我が国を守りし君のみたま今此のやしろにてしずかに眠る……

 いつのまにか足を止めていた九頭の口から、ぽつりと歌が零れ出た。
「仁史皇王(ひとふみこうおう)御親拝時に詠まれた歌ですね……けれど、確か靖和帝(せいわてい)が詠まれたのは、我が国を守りし人々のみたま今此のやしろにてしずかに眠る……だったと思いますが、違いましたっけ……」
 語尾を断定口調で結ばないわりに、相当な自信を声に漲らせて伊沼は歌を訂正した。大正解である。
「さすがだな秀慈。柳本君は数学と化学が落第点だとしょっちゅう君を愚弄していたが、文系に関しては見事なものだ」
 前外相の柳本哲成(やなぎもと てつしげ)は、自称リベラル系右派の自カミ党議員だが、帝大卒で、伊沼の初代家庭教師でもある。しかし口がよろしくないせいで、伊沼と大喧嘩になり退職した。二代目として、柳本退職から三日後に伊沼家へ招かれたのが、この九頭である。柳本は未だに当時の出来事を根に持って、何かと言えばこの伊沼の陰口を方々で叩いているようだが、実のところその原因が、現役帝大生が口喧嘩で高校生にぼろ負けしたためだと知っている、伊沼の極親しい人々に、陰で嗤われていることを、本人はどこまで知っているのかと九頭は首を傾げて呆れている。
「だって、一郎さんの詠んだ歌では、まるで父王豊栄帝(ほうえいてい)がここに祀られているみたいじゃないですか。やっぱり、君ではなく人々じゃないと変ですよ」
 確かに豊栄帝はここではなく、皇居の御陵に眠られている。当然だ。だが、少しばかり仕返しがしたくなった九頭は、敢えて一矢を報いてみせる。
「秀慈が言う通り、君でも可笑しくはないんだが、帝を指すなら、大抵は大君だろうな」
 かつて柳本をやり込めた、なかなか負けず嫌いの伊沼は、案の定この仕掛けに乗ってくる。
 腕がくっつき、重なり合いそうなほど伊沼がこちらへ寄って来て、置いてきぼりを食らいかけている森之宮が、慌てて伊沼との距離を詰めようとする。こちらも随分と負けず嫌いだと九頭は呆れた。
「たしかにその通りですけど、それなら一郎さんが詠んだ君は、帝ではなく愛しい人が……」
そこまで言いかけて、ふと言葉が切れる。
「ん?」
 奇妙に思い振り返ったが、思った位置に伊沼はいなかった……触れあっていた二の腕が、少し涼しくなった。
「いえ、なんでもないです……ああ、もう七時を回ってますよ」
 自分にずっと懐いてくれていた、美麗でいてどこか人懐こい男の面が、無性に傷付いたような歪みを見せた……それは九頭が妻の淑子との婚約報告の為、伊沼家を訪れたときに見せた、あの青臭い少年時代を、なぜか思い出させた。
「秀……」
 呼びかけながら、離れた分の一歩を取り戻す……しかし咄嗟に相手は痩身を引いた。
 ずっと気になっていた……なぜ伊沼は結婚しないのかと。
 本人は兄より先に娶るわけにいかぬからと言い続けて来たが、50になってそれが理由でもあるまい。確かに、兄の秀介(しゅうすけ)も未だ独身を貫いているが、生来身体が弱く、いつ死ぬかもわからぬ身で妻や子に迷惑をかけられないと公言している……そのわりに53歳を迎えた今も、当分生き長らえそうな気配だが。
「追い付かれちゃいましたね」
 微妙な空気を孕んだ緊張感が、間の抜けた一言でその糸が切れた。
 罰あたりにも参道を疾走してくる黒服が二つ……置き去りにしてきた筈の京橋、桃谷両SPに、どうやら九頭は捕まったようだった。
「行きましょう、一郎さん」
 早くも声に明るさが戻った伊沼が、そう言って笑顔を向ける。
「そうだな……仕事に戻るか」
 伸びをしながら振り返ると、目が合いそうなその刹那、美貌は背けられ絡まりそうだった視線が外された。
 一瞬俯きかけた横顔は、なぜだか今にも涙を零しそうに見えたが、無論50を迎えた男がこんな場所で泣く筈もない。
「伊沼総理、先ほどはお電話で失礼しました」
「いいですよ、そんなの。でも京橋君、よく追い付いたね……」
 手を振りながら足早に立ち去る後ろ姿ははしゃいでいるようにさえ見えた。
 馴染みの黒服に追い付き、高い位置の顔を見上げるその面は、7月の空を思わせる明るさに輝く。
 九頭は再び天を仰ぐ。澄み切った晴天と思い込んでいた夏空は、西の彼方に黒い雲が立ち込め、近いうちに夕立がやって来そうな気配だった。

END


『短編・読切2』へ戻る