「ここに新しく薬置いとくけど、今のでわかった?」
 頭の近くに小さな紙袋が置かれる気配を感じて、瑞穂は微かに首を振る。
「返事はないけど……とりあえず、まだお腹痛いようなら、薬飲みなさい。でも食事したあとでね。それと、替えのナプキンも置いておくから、二時間から三時間おきにトイレへ行くのよ」
 真に根気よく説明をされて、再び瑞穂は首だけ振り了解の返答とした。仲間が苦笑を残して、背後のドアを閉める。真が出て行ったようだ。
 あれから間もなく、瑞穂は真に救出された。全裸で血塗れの下腹部を抱えて蹲る瑞穂の姿は、さすがに真も事件と判断した。しかし、血の流れ方と比して大して傷がない陰部を確認すると、それまで本人が訴えていた断続的な腹痛から、彼女は速やかに状況を正しく把握した。
 初潮だとわかった真は丁寧に瑞穂の身体を拭い、清潔な服に着替えさせ、手持ちのナプキンを分けた。そのうえで月経について説明を聞かせる。
 同じ説明を十二歳の時に、念の為だと言って母から聞かされたことを瑞穂は思い出した。それから六年の間、身体の変化がなかった瑞穂は、学んだ第二次性徴についてすっかり忘れていたのだ。せめて乳房が膨らんできた昨年のうちに思い出すべきだったが、いずれにしろこの年になって瑞穂は漸く身体が成熟したということだ。それが自身の意識と異なる成熟であったことも、瑞穂のショックを大きくしていた。あんたのような身体の場合、成長が遅れることは、ときどきあるみたいだから……と、さまざまな症例を病院で知っており、自らもT弾の被害者である真は慰めてくれた。
 瑞穂の汚れ物を洗濯して、見回りに出かけたあと、真が出て行くのを待っていたかのようなタイミングで、扉をノックしてから大和が部屋に入ってきた。気不味そうに名前を呼ばれ、謝罪の言葉を述べたところを見ると、状況から瑞穂の身に何が起きたかを理解した真が、犯人を突き止めてそうとう彼を絞ったのだろう。
「もう、いいから……」
 固い声で短く返事をして出て行かせたものの、そう簡単に大和を許せる筈がなかった。
 彼を受け入れようとしたところまでは、瑞穂も合意だ。しかし優しさの足りない振る舞いに加え、あのような状態で一人屋外に置いて、逃げるように立ち去った大和の行動が、瑞穂を深く傷つけていた。大和を今でも好きかと問われれば、それは否定しない。ただ、少しの間だけ冷却期間を挟まなければ、瑞穂は思いを寄せる男の顔を、正面から見つめ返すことも出来そうになかった。
 瑞穂はこうなった今でさえ、意識としては男だ。十八年間を男として生きてきて、今さら女になることは不可能に思えた。
 昼過ぎになり、謝ろうと思っていた相手のほうから、桜花の拠点を訪ねて来た。
「戦争でもおっぱじめる気か?」
 青い顔をしてテーブルに突っ伏している瑞穂の傍に立ち、志貴は窓の外を眺めながら言った。どうやらパレット置き場でカチューシャSを見てきたらしい。
「兄さん、車壊した……ごめんなさい」
 力の出ない声で白状すると、片眉を上げながら兄が振り返る。
「随分と殊勝だな。悪いモンでも食ったのか? まあいい、修理台はおいおい払わせてやる。それより、あんなとこにデカブツを晒してちゃあ目に付いて仕方がない。……まったく、どこにロケット弾なんてぶっ放す気なんだ。射程距離が五キロ以上もあるんだぞ。とにかく、真が帰ってきたら、中へ移動させるように言っとけ」
「わかった……」
 ふらふらと立ち上がると、襟首を掴んで椅子に引き戻される。
「てめぇは座ってろ。せっかくのお宝までブッ壊す気か、馬鹿野郎が。それとな、ガキどもにしちゃあ今回のことは上出来だから誉めてやるが、報復には気をつけろよ。お前らが喧嘩を売った相手は、アルシオンも警察も手が出せないアグリア人マフィアだ。甘く見るな」
 警告をすると、志貴はそのまま出口へ向かった。
「帰るの?」
「あぁ? 何だ、お前は用があるのかよ」
 露骨に眉間を寄せて美貌が振り返る。
「俺が車壊したから、殴りに来たんじゃなかったのか……?」
 瑞穂が訊くと、ハッと短く息を吐きながら、志貴は肩を竦めてみせる。そんな姿ですら、嫌になるほど様になっている。どうして血が繋がった兄弟でありながら、この男と自分はここまで違うのだろうかと、瑞穂は思った。志貴と瑞穂は、顔立ちを除けば何から何まで違う事だらけだ。
「青い顔して弱ってる軟弱な野郎を殴って何になる。下らねえこと言ってないで、さっさと痛いところ治しちまえ。やることねえんなら、SRPGの取り扱い方法でも調べてろ、アホが」
 バタンと音を立ててドアが閉められる。鉄板を駈け下りる忙しない音が聞こえた。五分ほどの時差を挟んで、買い物から帰って来たらしい真が休憩室へ入ってくる。どうやら瑞穂の食事を準備してくれるようだ。間もなく、志貴の車が遠ざかっていくらしいエンジン音が聞こえ、まだ彼がいた事実に瑞穂は驚いた。車で電話でもしていたのだろうか。
 チーセダ襲撃についてミーティングがしたいと真に伝えると、おそらくあと二日から三日、長ければ四、五日近く生理が終わるまで時間がかかると言われた。うんざりしている瑞穂に、これまでの症状から察して、何日か腹痛が続く可能性があると言って真は追いうちをかける。暫く様子を見ようと提案され、瑞穂はぐったりと机に突っ伏しながら了承した。


 丸一日大人しく寝ていた瑞穂は、翌日には腹痛が治まり、マホロバ駅前へ買い物に出かけた。ドラッグストアで替えの生理用品やトイレットペーパー等を購入して出てみると、店の前で思いもかけない人物と遭遇して足を止めた。
「こんにちは」
 黒いナイロン袋の塊と、店名のロゴが入ったテープを貼りつけてある、十二ロールのトイレットペーパーを両手に提げて茫然と立ち止っている瑞穂に気付き、相手はにっこりと微笑みかけてきた。
「毬矢さん、もう大丈夫なの……?」
 水色のワンピースの上に、薄手の白いカーディガンを羽織った毬矢は、菫の花柄を刺繍した日傘を差して立っていた。同じような花柄になっているオーガンジーのスカーフが、ふんわりと首元を飾っている。彼女らしいフェミニンなコーディネイトに見えるが、それが痛々しい傷跡を隠すためのアイテムであることを瑞穂は知っている。
「ええ、その節はお騒がせしました」
 日傘を支えたまま静かに頭を下げた。長い黒髪が、ほっそりとした肩の上を音もなく静かに流れ落ちる。毬矢は昨日の午後に退院したばかりで、今しがた病院で支払いを済ませがてら、夏月の見舞いへ行ってきたと説明を続けた。
 あれから間もなく、彼女は夏月の身に何が起こったかを知ったようだ。真や婦長が心配させまいと看護婦たちへ緘口令を敷いたところで、同じ病院へ入院していれば、やはり隠しとおすには無理があったということだ。
「あの、夏月さんは……?」
 言葉を濁しながら瑞穂が尋ねるが、毬矢は静かに首を振って否定の応答に変えただけだった。まだ意識が戻らないということである。瑞穂もなんと続けて良いのかわからず、俯いて口を噤む。
「ねえ、それってここのでしょう?」
 毬矢が話を変えてきた。何を訊かれたのかわからず彼女の顔を見ると、毬矢の視線はまっすぐに瑞穂の手元へ注がれていた。
「ああ……うん。買い物に来たから」
「なるほど、そういうことだったのね」
 軽い口調で何かを納得したように言うと、毬矢は瑞穂を見上げてにっこり笑った。ますますわけがわからず、瑞穂は混乱するばかりだが、毬矢はそれ以上何も語らない。
 自分の手元を見下ろす。よくあるブランドのトイレットペーパーと、黒の塊。レジの担当者は、随分と繊細な感覚の持ち主らしく、頼みもしないのに生理用品を一度黒の袋で包んだあとで、さらにもう一度大きめの黒い袋で二重にするという徹底ぶりだった。過剰包装とすら言ってもいい。お蔭で外からは、何が入っているのかさっぱりわからない。少なくとも、ここへ自分が生理用品を買いに来たとは毬矢にわからないように思えた。だとすれば、トイレットペーパーの方だろうか……何か、評判の悪いブランドを気付かず、自分は買ってしまったのかもしれない。
 瑞穂が首を捻っていると、不意に毬矢は歩きだす。
「それじゃあ、予定があるから、真ちゃんによろしくね」
 慌てて後を追う。
「あの、毬矢さん……待って」
 サンダル履きの脚が、ゆっくりしたものとなり、毬矢が不思議そうに瑞穂を振り返った。避けるような雰囲気でもないが、足を止めることもないということは、本当に予定があるのだろう。瑞穂も毬矢に合わせて足を動かしながら、話を続けた。上手く言えないが、とりあえず伝えたいことがあった。
「いつになるかわからないけど、俺達、アイツらのこと、ここから出て行かせるから……必ず、みんなを守るから」
 高天兄妹の身に起きた悲劇を繰り返してはならない。同胞がこれ以上、理不尽に傷付けられることは我慢がならなかった。
 毬矢はぴたりと足を止める。
「守るって、どうやって……?」
 視線は伏し目がちに前を見据えたままだ。日傘が邪魔になって、表情はよくわからない。
「まとまった武器を手に入れたんだ。近いうちにチーセダに襲撃をかける。勝てるかどうかまではわからないけど、俺達だって黙ってないってこと、アイツらにわからせてやる」
「やめて」
 存外強い口調で毬矢に返され、瑞穂は戸惑った。
「毬矢さん……?」
「そんなことしても、兄さんの意識が戻るわけじゃない……」
「それは……そうだけど」
「アイツらを甘く見ないで。……本物のケダモノだから、絶対近づいちゃダメよ」
 ひんやりとした感覚が伝わって、手元を見下ろす。生理用品を提げている拳の上に、華奢な五指が労わるような繊細さで、優しく包み込もうとしていた。
 それだけ伝えると、今度こそ毬矢は帰っていった。ホウライ橋へ向かって遠ざかっていく菫の日傘を、瑞穂は複雑な気持ちで暫く見送る。
 甘く見るな……、という毬矢の心配は、奇しくも昨日の志貴に言われた忠告と同じであった。瑞穂は状況を甘く見ているのだろうか。
 一昨日の夜、瑞穂は直に接触したチーセダから、想像もしなかった屈辱と恐怖を味わった。計画自体にある程度の危険は織り込み済みだったのだから、覚悟の上の決行であり、桜花はそれに勝ったと言っていいだろう。
 甘く見ているのかもしれない。それでも、ここで怯んで立ち止っていたら、何のために進みだした一歩かわからない。
 悶々とした気持ちを抱える日々が続く。真と悠希は相変わらず、午前中は見回りを、午後からは陸軍兵の恩人探しをという日々を共に過ごし、大和はずっと廃工場へ顔を出さなかった。学校が忙しいのだろうかと考えたが、まるまる一週間も顔を見ない日々が続くようになると、瑞穂がとった拒絶の態度が彼を傷付けたのではないかと漸く気が付いた。確かに大和は謝ってくれたし、その前に真からきつい説教があったであろうことを考えると、もう少し優しくしてもよかったかもしれないと瑞穂は後悔した。


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