手首に嵌めている時計のバックライトを点灯させ、二本の針の間に僅かな隙間が空いていることを確認すると、運転席の瑞穂は腕をおろし、慣れないスカートの裾を膝頭へ向けて引っ張った。そしてルームライトを点けると、ウィンドウの反射で服装をチェックする。襟足で髪を束ねているおぼろげな自分の顔と、柔らかそうな白いブラウスの生地。ふと首を捻ると、胸元のボタンをひとつ外した。
決行は零時ジャスト。時間までまだ少しの余裕がある。
ガラスに映り込む己の姿をぼんやりと見つめ、瑞穂は数時間前の出来事を思い出していた。前日に頼んでおいた物を実家から戻った真より受け取った瑞穂は、西湖ニットの休憩室で身に付けた。
「身長が殆ど同じだから心配はしてなかったけど、だいたい大丈夫そうね。寧ろちょっと大きいぐらいかしら」
自分の衣類を身につける瑞穂を目の前にして、真は微妙な感想を述べた。
「真が一応、レディース持ってることにも驚いたけど……、なんかすげえ完璧だな。俺、可笑しいのかな……瑞穂の胸にちょっとおっぱいまで見えてきちゃった」
魅入られているような大和の意見に、瑞穂は思わず胸の前を両手でガードする。
「そりゃ、私だって冠婚葬祭とかいろいろあるんだから、スカートやブラウスぐらいは持ってるわよ。いちおう化粧品とウィッグも持ってきたけど、髪はそこそこ長さがあるから、こうして纏めたらいけそうね」
「別に夜だし、髪とか化粧までは……」
焦る瑞穂の髪を襟足でギュッと束ねると、真は手首に巻いていたシンプルな白のシュシュで縛った。
「もう、俺には瑞穂が女にしか見えなくなった……」
「腹が立つほど、完全な女です」
鼻の下を伸ばしているようにすら聞こえる大和の隣で、憮然と腕を組みながら悠希も太鼓判を押す。苦笑して聞いていた真は、表情を引き締めると。
「そうね、化粧までは必要なさそう……。けど瑞穂、あんた本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。……この格好で酔っぱらい運転を装って車をぶつける。相手は若い女を襲いまくってるアグリア人だ。深夜の人目に付かない空き地で、こっちが女一人ってなると、ある程度は注意を引きつけられると思う」
瑞穂は言いながら腰を屈め、これも真から借りた黒いローヒールシューズに足を通した。ストッキングのせいか、若干靴の中で足が滑ったものの、バックルを留めれば収まりそうだった。こういうところも、真はぬかりがないと瑞穂は感心したが、足が中で滑るということは、真の方がサイズが大きい証拠だった。
「そりゃあそうでしょうけど……あんた自身が大丈夫かって心配してるのよ」
「車の中から出なければ大丈夫だし、男だってバレないだろうと思う。時間だけ稼いで、後は急発進で逃げる……そう説明したでしょう?」
「安心して下さい。たとえ目の前に今の瑞穂がいても、絶対誰も男だとは思いませんから。だいたい男の癖に細すぎです。なぜ女物が入るんですか。しかもウエスト、なにげにベルトで調節してませんか?」
黒いエナメルベルトとスカートの隙間を食い入るように見つめて、悠希が追及した。
「白いブラウスに黒いタイトスカートっていうシンプルさが、逆に色っぽく感じちゃう……悠希だとこうはいかない……いてッ!」
またしても太鼓判を押した大和が、右の脛を抱えて床で跳ねている。瑞穂は見逃していたが、おそらく悠希に足を蹴られたのだろう。安普請のプレハブが、大和がジャンプするたびに振動を響かせる。
「零時決行、五分後に現場脱出。何があっても車から出ない……これだけは絶対に守ってね。万一、車から引きずり出されそうになった場合は、時間に関係なく必ず逃げること。いい?」
「わかった」
言い含めるように注意され、瑞穂は頷いたが、年下の仲間を見つめる真の視線は、どこまでも心配そうだった。
それまでにも真は、何度も自分が役目を代わると言ってきたが、瑞穂は頑なに譲らなかった。強くはあっても真は女だ。それに形だけとはいえ婚約者もいる立場の彼女に、アグリア人達を挑発させるわけにはいかない。ましてや、高天兄妹にあのような悲劇があったばかりだ。真に万一のことがあれば、未だに意識が戻らない夏月に顔向けも出来ない。
昨夜同時刻に、念の為に現地で確認した結果、幸い夜間の監視は二人だけだった。交替が潜んでいるとしても、せいぜい四人から五人といったところだろう。顔まではわからなかったが、そこにいたのはいずれもアグリア人。おそらくブトウレンで間違いない。警戒の薄さは、鉄条網へ張り巡らした、セキュリティーセンサーのせいか、それとも警察すらも手出しできない無法者の彼らへ特攻する無謀な人間はいないと、胡坐を掻いているせいかもしれない。いずれにしろ、その事実はひとまず桜花の四人をほんの少し安心させた。
瑞穂は運転席のウィンドウを二十センチほどおろす。真には窓を開けるなと言われたが、あまり鉄壁ではこの作戦の意味がない。二十センチであれば、そこから瑞穂が引き摺り出される心配もないだろう。
時計を確認する。意を決するとエンジンを掛け、ヘッドライトを点灯させて、アクセルペダルへローヒールの足を置いた。
光の中に長いフェンスを見付けて瑞穂はハンドルを切る。同時にアクセルをさらに踏み込んで勢いを付けると、そのまま空地へ突っ込んだ。フェンスがなぎ倒されて、辺り一帯にサイレンが鳴り響く……この仕掛けであれば、反対側にいる真達にも、突撃を報せることが出来ただろうと瑞穂は幸いに感じた。
相手の行動は早かった。車が巨躯に囲まれる。
「おら、てめぇ、何やってんだ……!」
いきなり窓の隙間から、濃い体毛に覆われた太い腕を突っ込まれ、ブラウスの肩を強く掴まれた。揺さぶられた瑞穂は、うつ伏せていたハンドルからシートの背凭れへと上半身を引っ張られ、反射的に窓へ顔を向ける。
「おおっ? なんだ女か……」
肩を掴んでいた男の顔が、好色そうに眼を細めたことがわかった。
「まじかよ、……へぇ、別嬪じゃねえか」
隣に立っている男が窓に顔を近付け、じろじろと覗きこむ。
「姉ちゃん、ひょっとして酔っぱらいか? ヘタクソな運転しちゃって」
別の男の視線はもう少し下だ。開き気味の襟元から覗く、ブラウスと同じように白い肌をあからさまに凝視している。
気だるそうな動作を装いながら、瑞穂は男達の配置を確認した。ドアの前に三人と、左右のボンネット付近に二人ずつ……車の周りに集まった数は七人で、全員がアグリア人だ。思っていたよりずっと多い。これで全部かどうかもわからないが、とりあえずそうだと祈るしかない。そして、ここから彼らを立ち去らせてはいけない……。
瑞穂は肩へ置かれたままの手を乱暴に叩いて振り落とすと、相手を強く睨みつけた。
「五月蝿いな……馴れ馴れしく触んないでよ」
男の顔色がさっと変わる。周囲の雰囲気も、一瞬にして殺気立ったのがわかった。
「おい、いい度胸してんなあ……俺達が誰だかわかってんのか」
払われた腕を引っ込めた男は、黒いレザージャケットに覆われた肘を曲げて拳を握りしめると、吊りあがった独特の目を眇めて瑞穂を見おろす。ジャケットの下は何も着ておらず、ひたすら濃い体毛が、厚みのある上半身を覆っている
「三下のアグリア人が、何いきがってほざいてんのさ」
「誰が三下だ、こらぁ!」
男の隣にいたTシャツにアロハシャツという、いかにも三下風なアグリア人が、ガラスへ醜悪な顔を押しつけんばかりに近付けて吠えた。ぱっくりと裂かれているような大きな口から、言葉を繰り出す度に、赤々とした大きな舌と鋭い牙のような犬歯が剥き出しになり、瑞穂は腹の底から湧き上がってくる畏怖や不快感と闘った。
「ターリーチーセダって知らないのか? お前らはチーセダなんて勝手に縮めて呼んでるらしいが……」
「知らないよ、何のこと?」
レザージャケットに問われ、瑞穂は嘯いた。
「俺がリュヴェ・パジュ。ターリーチーセダのリーダーだ。お前、運が悪かったな……」
そういうとパジュは再びウィンドウから黒レザーに覆われた右腕を突っ込んだ。反射的に瑞穂は身を捩って襲撃を回避する……回避したつもりだった。
「えっ……」
「そうすると思っただろ」
パジュはニヤリと笑うと体毛に覆われた右手を広げて一旦腕を引っ込める。そしてグイッと拳を作りながらガラスの淵を握りしめると、そのまま力任せに引き寄せた。
「嘘ッ……?」
恐ろしいスピードでパワーウィンドウに亀裂が走り、あっという間に白い網目で車外の視界が潰されていく。バリバリと強化ガラスが割れて、ついには運転席のドアから窓ガラスがなくなった。深夜のアスファルト上には、たった今まで秋津家の自家用車に嵌められていたウィンドウのガラスが、細かな破片となって散らばっており、キラキラと街灯の光を反射させている。
ガラスの破片を踏みしめて、パジュが一層ドアへ近づいてくる。ぽっかりと空けられたウィンドウの枠へ、男の手が再びかけられると、唸り声をあげながらパジュがドアを外しにかかった。
「う、うわあ……滅茶苦茶だッ」
目の前で繰り広げられる破壊行為に、瑞穂は凍りつき茫然となる。
アグリア人の体格が自分達と異なることはわかっていた。しかし、ここまで身体能力に差があるとは思わなかった。いや……このパジュという男が特別なのかもしれない。片手で車からドアを外そうとしている男の腕は、主に焦げ茶色の長い体毛に覆われているが、その下で太い血管を張りめぐらせる固い筋肉は、底知れぬ力強さを漲らせていた。だが、パジュの周りで楽しげに彼を見守っているアグリア人達は、よく見るとそれほど筋肉の鎧を着ているようには思えない。もちろん、誰ひとりとして素手でやり合って、瑞穂が勝てる相手はいないだろうが。
シートの上で身を捩る振りをして、瑞穂は腕時計の時間を確認する。あと一分……。
空き地の奥では、ただでさえギリギリの時間で仲間達が計画を実行してくれている。ここは最低でも約束の五分間だけは、絶対に粘らないといけない。もっと長くてもいいぐらいだ。
背後で大きな金属が、アスファルトへぶつけられる音が聞こえた。次の瞬間シートが深く沈み、首筋へ生温かい息を吐きかけられる。
「邪魔な物はなくなったぜ……姉ちゃん、覚悟はいいな?」
耳元で低く囁かれて、瑞穂は背筋に悪寒が走った。脇の下に冷たい汗が流れ落ちる。後ろから腕が回り、胸をわしづかみにされた。
「嫌……ッ」
もう一度時計を見る。あと三十秒……だが、ここから本当に逃げ切れるのか?
相手の手を振り払おうとして、掌に鋭い痛みが襲った。
「何ッ……?」
「悪いなあ、ドア引っぺがすときに、ちっと切っちまってな……、せっかくの綺麗な服が汚れちまうなこれじゃ」
パジュの手の甲には、強化ガラスの破片が深々と突き刺さったままだった。むやみに引き抜くと、かなりの出血になりそうなほど大きな破片だったが、それすらもこの獣は意に介していないらしい。
胸元で蠢いていた手が、第二ボタンまで外していた襟の合わせ目を掴む。
「嫌だ、やめて……」
繊維を引き裂く鋭い音とともに、露わにされてしまう胸元。慌てて瑞穂は両手を交差させてその部分を庇う。
「そう恥ずかしがんなよ。ノーブラでこんな時間に一人でうろついてるってことは、最初からそのつもりなんだろ?」
肩を掴まれ、身体を仰向けに返された。手首を頭上に持ち上げられる。パジュは瑞穂の手首を左手一本で纏めて拘束すると、ガラスの突き刺さった右手で正面から胸を揉みはじめた。初めてされるその行為に瑞穂は眉を顰める。圧し掛かる体重は重く、押さえ付ける力は強く、到底跳ね除けられそうにない。
予定の時間はとっくに過ぎているだろう。しかし、このままではいつまで経っても脱出できない。薄い皮膚の上で這い回る大きな獣の手。硬い皮に包まれた太い五指は僅かな脂肪を摘まみあげ、突起を押し潰す。
「こっちも寂しそうだな」
そう言うと、パジュは顔を埋めて反対側の胸にも食らいついた。
「くっ……」
捲れ上がった口唇が乳首を捕え、そのまま強く吸い上げられる。ゾクゾクと背筋を這い上がる不快感に瑞穂は歯を食い縛った。
一瞬、脳裏に悲鳴を上げる毬矢の顔が過った。自分もこのまま嬲り物にされてしまうのだろうか……。
瑞穂は必死に視界を探って隙を探し続ける。
「へへっ……」
下卑た笑いが聞こえ、続いて足首をわし掴んだ手が、そのまま外側へ股間を広げようとしている意図を感じた。
「嫌っ……!」
瑞穂は足をバタバタと動かし暴れる。バックルの外れたローヒールが片方脱げ落ちた。
視界は相変わらず、目の前の大きな獣に塞がれており、他の連中がどこでどうしているのかはわからない。破れたストッキングの脚を這い上がろうとする手や、足首を掴もうとする手の動きだけが、生々しく瑞穂に状況を伝えてくる。瑞穂はとにかく足を動かして、それらを牽制し続けるしかなかった。
次の瞬間腰を強く掴まれ、動きを固定された。
「じゃじゃ馬もいい加減にしないと、度が過ぎちゃあ可愛くないぜ……」
パジュが正面から間近に瑞穂を覗きこんでいる。
両手は外側から瑞穂の太腿を掴んでおり、ストッキングの縫い目が露わになった両脚の間には、パジュの巨躯が割り込んでいた。瑞穂は脚を大きく広げて、その胴を挟み込むような、あられもない格好をさせられている。捲れ上がったスカートは腰の周りで皺となり、破れたブラウスは肩に引っ掻かっているだけで、さんざん弄ばれ色の変わった両方の胸は剥き出しだ。目を覆いたくなるような情けない光景である。
指の痕をつけられた胸から脇腹にかけて、一筋の赤い点線が描かれていることに気が付いた。鳩尾の上には、光を反射させている、鋭角的な物体も載っている。脚の付け根に指をめり込ませている獣の手の甲からは、ガラスの破片がなくなっていた。
咄嗟の判断だった。瑞穂は自由になっていた右手でその物体を掴むと、目の前の大きな顔を引き裂くように、一気に切りつけた。
「うわああああああああああああああッ」
ふわりと体重が遠のき、パジュが後頭部をドア枠にぶつけたのであろう衝撃音と、重い振動が車体を揺るがす。瑞穂は渾身の力を込めて、獣を車から蹴り出すと、エンジンをかけたままにしていた車のアクセルを踏み込んだ。
「逃がさねえぞ!」
三下が車の前へ躍り出る。構わずそれへ車体をぶつけると、アロハの男がボンネットへ乗りあげ、ハンドルを切った瞬間にアスファルトへ落ちていった。
一気にスピードを上げて、瑞穂は空き地を後にする。
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