インターホンを鳴らして暫く待っても、出てくれる様子のない客に焦れた私は、インペリアル・スイートの扉を数回ノックして声をかけた。さらに待つこと、たっぷり一分。一旦引き返し、客室部から2105へ内線電話をかけてみようかと考えていると、不意に扉の向こうでゴトリという音が聞こえる。もう一度インターホンを鳴らした直後に扉が開く。
いやにゆっくりとした動作で開けられたドアの隙間から、覗いた顔を見て私は息を呑んだ。
「お待たせして申し訳ございません。ルームサービスをお持ちしました」
「ああ、そうか……、頼んでたっけ」
応対してくれたのは、狩尾風雅自身。
ほっそりとした顔と色白の肌、長い睫毛に大きな瞳、やけに赤い口唇がどこか艶めかしい。つくづく綺麗な青年である。
「宜しければ、中へお持ちいたしますので……」
十センチほどの隙間からこちらへ顔を覗かせたまま、手を出そうともしなければ、部屋へ入れてくれようともしない。いつまで経ってもはっきりとしない狩尾へ私は言った。ひょっとして、待ちくたびれて寝ていたのだろうか。
だが、料理長達の話では、酒に酔い潰れたのは彼の友人であり、狩尾自身はその友人に肩を貸して部屋へ上がったと言っていた筈だ。部屋へ着いてからバーの酒を飲んでいた可能性もあるが、当の狩尾からは酒の匂いもしなければ、顔も白いまま。アルコールで血のめぐりが良くなっているどころか、その顔色は、やけに白く、今にも倒れてしまいそうに、私には見えていた。
「あの……悪いけど、持って帰って貰ってもいいかな?」
ドアを押さえたまま、漸く狩尾は言った。
「キャンセルなさるということですか? それは構いませんが、……どうかされましたか?」
狩尾の様子が気になり、様子を窺うと。
「いらないからキャンセルと言っているんだ、他に理由が?」
苛々した声が少々ヒステリックに返してきた。
狩尾の具合が悪いのかと気になって声をかけたつもりが、キャンセル理由を詰問されたと勘違いしたらしい。
「いえ。……お連れ様はもうお休みですか?」
部屋の中がやけに静かだった。
彼の友人は来店時から五月蝿かったと聞いていたのに、今は声どころか、物音ひとつ聞こえない。
「帰った」
「お一人でですか?」
狩尾の肩を借りなければ、歩けなかたったような男が、一人で出て行ったのだと彼は言う。どうせ吐くなら、もっとましな嘘を言えばいいのにと思う反面、これはいよいよ何かが可笑しいと私の直感が訴えていた。
不意に狩尾が、扉を強引に閉じようとした。
「もう、いいだろう……僕は疲れて……ちょっ、何をっ……!?」
咄嗟に私が片足を入れて、ドアの動きを遮ろうとしたのと、ほぼ同じタイミングで、狩尾は背後に隠していた手をドアノブに掛けようとしていた。
その刹那、一瞬だけ十センチの隙間から見えた狩尾の手首を、私は思わず捉えていたのだ。
「どうしたんだ、この手は……!?」
「何の真似だよ……放せっ……」
白いシャツの袖口から指先にかけて、狩尾の左手は血まみれだった。
「失礼する」
全力でドアを押しかえすと、狩尾は勢いに負けて、床に崩れ落ちた。
せっかくのバカラに明かりを灯してもいないホールを通り抜けて、続くリビングも暗いままだと知る。彼らはスタインウェイの鍵盤に触れないまでも、その美しさを愛でることも思いつかずに帰ってしまうのだろう。
扉が開いたままのバスルームと、続く一つ目の寝室。次々と照明のスイッチを入れて視界を明るくしてみるが、そこに人がいる様子はない。
バスルームが綺麗なままだったことに、不思議と安堵している自分が滑稽だった。血まみれの左手首を見て、自殺未遂の可能性に焦ったが、とりあえずその心配は低そうだった。狩尾の気紛れは今なお私を苦しめているというのに。
奥にある二つ目の寝室の扉を空けて、息を呑む。