顧客から、最初の対応者がどのような連絡をしたのか直接話を聞きたいと申し出ており、真正直に総合案内課から差し戻されたようだった。しかしCTI(電話とコンピューターの統合システム)やCRM(顧客データ管理システム)の処理履歴を確認すると、会員サービス課からは通話終了直後に連携依頼されていたため、原因は総合案内課内部の割り振りミスにあった。そちらの失態なのだから、自分達でなんとかしろというのが鹿橋の言い分であるが、総合案内課では、顧客のリクエストが最優先と考えており、課内で収めきれなかった負い目はあるものの、同じ社内、まして部署内なのだからそこはカバーしてほしいと、当課に再連携したということのようだ。それに、最初に連携してきた担当者はリーダー職であり、クレーム対応も彼女の仕事である。課を跨いではいるが、社内で垣根を作っては風通しが悪くなる、という先方の言い分だ。とはいえ、リーダーはあくまで派遣社員だ。まして、顧客の折電指定日は本人の休日にも重なっている。派遣社員に休日出勤しろとは言えないし、そもそも彼女はミスなく処理している。間違えたのは総合案内課だろう、というのが鹿橋の言い分だった。結局この件は課内のSV、GMミーティングの結果、GM協議に持ち込まれ、最終的に鹿橋が処理したようである。ちなみに肝心の質問はというと、三年前に購入したエアコンから雑音がするので、修理もしくは新規購入したいというありがちな相談だった。この顧客が引き続き当社の商品を使い続けているか、あるいは他メーカーのエアコンに買い替えたかは不明であるが、とりあえずメンバーズクラブは脱会したようである。まあ、無理もないだろう。鹿橋は35歳でやや中年太りぎみの背が低い男だ。ついでにいうと、件の派遣リーダーは御手洗(みたらい)きよらという名の課内でも有名な美人女史であるが、鹿橋が色気を出して庇おうとした理由がどこにあるかは、邪推に留めておく。
会員サービス課のまとめ役はGMの枋木若鮎(こぼのき わかあゆ)。彼とは出向3日目に社内研修で一度呼び出されたきりで、同じ島にいてもあまり直接関わることがない。目の前で鹿橋が総合案内課と大喧嘩をしていても、相談されない限りはマイペースに自分の仕事へ没頭している。とっつきにくいというわけではないが、淡々としており、人物評がしにくい49歳だ。
カスタマーサービス部を纏めているのが、弘前銀二(ひろさき ぎんじ)部長で、日中は他部署や東京本社に出掛けていることが多いが、声が大きく陽気な話しぶりで、部署に戻っているとすぐにわかる。印象が薄い枋木GMは、この弘前部長に言わせると、完璧主義すぎて事が進まない、たまには見切り発車も必要だということらしい。
こういった人物達が席を占める6階窓際の片隅を、出向以来、僕が借りているわけである。
雑用中心とはいえ、百目木を呆れさせ鹿橋に愚弄させたように、僕の仕事ぶりは期待されるレベルからほど遠く、また、スピードにおいても鈍さが否めない。出向直後は慣れるまでの辛抱だと自分に言い聞かせ、今は残り2ヶ月の辛抱だと言い聞かせながら、現在は長すぎる先行きを思うたびに憂鬱に耽っている。ストレスでまた髪が薄くなるのではないかと溜息を吐いていた昨日の午後。
「俺の場合は休日出勤だの残業だので、ジムに行ってる時間がないってのが理由なんだけど、雲谷君のは何? 食べ過ぎ? 25でそれってどうなの?」
「まあ……ストレス的なものが原因みたいで」
「へえぇ、ストレスねえ……」
自分の鼻糞ほども仕事ができないくせに、何言ってやがんだ。こっちはお前のお蔭でストレス50倍増しだっつうの……とは、「ねえ」の後に続く、三点リーダーに隠され、丸い顔にありありと書かれていた感情を、僕なりに察して補足してみた内容だ。
「どうせ自分はお荷物ですよ。生きてる価値もない社会の生ゴミですよ。っていうか、生ゴミのほうがリサイクルされて堆肥に変わるぶん、まだ存在価値がありますよ……」
声に出して言ってから、また大きく溜息を吐く。
04
『短編・読切2』へ戻る