どのぐらいそうしていたのか。気が付けば瑞穂は、最近漸く見慣れてきた、廃工場のプレハブ小屋で、自室として占有している部屋で毛布に包まり、畳の上で横になっていた。顔を覗き込んでいるのは真だ。
「大丈夫……?」
 通路側に作られた明かり取りから、薄く差し込む光による陰影が、仲間の表情を重苦しく曇らせる。屋内を浮き上がらせる淡い陽光は、やや赤みが強く見えた。
「今、何時ごろ?」
 発した自分の涸れた声に驚き、喉の痛さを自覚する。
「たぶん六時過ぎぐらいじゃない? ひょっとしてお腹空いた? レトルトの卵粥買ってあるから、食べられそうなら温めるけど」
「いや……いい」
 伝えると、真は少しだけ消沈したように表情を暗くしたが、それ以上は何も言わなかった。
 六時過ぎというのは、光の色から察して、恐らく夕方のことだ。自分はずっとここに寝ており、そして真は傍で見守ってくれていたのだろう。
「なあ、瑞穂起きたのか……」
 扉が開かれ、もう一人入って来る。明かりの点いていない部屋で逆光になり顔がよく見えなかったが、姿形と声から、それが大和であることは明白だった。この二週間ほど会っていなかった男は、いつになく弱気で、案じるような声を聞かせながら、おそるおそるといった足取りで近付いてくる。毛布の端に膝を突きながら、気遣わしげに眉根を寄せた男が、手を伸ばす。
「大和……」
 真横から照らし出す夕日の中で、端正な顔立ちの半分ほどが、擦り傷と鬱血で傷付けられていることがわかった。
「瑞穂、本当にごめん……俺がもっと早くに……」
 血の溜まりで色を変え、覆い被さっている瞼の下から、訴えかけるような視線が瑞穂を捕える。鳶色の瞳がゆらゆらと輪郭を曖昧にして、涙腺がとめどなく涙を溢れさせているのだとわかった。あるいは、とうに涙は流れ落ちていたのかもしれないが、下瞼から頬骨を覆い隠すように、大きく張りついているガーゼが、実際のところを見えなくさせていた。
 震える指先が、漸く瑞穂の肩に触れる。その手もまた、小指と薬指を纏めるようにして、グルグルと包帯が巻かれており、その端は手首にまで届いている。
 肩先から襟へと伝い、触れ合う皮膚の感覚は首筋に到達した。じわじわと腹の底に芽生えていた感情が、背筋を這いあがり、ついには喉元から吐き出されてしまう。
「や……やめて……」
「瑞穂?」
 敏感に異常を察した真が身を乗り出し、瑞穂の顔を窺う。
「あうっ………つッ!」
 気が付けば、大和は包帯の上から自分の手を庇っていた。
「や……まと……、俺……」
 自分で自分のしたことが信じられなかった。
 怪我をした手を押さえ、痛みに耐える大和を気遣い、叩いたことを瑞穂は謝りたかった。それなのに、伸ばそうとした手は一向に己の傍から仲間へ近付こうとせず、ガタガタと震えだすその身が抑えられず、自分を抱き締めることで精一杯だ。
 怖い……近付かないでほしい……触らないでほしい。どこかへ行ってほしい……!
「はっ……ああっ……ううっ……」
 意味をなさない呻きが、口から漏れ出し、目の前がどんどん歪んでいく。
「大和、悪いけどもう出てくれる?」
 瑞穂がまともに会話をできる状態ではないと判断した真が、傷付いた男へ無情に退去を促し、大和はそれに従った。立ち上がり、大和は戸口へ向かうと、もう一度室内を振り返る。
「本当にごめん……」
 後悔に満ち溢れた声が心情だけを伝え、静かに出て行く。
 男の退出を確認した途端、瑞穂の昂りは静かにおさまった。宥めるように背中を撫でられる。
「今は仕方ないけど……」
「真……?」
 振り返りながら仰向けになると、今度は毛布を肩まで掛けなおし、前髪を掻き分けられた。まるで幼い子供を母親があやすような真の仕草が、瑞穂を安堵させる。
「落ち着いたらでいいから、大和に声をかけてあげなさいよ」
 優しい笑みを湛えながらも、諌めるような口調で真が言った。初潮を迎えたとき、大和にされた仕打ちに瑞穂が腹を立て、ずっと許さなかったことを咎められているのかと、最初は思ったが、真相は違った。
「あんたを助けるために、あの子はたった一人でチーセダに立ち向かっていったのよ。まともに使えもしない銃を構えて、滅茶苦茶に乱射して……制御出来なさそうなその暴挙が却って危ないと思われたのか、すぐに引き上げていったみたいだけど、そこに戦いがあったことは、あの子を見たらわかるでしょう? まあ、大和は銃なんて取りに戻らないで、すぐに助けに入るべきだったって、自分を責めてるみたいだけど、……そしたらきっと、高天先生の二の舞だった」
 延々繰り返された暴行で、瑞穂は意識もほとんどない状態だったが、事態に気付いた大和が助け出してくれたのだ。朦朧とした感覚の中で、聞いたような気がした高い破裂音の正体は、大和が持ち出したアサルトライフルの発砲だった。しかし、ただでさえ大柄で乱暴なアグリア人を相手に、いかに銃があったとはいえ、七対一の格闘は大和に傷を負わせた。モデルである彼にとり、もっとも大切にしないといけない顔に、打撲や裂傷を負い、利き手の小指にひびが入った。それを瑞穂は、邪険に払い除けてしまったのだ。
「俺、大和になんてこと……」
「あんたはそれだけの恐怖を味わった。それは大和も充分わかってるから……。頭の理解と感情は、また別物だと思うけど、まあ、あの子もこういうことが初めてってわけじゃなし」
 真が言う『こういうこと』とは、すなわち大八島総合病院の三〇八号室で、毬矢と大和の間に起こった不測の事態だ。今であれば、瑞穂は毬矢がどれほどの恐怖と痛みを味わったか、嫌になるほど実感している。そして大和に怯えた毬矢の気持ちもよくわかるし、大和も織り込み済みだと真は言っているのだろう。おそらくその通りだと思う。それでも、大和に対する立ち位置が、自分と毬矢ではまるで異なる。大和が瑞穂にどのような感情を抱き、どこまで身体を張って、また瑞穂にどれほど傷つけられたことか。かつて立ち向かったことすらないチーセダの七人と、たった一人で戦う恐怖がいかほどのものであったか。
「最悪だ……」
 志貴に、毬矢に警告されたにも拘わらず、真剣に耳を傾けもせず、呼び込んだ災禍。二度と自らの軽挙によって仲間を傷つけることがあってはならないと、自分に言い聞かせ仲間へ宣言したあの誓いは、一体なんだったのか。己の軽率さに吐気がする。愚行に嫌気がさす。力量も弁えず、自分のみならず、こんな自分を真剣に好きだと思いを告げ、守ってくれようとした大和までも傷つけ、その思いやりさえ受け入れることが出来ないとは。そして後悔を噛み締め、謝りたいと、手を差し伸べたいと思っているのに、身体が言う事を利かない。
 枕代わりに頭の下へ丸めて忍ばせてあった固い生地に気が付く。それが、よく大和が着ているフライトジャケットだと、今更気が付いた。瑞穂は身をうつ伏せにすると、その焦げ茶色のレザーへ顔を押し付け、暫し嗚咽を漏らした。
 昂った神経と後悔は、三日ばかり瑞穂を苦しめた。身体の痛みがいくらか癒え、漸く寝床から身を起こした瑞穂は、久しぶりに感じた空腹を収める為に、休憩室へ顔を出した。そこで会った大和は、強張った顔で瑞穂を迎え入れたが、瑞穂が逃げずに謝罪の言葉と心からの感謝を口にすると、漸く表情を和らげた。
 瞼の腫れは引き、片頬を覆っていた大きなガーゼは絆創膏に代わっていたが、利き手の包帯だけはまだ太いままだった。バイトもキャンセルするしかなかった彼は、チーセダの暴行から瑞穂を救出して以降、家にも帰らずずっとこの廃工場で過ごしているようだった。
「瑞穂は、大丈夫なの?」
 おそるおそるといった口調で、大和が身体を気遣ってくれる。
「うん、だいぶましになった……」
 返す言葉は、どうしても籠りがちになる。
 瑞穂がされたことは紛れもない輪姦だ。集団による暴力的な性行為は、未経験に近かった瑞穂の身体に、少なくないダメージを残していた。真の治療と看護により、患部の治癒は順調だったものの、直後の出血は多く、トイレへ行くたびに気付く少量の出血は今もまだ続いている。全身に出来た痣や最初に受けた顔への打撲もあったが、それらは大和が受けた怪我に比べれば大したことはない。身体的なダメージそのものは、軽傷と言える程度の物で済んだと言える。
 憂慮するべきことは、被害を受けたタイミングだ。気持ちが落ち着いた段階で、不意に気になり携帯のインターネット機能で瑞穂は月経のサイクルについて調べてみた。そしてわかったことは、瑞穂を不安のどん底へ突き落した。瑞穂が七人のアグリア人のうち、誰かの子供を妊娠した可能性は、けっして低くはなかったのだ。
 大和と和解をしてから数日、瑞穂は再び鬱々とした日々を過ごした。気の重い六月が終わり、季節は暑さを増してゆく。カレンダーの数字を数え、トイレへ行く度に、裏切られたような気持ちで溜息を吐く。食事をしても、まるで砂を噛んでいるような気になって、すぐに箸を置いてしまう。
 怪我が治った大和はキャンセルしていた仕事を取り返すように、モデルのアルバイトに集中しているらしく、また暫く姿を見せなかった。テレビCMの仕事だったようで、仕事が片付くと今度は学業へ集中し始めて、また姿を消した。
「こういうものが、結構気分転換になりますよ」
 そう言って、悠希がスナックやプリンといった菓子類を置いて行ってくれたが、少し口にしただけですぐに食欲を失った。夜には全て吐き出してしまい、そのまま瑞穂はトイレで泣き崩れた。眠れない日々が続き、体力はどんどん落ちて行く。日を追うごとに弱っていくように見える瑞穂は、仲間の目にただひたすら痛々しく映るだけだった。


 相変わらず沈鬱な表情を抱えて、廃工場の自室で過ごす瑞穂を、意外な人物が訪ねて来た。
「引き籠ってるってのは本当らしいな、このぐうたら野郎め」
 気遣いのない口調の男は、乱暴な動作で音を立ててドアを開放したまま、許可もなく部屋へ入って来た。もう真夏と言っていい季節だというのに、きっちりとネクタイを締め、相変わらず黒いスーツに身を包んでいる。そしてこれも暑苦しい革靴を脱ぐこともなく、志貴は畳の上をズカズカと踏みしめた。
「誰が入れって言ったんだよ」
 膝頭を抱えたまま顔だけ上げると、瑞穂は眉間に皺を寄せて兄を見上げる。
 数日前から、この部屋と休憩室にだけエアコンが入っている。部屋で過ごすことの多い瑞穂を気遣ってか、久しぶりに姿を現した大和が手にしたばかりのアルバイト代を使って購入し、取り付けてくれたのだ。それに従って、パレット置き場に設置してある発電装置も、大幅にパワーアップしている。本格的にここに住む気なのかと、志貴は呆れた。
 そんな理由から、冷気が出て行くのを嫌って、瑞穂は開けたドアを閉めろと兄に言いたかったのだが、よく見ると入り口のすぐ傍に、兄の旧友である斐伊川賢が立っていた。ということは、他のS&Kのメンバーも来ているのかもしれない。
 フンと鼻を鳴らすような声を聞き、目の前に立っている男を瑞穂が見上げる。
「ああ、悪かった。野郎じゃなくて、女になったんだったな」
 嘲るような言い方と視線が、漸く痛手の癒えかけてきた瑞穂の神経を逆撫でした。
「何だって……っ、ちょっと、おいっ!」
 そして、ニュッと伸びてきたスーツの袖が、組んだ両腕の隙間へ侵入し、大きな掌は無造作にTシャツの上から胸をわしづかみにした。
「ほう、……いちおうそれらしいもんは持ってるんだな」
「っなせっ……何するんだよ、馬鹿っ!」
 瑞穂は乱暴な手から逃れようと身を捻るが、今度はTシャツの裾を捲り上げられ、剥き出しにされた乳房をグイッと強く掴まれる。破廉恥な暴挙に、瑞穂は実兄の神経を疑った。
「やっぱり女になってみると、そんな貧乳でも胸は弱点になるわけか? で、どうだったんだ、毛嫌いするアグリア人にズコバコやられた感想は? チーセダの連中が桜花のリーダーをマワしてやったと、自慢してるみたいだぜ。あのパジュって野郎は、てめぇのイチモツで昇天させた女は数え切れないって吹聴してるようだが、お前もイッちまったのか? それともバージンにはさすがに七人のアグリア人相手はキツかったか……」
 Tシャツの裾を直して志貴の手を払い除けるが、それでもしつこく胸を狙われる。
「そのぐらいにしておけ」
 ドアから咎めるような声が聞こえる。賢が諌めようとしてくれたが、志貴はまったく聞く様子がない。寧ろ、さらに暴挙をエスカレートさせるばかりだ。襟首を掴まれ引っ張られる。繊維と縫い目が引きちぎられ、胸元まで大きく裂けた。微かな膨らみの上に志貴が残した指の痕が、鋭角的な裂け目から覗いていた。
「やめてよっ、何考えてるんだっ……兄弟だろ! いい加減にしてよ」
 瑞穂は必死にその部分を両手で庇おうとするが、志貴は障害物を掴んで、大きく左右に開かせた。両手を拘束されたまま、瑞穂は畳の上に押し付けて寝かされる。弟の胴を跨ぐように脇へ両膝を突くと、志貴は瑞穂の顔を覗き込んだ。
「おい、志貴ッ……」
 さすがに賢も部屋へ入って来る。志貴は構わず瑞穂を罵った。
「いい加減にしてほしいのはこっちだ。人の忠告を無視した揚句がこのざまだ。それとも、女になったらあそこでも慰めてほしくなったのか? そういや、お前は女装してアイツらを誘惑しに行ったんだったな」 「黙れ、畜生ッ……!」
 瑞穂は渾身の力を振り絞って起き上がると、兄の体重を一気に跳ね除ける。畳へ志貴が仰向けに倒れて、たった今弟から頭突きを食らった額を押さえていた。丁寧に撫で付けられていた黒髪が乱れ、長い前髪が無造作に顔を覆った。
「おい、よせって、どうして喧嘩になるんだ……、志貴も謝れ」
「放して……っ、てめぇ、もう一回言ってみろよ!」
 顔を真っ赤にして瑞穂は叫んだ。破れたTシャツの危うい襟元から、色の濃い先端まで胸が見え隠れしており、賢は目のやり場に困ったが、暴れる華奢な両肩を必死に抑え付けていた。それを振り払い、兄に飛びかかろうと瑞穂はもがく。
「なんだ、弟のままじゃねえか」
 赤くなった額に片手を当てて、志貴はニヤリと口の端を持ち上げる。
「なんだと……」
 言われた意味がわからず、瑞穂はうろたえた。
「俺はまた、妹が出来たのかと思って、だったら守るしかねえと来てみたが、その必要はなさそうだな」
「妹の乳を揉む兄貴は、世界的に見て変態の領域だぞ」
 賢が呆れたような溜息を吐き、志貴の暴挙を静かに非難した。
「ちっと掘られたぐらいで、いつまでもメソメソしてるんじゃねえよ。お前が男だっていうんならな」
「レイプは、被害者が男でも女でも充分犯罪だし、それに瑞穂は半分……」
「賢は黙ってろ、こいつは俺の弟だ」
 いつしか庇うような仕草で瑞穂を抑えていた賢の腕の中から、志貴は瑞穂を引き摺りだす。
「……おいっ」
 賢の非難を無視して、志貴は自分が引き裂いたTシャツの襟元を握り、そこを締め上げるように引っ張る。薄い腹部が剥き出しになり、以前にもまして浮き上がった肋骨の哀れな影が陽光に晒された。
「てめえでやらかしたゴタゴタの後始末はてめえでつけてみろ! お前に陸軍大将秋津叢雲の息子としてのプライドがあるならな」
 容赦なく喉元で絞りあげられ、瑞穂は腹に力を入れる。
 握りしめた手首の腕を引き摺るようにして、寝室から瑞穂を連れ出した志貴は、工場の敷地内に停めてあるドゥーシェ製の愛車、黒のSクラスの助手席へ乱暴に押し込めるとバタンとドアを閉めた。
「おいっ、何してるんだ……!」
「うるせぇっ、お前には関係ない!」
 慌てて後を追い駆けてきた大和に拳を入れて突き飛ばすと、志貴は一旦工場内へ戻る。大和はそのまま、賢とリュウに押さえ付けられ、アスファルトの上で手足をバタつかせていた。S&Kの連中が揃って来ているようだった。バックミラーをよく見ると、後方にもう一台、前面に『一心会』と書かれているステッカーを大きく貼りつけた黒のミニバン、マガリタ社のグランドエースが停まっている。
 間もなく志貴が戻り、荒々しい動作で後部シートに何かを投げ入れる。振り返ると、シートの上にSAK-47とSRPG-7、そして元々置いてあったのであろうAM16が、それぞれ一丁ずつ無造作に重なり合っている。どうやら桜花が盗み出したカチューシャSから、武器類を補充したようだった。
 運転席へ志貴が乗り込み、エンジンをかける。それが合図になったかのように、先にグランドエースが通り過ぎ、大型バイクが二台後に続いた。瑞穂を乗せた志貴がそれを追い駆ける。


 09

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