ヒノデ町にある住宅街の一画に、高天兄妹の住まいはあった。北側に四階建ての大八島総合病院と隣接する大八島家の屋敷を臨み、道路を挟んで向かいが、高天家という位置関係は、兄妹が独立しても尚、大八島家とは家族同然の付き合いであることを窺わせる。青い瓦屋根を持つ平屋の伝統的な家屋は、窓の数から想像して、せいぜい二LDKから三LDKといった規模だろうか。兄妹二人の生活空間としては充分だろう。
黒い門扉を押して玄関前に立ち、真がインターホンを押す。しかし一分ほどそのまま待っても反応がない。瑞穂は辺りの様子を窺った。
玄関脇に作られたささやかな植え込みスペースには、松らしき大きな木と、土だけの植木鉢が三つ並んでいる。そのうちの二つには、可愛い花の写真を印刷された二種類のネームプレートが、それぞれの培養土のような焦げ茶色の土に差し込まれていた。何もないように見えて、実は種か球根が育てられているのだろう。玄関ポーチに設置されている郵便受けには、広告を折りこまれた新聞が入っている。夕刊の配達時間にはかなり早く、新聞の厚みと広告の量から察しても、それが、まだ抜きとられていない今朝の朝刊であるとすぐにわかった。
「留守でしょうかね……」
言いながら手を伸ばし、今度は悠希が二回目のインターホンを押した。間もなく家屋から籠った物音が聞こえ、引き戸の擦りガラス越しに、背が高い人影が確認できた。施錠が外され、緩慢な動きで玄関が開けられる。
「……君達か」
現われた人物は、高天夏月本人だった。
「あの、病院を休んでいるって、聞いて……」
戸惑いを隠せない様子で、真が来訪理由を告げる。無理もない。そこにいる男は、昨日の昼下がり、往診帰りに病院から真を追い掛け、公園へ颯爽と現われた婚約者と同じ人物には見えなかったからだ。
きっちりと分け目をつけられていた髪は、雑に乱れ、長めの前髪が鬱陶しそうに目を隠している。髭も剃られていない顔は、寝起きで洗顔もまだなのではないかと思わせた。着ている服はパジャマでこそなかったが、瑞穂は目の前にある白いシャツと灰色のスラックスに見覚えがあった。それは昨日、公園で夏月が着ていたものだ。いずれも皺だらけの装いは、頭髪や無精髭とともに極めてだらしなく、対峙する者に不快感を与える。何よりも身体じゅうから漂っているアルコール臭が尋常ではない。匂いに耐えられなかったのだろうか、前に立っていた悠希が遠慮気味に顔を背けたが、夏月本人はそれを気にする様子もなかった。
「ああ……ちょっと、寝られなかったからね。申し訳ないが、休ませてもらった。とりあえず、今日のところは、広田(ひろた)先生と交替してもらっている」
広田というのは、真を外科医局から追い出した夏月の同僚医師のことだろうかと、瑞穂は見当をつけた。今日のところは、彼と交替したのだと夏月は言う。つまり、明日以降については未定ということである。
「それって、毬矢も休んでることと、何か関係あるの? 毬矢は?」
真がその名前を出した途端、裸眼で視界が悪いせいか、それまで眇め気味だった夏月の双眸が、大きく見開かれた。
「毬矢は、今ここにいない」
消え入りそうな声でそれだけ言うと、次の瞬間には俯いてしまう。
「あの、……何かあったんですか? っていうか、その様子だと多分、メシも食ってないんじゃ……」
夏月の痛々しさを見兼ねた大和が気遣いを見せた。
「毬矢はどこにいるの?」
「病院だよ」
再び毬矢の居場所を確認した真に、夏月は答えを返す。
「そんな筈は……だって、婦長が毬矢も休みだって……」
「昨夜から三〇八号室にいる」
昨日公園で分かれた夏月が、仕事を終えて大八島総合病院を後にしたのは、日付も変わった深夜一時過ぎのことだ。徒歩五分もかからないこの借家へ、世帯主である夏月が帰った時、小さな古い家はひっそりと静まり返っていたと言う。
時間が時間のため、朝が早い妹はもう寝てしまったのだろうと思い、自室でジャケットとネクタイだけを外した彼は、風呂場へ向かおうとした。そして隣室の襖が僅かに開いていると気が付き、不思議と胸騒ぎを覚えて襖を開け、毬矢の顔を確認しようとした。そして、扉が開放された箪笥の手前で、中から滑り出て来るように、ダラリと仰向けに倒れている妹の姿を発見したのだ。
「最初は何が起きたのか、さっぱりわからなかった。……とにかく急いで毬矢を下ろし、呼吸と脈拍を確認して、蘇生処置をした。すぐに呼吸が再開されたのを確認して、大八島総合病院へ連絡したんだ。発見が早かったこともあって、間もなく意識は戻ったよ」
「そう……じゃあ、無事なのね。よかった」
説明を一通り受けて真はホッとした顔を見せる。
玄関先で立たせておくのも悪いからと、夏月は四人を中へ通してくれた。居間らしき八畳程度の部屋は畳が綺麗に保たれており、日頃の掃除は行き届いているのだと窺えた。だが、瑞穂達が通されたときには、中央の座卓にビールの空き缶が幾つも転がっており、夏月はそれを手早くゴミ袋へ収めて、布巾で拭ったその場所に、人数分の麦茶を出してくれた。
「でも……なぜ、毬矢さんはそんなことをなさったんでしょうね」
「だよな」
悠希が疑問を口にして、大和も同調する。
「理由はわかるの?」
真が訊くと、夏月は暗く俯いた。
「ああ……たぶんね。さっき家へ戻ってから毬矢の部屋を見たら、引き裂かれたブラウスとスカートが、ゴミ袋に入った状態で捨てられていた」
「それって、まさか…」
「妹は強姦されていた……犯人はアグリア人だ」
夏月はそう言うと、両手を震わせて額を覆ったきり再び沈黙した。
その後彼はときおり思い出したようにポツポツと話を続けていたが、やがて完全に口を閉ざしてしまい、ただ辛そうに俯いているだけだった。傷付いた男に、これ以上話を続けさせるのは残酷だろうと、誰が言いだすともなく高天家を辞する。
話を総合すると、こういうことだった。午後八時過ぎに退勤した毬矢は、職員通用口から表通りへ向かう途中、アグリア人達に茂みへ連れ込まれた。それは昼間に瑞穂達が休憩していた児童公園であり、夏月が真と話した場所だ。数十分に亘り暴行を受けた毬矢は、傷付いた身体を引き摺り自宅へ戻る。台所も風呂場も使用された痕跡はなかった為、何をするでもなく茫然と自室で過ごしていたのであろうと窺える彼女は、不意に思い立ち、箪笥のパイプへ帯留を括りつけて首吊りを決行した。
間もなく帰宅した夏月が意識のない彼女を発見して救命処置を施した。幸い発見は早く、すぐに呼吸と意識が戻った状態で、深夜一時前に大八島総合病院へ搬送された。
「毬矢さんを襲ったっていう連中って、たぶんチーセダでしょうね」
悠希が言った。
「だろうな……あいつら、警察が何も出来ないのをいいことに、やりたい放題しちゃってやがる」
言いながら、大和が地面を蹴り上げる。足元で群生するツユクサの紫が、ザワザワと揺れ動いた。
チーセダは正式名称をターリーチーセダという、ブトウレンを上部組織とするゴロツキ集団であり、アオガキ市では一番大きなアグリア人グループとなる。警察も軍も手出しが出来ず、国民を守る者がいないカミシロでは、アグリア人やアルシオン兵が引き起こす事件にカミシロ人が巻き込まれることは珍しくない。そんな状況で、もっとも蹂躙される弱者が女性や子供であることは、悲しい現実だ。
毬矢は真より一歳年下で、白衣姿を何度か目にしている瑞穂は、彼女が若く美しい女性であることを知っている。治安の悪い都市部で、若い女のひとり歩きが危険であることは、本人とて充分承知していたであろう。おそらく、自宅から徒歩五分以内である位置関係と、毎日通っている通勤路という意識が油断に繋がり、悲劇が起こったのではないか……そう瑞穂は理解した。
「とりあえず、後遺症もなく助かったのが、不幸中の幸いだな」
「そうね……発見が早くてよかったかも」
前を歩く大和と悠希の話に、瑞穂も頷く。
一命を取り留めた毬矢は、間もなく退院できるだろう。酷い体験をしたかもしれないが、これからは夜道に一層注意をするだろうし、ひょっとしたら夏月が送迎するかもしれない。あのような事件があったあとでは、病院がそれを咎めることもないだろう。
不意に気配のなくなった背後が気になり、瑞穂は振り返る。十メートルほど後方で真が立ち止っていた。
「真……?」
「どうかしたのか?」
瑞穂が呼びかけると、前の二人も気が付いて足を止めた。応答がない為、瑞穂は彼女の傍まで引き返す。
「ごめん……やっぱり、もう一回行ってみる」
「行くって、高天先生のとこ?」
瑞穂が訊き返すと、真は静かに首を横に振る。
「高天先生、毬矢に泣きながら責められたんだって……なんで死なせてくれなかったのかって」
あまり話さなくなった夏月に遠慮をして、高天家を辞する際、一番最後に出た真は、玄関で夏月から打ち明けられていた。意識が戻り、弱々しい力で自分の手を握り返す妹から、彼は非難されたのだ。
なんで、助けたりしたの……どうして、死なせてくれなかったの……、それが必死に心肺蘇生を行い、祈るような気持ちで意識が戻るのを待った揚句に、妹から聞かされた言葉だ。それを聞いた瞬間、瑞穂は夏月が憔悴していた本当の理由がわかったような気がした。
外科病棟の外階段を上がり、非常口から三階へ入ると、三〇八号室を目指す。
耳を澄ませても会話が聞こえない病室に、患者は眠っているのかもしれないと推測しつつ、静かに扉をスライドさせた。個室の部屋は壁際にベッドが寄せられ、点滴を受けている患者は、意外なことに枕を背に当てて起きていた。
「毬矢……?」
真が静かに呼びかけると、紙の様に白い顔をした細面が振り返った。
「真ちゃん……」
呼び返す声は弱々しいものだ。病院支給である浴衣タイプの入院服を着せられ、長い黒髪は一つに纏めて右肩に垂らされている。ベッドの傍には彼女の私物らしき、着替えのパジャマやバスタオル、洗面用具と、それらが入っていたのであろう、ボストンバッグが並べられ、キャスター付きのキャビネットの下段に収められていた。間違いなく、夏月が一度取りに戻ってここへ置いたものだ。点滴が終わるまでには、まだ相当時間がかかりそうだった。
ベッドへ視線を戻す。同時に白い首筋を取り巻く、生々しい鬱血を見てしまう。慌てて、瑞穂は視線を逸らそうとしたが、間の悪いことに毬矢と目が合ってしまった。
「あなた……」
何かを言いかけて、毬矢は言葉を切る。不意に背後で気配を感じ、振り返ると、入り口から大和と悠希が顔を覗かせている。
「何やってんのよ、そんなところで」
真が訊くと。
「いや、俺達が入っちゃってもいいもんかと思って……ちょっ、押すなよ!」
「前にいると、邪魔なんです」
悠希に押された大和は、大袈裟に転び、ベッドの傍へ跪いた。
「ちょっと、騒がしいわよ」
「いてて、ごめん。けど、あいつに押されて……」
そして毬矢の足元辺りでマットレスに手を突き、立ち上がろうとする。
「ひっ………」
次の瞬間妙な声が聞こえた。
「毬矢?」
「や……いや……」
「どうか、したの……えっ?」
振り返る瑞穂の手首に、毬矢の右手が巻きつき、握りしめられる。物凄い力だ。
「あの……、大丈夫ですか?」
心配そうに、大和も身を屈めて毬矢の様子を窺った。毬矢の視線が大和のものと交錯する……。
「っらないで……いや、いやよ……」
「毬矢、毬矢……どうしたの、大丈夫?」
「いやあああああああ、来ないでえええええええええっ……!」
点滴器具が倒されて、本格的に毬矢は暴れ出した。間もなく看護婦が入って来て、全員退室を命じられる。
あとからわかったことだが、暴行を受けた毬矢は夏月が帰ったあと、数度に亘って同じような騒動を引き起こしていた。診察で医師が入室するたび、彼女が悲鳴を上げて暴れる為、病院側は対処に困っていたようだ。
「もしかして、と思い、担当を女医に交替したところ、問題なく診察が出来ました。……原因が原因ですので、恐らく極端な男性恐怖症に陥ってしまったんだと思います」
年配看護婦に説明を受け、以後の見舞いは遠慮してほしいと、依頼系をとってはいたものの、事実上命令されて、とどめに病院からも退去を促された。表玄関から入っていれば、ナースセンターで止められたであろうところ、まるで侵入でもするが如くに、非常口を通じて入室したことが、なおさら印象を悪くしていたようだった。不仲である父親と真が、顔をなるべく合わさないためという理由であったとはいえ、結果的に神経過敏になっている患者を追い詰めることになったのだから、これには瑞穂達も言い訳ができなかった。
「でも、男性恐怖症なのに、高天先生は平気だったんですよね」
「そりゃお前、兄妹なんだから当たり前だろ……あれ、そういえば」
悠希に言いかえしながら、思い出したように大和が首を捻る。
辺りはすっかり夕闇に包まれている。初夏の風は生温く、朧げになりつつある児童公園の遊具が黒いシルエットとなり、やけに不気味だと瑞穂は思った。ここで毬矢は、アグリア人からレイプされたのだ。
女だけではない、この国では国籍を持つ国民こそが、いいように虐げられる。暴行され、蹂躙され、レイプされて、搾取されて……これまでも、これからも。あるいは永遠に、カミシロ人は虐げられ続けなければならないのだろうか。そのような目に遭わねばならない、いかなる咎があったというのか。ただ一度、戦争で負けただけだと言うのに。この呪われた連鎖を断ち切る術は、どこかに存在するのだろうか。
「なあ、ちょっといいか?」
不意に大和から肩を叩かれる。
「なに?」
「そういえば、毬矢さんお前のことも平気だったよな。っていうか、寧ろ俺から逃げる為に、お前に助けを求めちゃってた」
「そう……だっけ……?」
あまり覚えていないような言い方をしながら、指摘された内容に激しく動揺した。そういえば、大和はまだ知らない……と、瑞穂はその事実を思いだした。
「いってっ……おい、乱暴にするなよ!」
「あんたの手付きがいやらしそうに見えたのよ」
バチンと音が出るほど、真に強く弾かれて、大和が痛そうに手の甲を押さえながら引っ込める。そのまま真は、瑞穂を庇うように大和との間へ割り込んできた。
「何だよそれ、ひでぇな。普通に肩叩いただけだろう。下心あるときは、もっといやらしく抱いちゃうっての。つか、お前らの前でしないってば!」
「うわあ……そういうことだったんですか? 坊やサイテーですね。あたしも気にはなってたんですけど、こうなったら言っちゃいますね。つまり、毬矢さんは単なる男性恐怖症ではなく、悪い男が見分けられるんじゃないですか? つまり、本能的に女性へ害をなす男の人がわかってしまうんです。だから坊やは避けられたんですよ」
「んなわけねえでしょ! なんだよ、それって画期的じゃんよ! そんな病状あったら、医学的に解明して、学会で発表して、寧ろ世界中の女性が羅患出来ちゃうように普及を推し進めるべきだろ! っていうか、俺はともかく、担当男性医師までレイプ魔扱いすんじゃねえ!」
「自分が未来のレイプ犯だと認めましたね」
「そうじゃねえぇ……」
再び悠希と大和が賑やかに騒ぎながら、川沿いの道を歩きだした。何も悪くない大和が犯罪者予備軍扱いを受けているのは気の毒だったが、今の瑞穂に全てを明かす勇気はなかった。
二人の背中を見つめながら瑞穂は、十メートル近い間隔を空けて後に続く。隣には真が寄り添っていた。
「ありがとう……助けてくれて」
「いいわよ、あたしにはアンタの気持ちがよくわかるから」
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