『アップ&ダウン』その2:バッドトリップ


 師走も終わりの、12月28日のこと。
 夜勤だった私、黒木和彦(くろき かずひこ)は、いつもより二時間早く出勤していた。
「黒木さん来てますよ、あのゲスト」
 気がかりを胸に抱えたまま、客室部のドアを開けると、二年後輩の同僚、並木良子(なみき よしこ)が小走りに近づきながら教えてくれた。朗報ではない。
「そうか。ありがとう」
 並木に返事をすると、そのまま更衣室へ向かう。
「あれ? なんだか、あっさりしてる。わかってます? 2012のゲストですよ? ほら、例のカーテン騒ぎの。ええと、イブの日に大雪の中、黒木さんが菓子折りもって謝りに行かされた……」
「わかってるよ、解説してもらわなくても。こっちは当事者なんだから」
「そりゃあそうですね。ねえねえ、あのゲストって泰文(たいぶん)の学生らしいですよ。これってヤバくないですか?」
 それも、当然わかっている。
 泰文、つまり泰陽(たいよう)文科大学が、脱法ドラッグ売買に複数の学生が関わっていたニュースで、最近ちょっと話題になっており、並木がそのことを言いたいのだろうということも。
「なるほど、お前の後輩なわけだ」
「失礼な! 私は仏教学部出身で、捕まった学生たちは経済学部です。偏差値が10以上違うんです!」
 結局、後輩で間違いないんじゃないかと思ったが、あえて突っ込むのはやめにした。お喋りな並木の会話に百パーセント付き合っていたら、二時間早く出勤していながら遅刻しかねない。今の私がそんな失態をしようものなら、かなり本気で懲戒免職を心配しなといけないことになる。
それよりも並木には、もっと突っ込みたいことが他にあった。
「そりゃあ失礼。すまないが、ちょっとそこを空けてくれるかい?」
 ロッカーの扉を塞いでいる並木へ、それとなく伝えると。
「ああ、すいません、……はいどうぞ。でね、今そのゲストはラセールで友達と食事中らしいんですけど、なんか様子がおかしいんですよね」
「……ありがとう。おかしいって?」
 非常に自然な動作で、並木が私のロッカーを開け、空のハンガーと制服の上着を纏めて渡してくれた。一応、礼を告げて必要な物を受けとり、暫しの思案を挟んだのちに、着ていた外套をハンガーに掛ける。
 言っておくが、確かに私は「そこを”アケテ”くれ」と彼女に言った。しかし、べつにロッカーの扉を開けてほしかったわけではない。
「それが、最高級の特別コース『冬のアニバーサリー』をオーダーしておきながら、ぜんぜん料理に手をつけないんですよ! で、特別注文したラベイばっかり口にして、現在絶賛ベロベロに酔っ払い中。どう思います?」
 並木が言ったラベイとは、正式名称をレゼルブ・ドゥ・ラベイ。
 いわゆるドン・ペリニヨン・ゴールドで、とにかく拘って醸造し、さらに20年間も熟成させた希少なシャンパン。フランスと日本市場にしか出回っていない筈の、幻と形容が付される銘酒だ。入手困難のためラセールでもメニューには載せておらず、注文を受けたときのみ、状況に応じて出している。頼まれたからと言っても、誰でもかれでも出すわけではない。……つまり今回は、訳ありのお客様ということで、オーダーを受けるしかなかったのだろうと、その背景事情が安易に察せられた。
「そりゃあ、ろくに食事もしないでシャンパンばかり飲んでいたら、酔っ払いもするだろう。……ところで、それはボトルか?」
 聞いて馬鹿な質問だったと考える。
 友達とともに、ベロベロに酔っ払い中だというなら、ボトルに決まっている。ちなみにマグナムなんぞを頼まれた日には、それだけで6ケタの値段が上乗せだ。
「ええ。でも安心してください、フルボトルですから。ガブガブ飲んじゃって、すぐに2本目行きそうな勢いですけどね」
 ハーフにしろと心で突っ込みつつ、それでも少しはほっとした。フルボトルなら年代にもよるが、せいぜい7〜8万といったところだろう。それでも充分痛いが……。
「ラベイは一度飲んだら忘れられない、まさに絶品ってシャンパンだが、ドンペリは結構度数が高いし、無理にでも何か食べさせた方がいいんじゃないのか?」
「うわ〜、先輩もしかしてラベイ飲んだことあるんですか?」
「実は、一度だけな。同窓会の二次会で飲んだことがある。1988年物だったかな……味も値段も最高級だぞ」
 並木が興味津津といった感じで聞いてきたので、ここぞとばかりに自慢してやった。
 一本三十万するマグナムを持ってきた馬鹿がいて、皆で乾杯したのを覚えている。奢ってくれたのかと思えば、あとから一人一万円ずつ余分に徴収されて、ボロクソに言ってやった。まあ、あれはあれで楽しい思い出だ。良い時代だった。
「すごーい! じゃあ1985年だといくらぐらいですかね」
 1985年は厳寒に襲われたせいで葡萄の収穫高が低く、この年の生産量は極めて少ない。当然プレミア価格が付いている。
「…………おい」
「はい?」
 嫌な予感がした。



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