真が大八島総合病院へ到着したのは、外来の受付開始間もない、午前八時半過ぎのこと。ざわついている待合室を通り過ぎ、まっすぐに向かった先はナースセンターだ。忙しそうに動き回る白衣の中に、目的の人物がいないことを確認して、手近な一人を呼び止める。
「ごめんなさい、高天さんはまだですか?」
「あ、ええと……少々お待ち下さい」
新人らしい彼女は、あからさまに戸惑った顔をして、奥でカルテをチェックしている看護婦長へ確認をしに行った。間もなく婦長が現われ、高天毬矢は本日休みであることを聞かされる。
「ありがとう……忙しいのに、手を止めてごめんなさい」
姉妹同然に育った毬矢に薬の都合を付けてもらうつもりだった真は、諦めて帰ろうとした。しかし、立ち去り際に呼び止められる。
「真さん、何か問題があるなら、相談に乗りますよ」
皺の目立つ顔に、気遣いの色を滲ませて婦長はそう告げた。迷った真は、生理痛で鎮痛剤が欲しかったが、父とは顔を合わせたくない為、毬矢に相談しに来たのだと、咄嗟に嘘を吐く。
「わかりました。少し待っていて貰えますか?」
すると、意外なことに婦長はそう告げて、薬品棚から痛み止めを手渡してくれた。
「ありがとう……」
「一応二週間分ありますけど、もしも症状が改善されないなら、なるべく早くお診せになってくださいね」
「はい、そうします」
真の返事を聞いて少しは安心したのか、婦長は厳しい表情の目元にだけ、微かな笑みを浮かべて見送ってくれた。深く追求することなく鎮痛剤を提供してくれた彼女に、真は感謝をした。
その後外科病棟の医局へ向かった。昨日わざわざ自分を追い掛けてくれた夏月に、出来れば会っておきたかった。どう足掻いても、真は婚約者である彼を愛することは出来ないが、誠実な夏月に対し背を向けたままでいることは良くないと感じていた。アルシオン兵と格闘をしたときに痛めた左脚は、殆ど痛みが引いていたが、この際だから念の為に診てもらってもいいだろう。
医局へ向かい、若い医師へ声をかける。知らない顔だが、プレートには研修医と身分が明示されている。
「あの、……高天先生はいますか?」
質問を受けた研修医の表情が、滑稽なほどわかりやすく変わっていくと、真は感じた。
「えっと……その、先生は……ええと……先生は……」
研修医は顔を強張らせ、無意味に先生は、と繰り返す。
「何かあったんですか?」
真の胸に、不穏なわだかまりが広がっていく。
「おい、タカマさんの血液検査結果とレントゲン……、真さんッ……?」
研修医へ指示を出しながら入室してきた男を振り返ると、夏月の部下にあたる同僚医師だった。
「高天先生……どうかしたんですか?」
明らかに迂闊な発言を後悔しているように顔を歪める医師へ、真は尋ねた。
「驚いたよ、……ここへ来るのは久し振りだね。ひょっとして、高天先生に会いに来たのかな……ごめんね、ちょっと今は忙しくて、連絡は付かないと思う」
疲れた顔でそれらしい苦笑を口元に浮かべて、自分のデスクへ向かいながら医師が返した。回答がない。
「何か……あったんですね。高天先生、どこか悪いんですか……?」
「それはないから、安心して。申し訳ない。今も言ったが、ちょっと立て込んでいるんだ」
院長の娘であり、彼にとっては上司の婚約者でもある真へ、医師は強く言い放ち、拒絶の視線をまっすぐに向けた。すぐに出て行けということだ。仕方なく踵を返し、真は退出した。その足で再びナースステーションへ立ち寄ったが、婦長の姿はなく、それ以上を知ることは出来ずに病院を後にした。
話を終えて、真は緑茶を口に含むと、言葉を継ぐ。
「わかっているのはそれだけ。タカマって名字は、ありふれているほどではないけど、際立って稀でもない。だから、同姓の別人と言う可能性は充分に考えられると思う。ただ……」
真は長く溜息を吐いた。
「新人ナースと研修医の、極端なキョドり方が不自然っちゃあ不自然だよな」
いつの間にか討論に決着が付いたのか、あるいは結論を保留としたのか……。真の話を受けて大和は、恐らく真がそう感じ、胸に残っているわだかまりの原因であろう不審点を指摘した。
「あの……その毬矢さんっていう方のお住まいは、ご存じないんですか?」
「えっと……病院のすぐ近くだけど、今日は休みだって言ってたし、忙しいかも知れないから……」
高天兄妹は夏月の就職後、大八島家から独立して近所の借家へ転居していた。夏月に何かあったのであれば、妹の毬矢が知っている筈だろう。悠希の質問は、恐らくそれを指摘したものだろうが、懸念が事実なら毬矢も兄の入院準備や何かで忙しい可能性は高い。
「何言ってるんですか、だって、真さんは院長先生のお嬢様で、その方の婚約者なのでしょう? だったら、もっと堂々とされたらいいんじゃないんですか?」
「あ、知ってたんだ……」
珍しく真を叱咤する悠希の発言に、大和は茫然とする。どうやら既に、女同士だという認識は悠希にもあるらしかった。それでいて、態度を変えようとしないあたりは、問題がないわけではないが。
「お話のところどころで、そういう言葉が織り込まれていたじゃないですか。そりゃあ、わかりますよ」
「まあ、それもそうだな。……で、平気なのか?」
「平気って、何がです?」
「だってさ……真を婚約者に近付けちゃうようなことして、お前は心配じゃないのかなあって……」
言葉を濁しつつ、視線で悠希の様子を窺う。真に気がありそうな悠希を大和なりに気遣っているらしい。
「真さんの大事な方が大変な目に遭っていらっしゃるのだから、それを助けたいって思うのは、仲間として当然じゃないですか」
悠希が毅然と応えた。献身的でありながらきっぱりとした回答に、瑞穂は感心する。己の思慕以上に想い人の気持ちを優先させることは、なかなか出来るものではない。
「お前……、いいヤツだな」
「だって、あたしは既に助けてもらった立場だから、今度は自分の番だと思ってるだけですよ。それに……婚約者っていっても、ずっと一緒に暮らしてきて、その方とは兄妹みたいな関係なんですよね? だったら、あたしにとってもお兄さんみたいなもので……あっ、じゃなくて……」
慌てて言葉を切った悠希の顔が、みるみる赤く染まっていく。
「ハハハハ……なるほどな。まあ、お前の気持ちは充分に伝わったと思うから、いいんじゃないか?」
目の前で俯く小さな頭を優しく掌で撫でながら、大和は悠希を慰めたが、その肩は小刻みに震えていた。悠希の思考回路は、少々羨ましいほどに楽天的かもしれないが、彼女が心から真を思いやる優しい気持ちは、瑞穂に確かに伝わっていた。そして、本人にも。
「悠希、ありがとう」
そう言うと真は、悠希の進言に従い、もう一度大八島総合病院があるヒノデ町へ戻ることを決めた。
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