素早く腕を引き寄せられ、もう一度口唇を吸われた。
「お前のためじゃない、俺と直江が残り少ない高校生活を円滑に送るためだ。……あんなメール読まされたら、馬鹿な直江がうろたえてどうしていいか、わかんなくなるだろうが。ちょっとは考えろ」
「ああ、努力する」
そう言いながら、今度は指を絡めながら手を握られる。俺は無意識に、もう片方の手を口元へ持っていき、少し濡れている熱っぽい場所へ指先で触れた。
甘い……峰とのキスをそんな風に感じたのは、ひょっとしたら初めてかもしれない。どうしていいのか、わからなくなる。
「じゃあまあ、そろそろお開きにしようか……その方が、君達もいいよね?」
黒木さんに言われて、ドキリとする。俺は慌てて手を放した。
「いや、俺達はそんな……って、そうですね。ごめんなさい、俺達こそ邪魔しちゃって……」
考えてみれば、黒木さん達はまちがいなく、二人きりの時間を過ごしていた筈だ。それを俺達が邪魔していた。
「いやいや、とんでもない。お客様に楽しんでもらうのが、ホテルマンの仕事だから」
「でも、お仕事は終わられていたんですよね。すみません、気が利かなくて」
黒木さんにあらためて謝ると、今度は風雅さんが。
「いいって、いいって。……ねえ、それより、スペースクッキー、君達は食べなかったの?」
後半部分は、なぜか俺へ耳打ちするように言ってきた。
「スペースクッキー……ああ、あのお茶と一緒に持って来てくれたやつですか? 食事してすぐだったから、お腹空いてなくて。ええと、どうしてです?」
部屋へ戻ってすぐ、風雅さんはお茶とクッキーを俺達の部屋へ持ってきてくれていた。君達は、と言ったところを見ると、おそらく慧生達の部屋へも、同じものを差し入れていたのだろう。それは想像が付くし、その話だということもすぐにわかった。しかしなぜ風雅さんは、俺達がまだクッキーを食べていないとわかり、それを気にしているのだろうか。さらに、言い方から察して、慧生達はたぶん、それを既に食べている……それが彼にはわかっているということだ。
「ふうん、そうか。……まあ、部屋へ戻ったら、ぜひすぐに食べてね。あ、和彦さんには内緒に頼むよ」
と風雅さん。おまけに、なぜか早く食べろと急かされた。ますます気になる。
「ごめんなさい、どういう意味です?」
意図するところが、さっぱりわからない。なぜクッキーへそれほど拘るのだ?
「食べてみたらわかるって、すっごく盛り上がるからさ……じゃあね」
「え……」
黒木さんに呼ばれて、風雅さんは彼の恋人を追いかけると、その隣へ寄り添うようにして歩き始めた。
「どうかしたのか?」
妹へのメールを打ち終わったらしい峰が、漸く俺達の会話へ興味を示して聞いてくる。
「いや、べつに……なあ、スペースクッキーって、何のことかわかる?」
すっごく盛り上がるからさ……。
そう言った風雅さんは、どこか悪戯をしかけて楽しんでいる少年のようであり、そのくせ、危険な色気を漂わせているようでもあり……言葉の真意が、俺は気になって仕方がなかった。
「あ、まちがえた……スペースコレラじゃなくて、スペースクッキーね……」
そう言いつつ、どうやら携帯の予測変換機能と検索機能を使って、まどろっこしいガラケーを再びカチカチと弄りだす峰。一応、インターネットが使えるらしいことに、少しばかり衝撃を覚える。
キーが発する微かな打撃音が懐かしいというか、実にレトロだ。
とりあえず、忘れないうちに突っ込んでおく……というか、今のは突っ込み待ちだとわかりやすすぎて、ややイラッとした。
「スペースコレラってなんだよ、不衛生に端を発して蔓延した壮大な感染病かよ。っていうか、それ一応ネット対応してたんだな。でもキーワード検索なんてガラケーではどうせ……」
「ああ、あった……」
「あったのかよ……ガラケーの癖に優秀だな!」
「お前、今度ガラケーって言ったら、ペナルティな」
「ペナルティ……ど、どんな?」
いちおうドキドキする。
コミュ障で変態兄貴の峰は、これでなかなか手加減ナシのドS野郎だ。エロ的な意味ではなく、マジで無慈悲なサディスト兄貴ということである。……まあ、エロ的にはどう変化するのか、今のところ俺が知らないだけだが。
ひとまず、そんな峰から科せられるペナルティなど、わりと勘弁してほしいと真剣に思う。
「全国のガラケー愛好者諸氏に対して、心を込めた謝罪と、そこまでお前が優越に浸っているスマートフォンについて理解の限りを、真に心を揺さぶる文章にして5000万字以上語ってみろ」
「それだけで、そこそこサーバーの負担になりそうだから、勘弁してください」
「どういう断りかただ」
「良い気になって馬鹿にしたりしてすいませんでした」
「良い気になったり、馬鹿にしていたということだな。素直でよろしいが、あらためてむかついたことだけは言っておく。結局まるきり誠意が感じられなかったが……、とにかく話を戻すとだな、スペースクッキーというのはオランダのコーヒーショップなどで提供されているヤツのことらしいぞ」
峰がガラケーを見せながら言ってきた。
「ふうん、コーヒーショップにあるんだ」
俺もガラケーを覗きこむ。
レトロなで低画素数の暗くて仕方がない液晶画面には、言われた通り、雑なアイコンのアニメーションとともに、誰かのブログっぽい文章が表示されていた。旅行記らしいその携帯サイトには、写真のひとつも表示されておらず、随分と退屈な代物だ。
「お前、またガラケーだからと馬鹿にしていないか?」
「何も言っていませんが……」
どうしてわかったのだろうか。
「まあいい……。コーヒーショップと言っても、主に外資系の大手チェーンなどに代表される日本のそれとは随分意味合いが違うらしい。アムステルダムあたりに沢山あって、コーヒーやケーキとともに、様々な種類のマリファナが……」
ふと、峰から甘い香りが漂ってきて、俺は焦った。同時になぜか、さきほどのキスを思い出す。甘い……あの感触。
「……どうかしたのか?」
低いトーンで訊かれて、咄嗟に俺は耳を押さえた。
「あ……いや、さっきからなんか甘いなと思って。お前、ひょっとして香水かなんかつけてる?」
聞きながら、彼から一歩距離をとる。
外に出ていて良かったと、心から思った。今の俺は、たぶん顔が真っ赤だろう。
耳元で囁かれたとたん、俺は身体の芯から込み上げてくるようなゾクゾクとした感覚に、神経を囚われていた。覚えのあるこの感じは……これまで、篤に対して抱いたことがあっても、けして峰に抱くものではなく。その正体は、つまり……。
「ああ、ひょっとしてさっき食った奴かな。……ほら、これ」
そう言って峰は、ポケットから見覚えのあるパッケージを取り出した。
「それって……風雅さんの……」
おそらく、それこそがスペースクッキーである。ハーブティーに添えられていた、彼からの差し入れ。
「なかなかバターが効いていて上手かったぞ。……お前も食うか?」
言いたいことはいっぱいあった。