雲の彼方に(上)



 出向先は臨海公園駅前通りのコールセンターだった。6階カスタマーサービス部の日当たりの良い窓を見下ろせば、学園都市線の高架と、1階にソコモモバイルの大きな路面店舗が入っている、家電量販店城東電機のビルが見える。室内を振り返ると、派遣OLが多いカスタマーサービス部のフロアで、唯一ビジネススーツで身体を包んだ男ばかりが席を下ろしている島がある。その片隅が、向こう三カ月に亘って、僕、雲谷了司(もや りょうじ)に与えられた職場環境だ。
 地元の公立高校を卒業後、4年のブランクを挟んで就職した工場はスマートフォンの端末機器を作っているところだった。正確にはフジエレクトロニクス泰陽(たいよう)支社第3工場というらしいが、日頃はただ単に会社とか工場とか、そんな言葉で呼んでいる。そこでレーンに立ち、端末の基盤に螺子を締めることが、与えられた一日の主な仕事だ。
 この会社に就職してから約3年が経過する。同期は幸いにして同い年が多く、その意味では特段に人の好奇心を煽りもしなかったことは、目立つことが苦手な自分にとって幸いした。但し、大卒の学歴を持参してわが社へやってきた彼らの多くは、東京本社や泰陽支社の営業部に配属されていき、自分と同じように工場のレーンに立つ者はほとんどいなかった。
 第3工場の大半は派遣やアルバイトで構成されていて、外国人も少なくない。よくわからない言語が飛び交うこの環境で、僕が交わす会話は、必要最低限の挨拶と連絡事項でほぼ全てだ。そんな環境を、人づきあいが嫌いな僕は、結構気に入っていた。



 小学校5年を機に、僕の生活から友達らしい親密な人間関係は消えうせた。きっかけとなった出来事は雪崩式に複数起こったが、有体に言えば、苛められっ子を守ろうとして、自分が苛めの標的にされて、人が信じられなくなったのだ。それまでは、おそらく平均よりも快活で正義感が強い子供だったと思う。清廉な信念に従って、三歳年下のユウタという病気がちな近所の少年が、彼よりもずっと身体の大きい複数の中学生に苛められている光景を看過出来ず、僕は悪ガキどもに立ち向かった。そして、僕よりも、さらに大きい3人からあっという間に返り打ちにされた。その事件はなぜか翌日のうちに双方の学校へ伝わって、放課後、僕の担任と小学校、中学校それぞれの校長に連れられた彼らが、僕の自宅まで謝罪にやってきた。その次の日から、僕は学校で苛めの標的にされた。彼らの一人が、クラスの女子の兄弟だったと知ったのは、卒業してから随分経ってのことだ。僕には、教師にチクッた卑怯者という、語呂の悪い肩書がつけられていたようだが、それは濡れ衣だ。あの事件をなぜ教師たちが知っていたのかは未だに原因不明だ。まあ、今更どうでもいい。
 小学校と同じような顔ぶれで構成される中学では、最初から大きな変化が期待出来なかった。それでも自分なりに行動をおこさない限り改善ができないと考えていたあの頃、僕にはまだ人並みのポジティブさが備わっていたのだと思う。3つの校区から進学してくる中学のクラスには、僕のことをよく知らない、気性の良く似た奴もそれなりにいた。そのなかで、自分より身体が小さく、気の弱そうな実沢草太(さねざわ そうた)に目を付け、僕は歩み寄りを試みた。一気に距離を縮める為にはユーモアが有効だと考えた僕は、前の晩にテレビドラマで見た光景をイメージし、実沢と二人きりになった放課後を逃さず、何度も頭でシミュレーションした会話を実践した。実は入学以来君のことが好きで……。そう話しかけた僕に、実沢はすかさず、キモッ……そう言った。言葉こそ確かに同じようなものだったが、ドラマのような、所謂ツッコミ的な勢いのあるトーンではなく、どちらかというと、ドン引きしているような声だと僕は感じていた。目を合わせると、実沢の小さな顔には鼻の上と眉間に深い皺さえ寄っている。互いに絶句したまま別れ、翌日登校してみると、実沢は目も合わせなくなっており、3日と経たぬうちに、「E組の雲谷(もや)はホモ」という噂が学校中を駆け巡って、その一週間後には「ホモヤ」という渾名が僕には付けられた。さらに小学校の事件を掘りかえされ、面倒な奴というイメージが備わって、クラスで完全に浮いた存在となっていった。2年に進級する頃には、1日じゅう誰とも口を聞かない日常が珍しくなくなっていた。
 遅刻ギリギリに登校し、休み時間には机に突っ伏しているか、トイレに籠り、ホームルームの終了とともに帰宅する。誰かとコンビを組まないといけない体育がある日は、テストのみ出席。帰宅後は早々に部屋へ籠って深夜までネット三昧。段々とそんな生活にも慣れていった。始めは心配していた母も、大きく環境が変わった高校入学直後こそは、いろいろ訊いてきたが、間もなく諦めて干渉をやめた……今思うと、彼女も当時はそれどころでなかったのかもしれない。
 久しぶりの事件が起きたのは、高校卒業間際のこと……僕にしては珍しい、そして25年が経過したこれまでの人生において、おそらく唯一これぎりといっていいであろう、少々浮ついたハプニングだった。日当たりの良い校庭の片隅に咲く、気の早い桃のつぼみがピンクに膨らみ始めた2月の終わり、突然、僕は一人の女子生徒から話しかけられた。
「雲谷君はどっちに行くの?」
「えっ……」
 渡り廊下の掃除を終えて教室に戻ろうとしていた僕は、前置きなく話し掛けられた柔らかい声と呼ばれた自分の名前に驚いて、やや素っ頓狂な声を出していたと思う。振り返ると、予想していたよりもずっと近い距離に立っていた彼女は、見開き気味の目を向けながら慌てて一歩下がった……僕が立ち止まると思っておらず、焦ったのかも知れない……その頬が、いくらか赤く染まっていた。
「卒業パーティー……あるでしょ? ラナペケーニャとマリンホール。どっちに行くのかなあと思って」
「ああ……」
 学園都市線沿線にある大きな飲食店の名前を二つ上げる少女の顔を観察しながら、僕は相槌を打った。
話しかけて来たのは苫米地弥生(とまべち やよい)。20人弱いるクラスの女子生徒の中では、やや地味で印象の薄い存在。こうして対峙したのは初めてだ……というより、女と対峙したことは、おそらく7年ぶりぐらいだっただろう。
 頬に赤みを残して見上げる少女は、いわゆる美人でもないが、色白でこぎれいにまとまった目鼻立ちは、けっして悪くない。肩まで伸ばしたまっすぐの黒髪は、風が吹く度にサラサラと揺れ動く。7年前には感じなかった不思議な高揚を、この時僕は生れて初めて味わっていた。
 卒業パーティーがあるらしいことは、クラスメイトらの会話で知らぬわけではなかった。だが、具体的な会場の名前はおろか、日時も僕には伝わっておらず、また、全員参加義務があるでもないなら、不参加も何人か発生するであろうという予想から、自分もそれでいいと考えていたのだ。だが、一瞬にして僕は、凝り固まったその考えを投げ捨てた。苫米地弥生に囚われたのだ。
「きみは……」
 きみはどっちに行くの……その言葉を口に出しきらぬうち、会話は中断された。何やってるの……会話へ闖入してきた甲高い声は、苫米地弥生と始終行動を共にしている女子生徒のものだ。そして彼女が続けた言葉はこうだ。

 キモヤは行かないから余計なこと言わないの。

 中学卒業までホモヤと言われていた自分が、高校ではキモヤになっていたことを、卒業まで1ヶ月を切って僕は初めて知った。
 苫米地弥生は、友人に「だって……思ったから」と抗弁していたが、3点リーダーに何が入るのかは、女の甲高い笑いに掻き消されて聞きとれなかった。
不思議な縁で、苫米地弥生とは3日と経たぬうちに再度対峙することとなった。
 3月に入って間もない週明け、終業時のホームルームで担任により、進路未決定者が進路指導室へ個別に呼び出しされた。わがE組において、それは僕と苫米地弥生のみだった。呼び出しにより、彼女の志望校の推薦入試が不合格だったことを僕は知ることとなった。渡り廊下を移動している段階から、窓越しに華奢な後ろ姿を見つめていた僕は、進路指導室を目指しながら、彼女にかける言葉をずっと考えていた。
 大学残念だったね……僕も進路まだなんだ……いや、呼び出されているのだから、それは苫米地も知っているだろう。それに、下手に大学のことを話題にしては、落ち込んでいる彼女をさらに傷付けるかもしれない。そうだ、卒業パーティーの返事をまだしていなかったっけ……いっそ、彼女がどちらの会場へ参加するのか訊いてみてはどうだろうか。……いや、それを決める為に、彼女の方から僕へ話しかけて来たのではないだろうか。ここは男らしく、僕から彼女を誘導するべきかもしれない。
 突き当たりを曲がり、窓際に立っている少女の横顔が目に入る。俯いた視線の先は、手にしている文庫本のページだ。
 何の本を読んでいるの……それが無難だろう。話のきっかけとしては、シンプルでいい。
 ジリジリと距離を詰める……彼女が僅かに視線を上げた……だが、また本へ戻る。思わず止めた足を踏み出すが、なぜか委縮してしまいそのまま身体の向きを変える。約5メートルの距離を保ったまま、自分も窓を背にして立った。だが、これでは会話がしにくい。
 横目で彼女の気配を窺い、少しずつ近づいていく……天井を見て、足元を見て……白っぽいガラス窓の向こうで、背が高い影が忙しなく動く……恐らく担任の有村教諭が先に到着して、何かの準備をしているのだろう。呼び出される前に話さないと、タイミングを逸してしまう。
 少し首を横に向けて、彼女を伺う……彼女は相変わらず本に視線を落としている……表情はとても固い。シリアスな小説に集中しているのか、あるいは進路のことで頭がいっぱいなのかもしれない。いっそ先方から声をかけてくれればと期待したが、とてもそんな雰囲気ではなさそうだ。
 室内でまた影が動く……椅子から立ちあがった人物が、入り口へ向かって来ているように見えた。
「あの……」
 ここで話しかけないと、もうあとがない……焦りながら発した声は、完全に掠れていた。
「……」
 彼女の反応はない……聞こえていなかったのだろうか。
 一歩二歩と距離を詰めながら、三度担任の動向も窺う……ドアへ近づいていたと思った影は、またもや奥へ戻っていた。何をそれほど念いりに準備しているのか、生徒にはさっぱりわからない。
 不意に指先が何かに触れた……余所見をしながら動いたせいで、完全に真横へ並んでいたことに自分で気付かなかった。
「わ……ええと……」
 位置的に手に触ったかもしれないと思った指先は、どうやらスカートのプリーツに触れていたようで、慌てて引っ込める。彼女が文庫本を静かに閉じて目を上げた。

 02