つくづく、自分という人間が何のために存在するのかと疑問に思っていると、不意に背後がざわめいた。テーブル、カウンター含めて20席ほどが用意されている喫煙室に、どうやら自分以外の利用者がグループで入ってきたらしい。時間を見ると、そろそろ8時50分になろうとしていた。8時台の喫煙室は昼休憩時間に比べればずっと空いているのだが、それでも9時直前になると、始業前の一服にやってくる者も結構多い。火を点けた煙草は、まだ2センチほど残っていたが、入って来た若い一団は朝から騒々しく、とても落ち着いていられない。できれば課にはギリギリまで足を運びたくはなかったのだが、諦めて吸いさしを灰皿へ押しつけると、席を立ちドアへ向かう。
「消えてませんよ」
突然、尖った声に呼びとめられて振り返る。
185センチに届くであろう長身痩躯の男が、鋭い視線をまともに自分へ向けて立っていた。手にした煙草には、まだ火を点けておらず、かわりにライターを持った指先が、今しがた自分が使っていた灰皿を指し示していた。アルミの容器からは、細い煙が一本、揺らめきながら立ち上っている。
「ああ、すいません……」
慌ててカウンターへ戻り、ひしゃげた吸いさしの火種をもう一度灰皿で押し潰して煙が消えたのを確かめてから、出口へ向かった。ドアノブへ手をかけた瞬間、鼻で嗤うような声が聞こえて咄嗟にグループを振り返る。確かに、先ほどの男のような声だと思ったが、長身の男は共に部屋へ入ってきた残り二人とともにテーブルを囲んでおり、目元に微笑みを湛えながら、咥えた煙草に火を灯していた。紺色の若々しいスーツがとてもよく似合っている、目を引く美男だった。
男との再会は、思いがけず短期間のうちに訪れた。その週は、各部署から上長が初々しいリクルートスーツの新入社員を連れて、続々とカスタマーサービス部を訪問してきた。
弘前部長が留守の間は、枋木GMや鹿橋が対応し、そのたびに各自手を止め顔合わせが行われた。出向社員である僕が付き合わされることは殆どなかったが、多いときで日に4、5回繰り返されるこの儀式は週末まで続いた。
明くる月曜日、いつものように喫煙室のあとで部署へ到着した僕は、すぐに異変に気が付いた。
「え……」
鞄を手にしたまま課の境界線で暫し茫然と立ちつくしていたら、肘の辺りに尖った物を押し付けられた。振り返ると、クリアファイルに収まったディスクが1枚入っている。
「雲谷さん、これも午前便でセ管にお願いしますね」
「あ、うん……ええと、でも……」
セキュリティ管理部宛ての社内便を受け取りながら、声を掛けて来た百目木に質問しようとするが、当の本人はさっさと自分の席へ戻り、メールチェックを始めてしまった。仕方がないので自分の席へ近づき、資料に目を通している青年……先日、喫煙室で僕に注意をしてきた紺色のスーツの男に視線を向ける。
「あの、そこ……」
「ああ、雲谷さん忘れてました。今日からそこは、狼森君の席になってます。雲谷さんの席はそっちなので、もしも私物が残ってたら、持って移動して頂けますか?」
思い出したようにそう言いながら、百目木は窓際の席……複合機の隣にあり、昨日までコピー用紙のダンボールやトナーの箱が積み上げられていて、そこに机があったことすら気が付かなかった場所を指差していた。机の上のダンボールは半分ほどが足元へ下ろされて、そこに型の古いPC端末やカードリーダーが既に接続されている。
ホコリだらけの机を見つめながら、僕は混乱した頭で事態を把握しようとした。
「さっさと動こうね〜、ギリギリ出勤の君が来るまでに、手分けして特等席を用意してあげたんだからさ〜」
冗談めかした調子で声をかけてきた鹿橋に慌てて挨拶すると、ダンボールの上に鞄を置いて、PCの電源を入れ、朝一の社内便準備に取り掛かった。
僕の席を奪った青年……先日、喫煙室で会った紺色スーツの長身は、この3月に入社した新卒の新入社員だった。名前を狼森勇太(おいのもり ゆうた)といい、春に関西の国立K大学を卒業したばかりの22歳だ。本社営業部と本人の意向が合致しており、配属先は営業部でほぼ決まっているようだが、ひととおり裏方を勉強しておいた方がいいということで、本日から約1ヶ月間、コールセンターで研修するようである。
1階のメールセンターから戻り、会員サービス課宛てに届いている社内便を処理して席に戻る。
「雲谷さん、入会申込書の最新版ってどこにありますか?」
埃だらけの机をウェットティッシュで拭いていた僕は、あまり聞き慣れない声に呼ばれて手を止めた。振り返ると、新入社員の狼森が、送付伝票と宛名カードを兼ねた挨拶状を手に持って僕を見ている。
「ああ……ええと、資料棚の一番左端に入ってなかったかな。今、見に行くよ」
汚れたウェットティッシュをゴミ箱に捨ててキャビネットへ向かうと、どうやら封入作業を始めているらしい狼森も、入会希望者宛ての発送物を手にしたまま、後から付いてくる。落ち着かない気持ちでフロア中央に位置されている資料棚に到着し、クリアボックスの抽斗を確認してホッとした。
「メンバーズクラブ入会申込書はここに入ってるからね」
入会申込書と印字されているラベルが貼りつけられた抽斗を引きながら僕は言った。課に戻って早々、この新入社員から質問されたときには、また在庫を切らせたのかと不安になったが、クリアボックスの中にはピンク色のフォーマットが、ざっと50部近くも入っていた。季節柄、これだけあっても3日ももたないだろうが、本部に充分在庫がある筈だ。本日中に発注すれば明日には届く。
不意に長い手が抽斗に伸びて、フォーマットを大きく広げた。
「けど、これはたぶん古い版ですよね?」
「え……そんな筈ないけど」
思いがけない質問を投げつけられて、焦りながら狼森の手から申込書を奪った。そしてフォーマット右下に印刷されている数字を見ると、今年3月に改定されたばかりの版であることを確認して胸を撫でおろす。この部署に来て早々、百目木とともに総入れ替えした改訂版で間違いなかった。よもや、そのときうっかり古い版が紛れ込んだのだろうかと焦ったが、確かに改訂版が入っていた。
「これが最新版だけど」
言いながら狼森を振り返ると、僕を見下ろしている切れ長の目がすっと細められ、新入社員が素早く踵を返した。
「すみませんが、ちょっと来てもらえますか?」
狼森がデスクへ戻って行く。申し込み書を手にしたまま、僕はその後を追った。そしてCTIの顧客情報と電子マニュアルが開かれているPCのタスクバーから、彼は掲示板を表示させる。昨日午前中のうちに通達された内容だった。確認していない……動悸が激しくなる。
「ここに書かれている資料コード1001って、これのことで間違いないですよね?」
「そう……だけど」
答えながら必死に文章へ目を走らせた。フォーマットに封入されている提携金融機関一覧に変更があったため、改訂版が作られた……急な変更となるが、本日付の発送分より対処してほしい……改訂版は20xx年4月版となる……そんな内容だった。
「ここには20xx年3月と書かれています。これ、最新版じゃないですよね?」
狼森の長い指が、フォーマット右下に印刷されている数字を差した。
「違うね……ごめん、本部に連絡する」
デスクの受話器をとり、内線番号を押した。続いて総合案内課にも連絡し、ひとまず本日発送分として20部分けてもらえるように頼みこむと、5階のフロアまですぐに取りに下りた。その日から僕は、狼森の事務作業を監督することになったが、一事が万事この調子だった。
狼森は優秀な男だった。覚えが良いばかりか、仕事の流れを説明する端から矢継ぎ早に質問され、手際の悪さを暗に指摘される。おまけに仕事のスピードは早くミスもない。すぐに僕の方が狼森のペースに付いていけなくなった。三日も経てば彼から質問されることはなくなり、一週間もしないうちに、自分のやり方で狼森は仕事を効率的にこなしていた。同時進行で鹿橋から指導されていた顧客からの電話対応も、問題なく出来るようになっていたのだから畏れ入る。
「成長が早いねえ〜狼森君は。何かこういうアルバイトでもやってたの?」
中年女性の既会員から住所変更の受付と、登録の支払方法変更用紙、及びポイント交換カタログの送付受付、さらにホームページのキャンペーン商品である、二種類のサイクロンクリーナーについて質問されたため、それぞれの特徴を説明した後に、商品購入を希望されて、総合案内課に連携するという、一連の対応を狼森が無難にこなし終え、背後でモニターしていた鹿橋は感じ入ったように優秀な新人を評価した。
「いえ、そんなことないですよ。説明は電子マニュアル通りですし、引き落とし日によって異なる、ポイント付与期間の違いは、鹿橋さんのアドバイスがないと気が付かなかったですから」
ポイントサービスのエクセルマニュアルを表示させながら、苦笑気味に狼森が自嘲する。
「いやいや、マニュアルのどこを見るべきか、いかにそれを早く覚えられるかが、この仕事に慣れるまでの、最初の大きな壁だからね。ほんの一週間でそれだけ対応出来たら優秀すぎるぐらいだよ。それにポイント付与期間は仮に電話で伝え忘れていても、メンバーズクラブならアカウントページの購入履歴で、ポイント付与予定日まで詳しく確認できるから問題ないしね。ポイントサービスを楽しみにしてる女性だったから、先に教えてあげると、より親切ってだけのことだよ。本当、君みたいに手のかからない新人は珍しい。最近は神経が擦り切れそうになることばかりだったから、特別にそう思うよ」
そう言いながら鹿橋が、手に持っていたOJTの研修項目を一覧にしたチェック表を筒状にして、なぜかポンポンと重量感のあるメタボ腹を叩いてみせた。それが、神経の擦り切れそうになっていた鹿橋の、溜まりに溜まったストレスが形となってここに飛び出しているのだという、本人にとって無言のアピールだったのかどうかはよくわからない。
「ちょっと引いてくれる?」
「あ、すいません……」
背後のキャビネットから抜き取った日誌ファイルを手に持ったまま、鹿橋と狼森の和やかな様子をぼんやりと見ていると、不意に中堅の派遣リーダーに声をかけられ、慌てて椅子を引く。すぐ後ろを、印刷物を手にしたリーダー女史が早足で通り過ぎて行く。通路に残された独特の甘い香水がきつい。
「鹿橋さん、これ狼森君にFAX頼める?」
リーダー女史がOJT中の二人に声を架けた。どうやら他部に連携が必要な案件のようだった。それなら自分の手が空いているから声をかけようかと立ち上がろうとしたところ。
「総案に折電依頼……これ狼森がやってた案件だっけ?」
「そうじゃないけど、ちょっとややこしいお客さんだから、総合案内がちゃんと受けてくれるかどうかわかんなくて。一応解約希望だから総案に振るつもりだけど、理由が故障にかかわるから、修理センターに回されるかも知れないでしょ。けど修セじゃ、メンバーズクラブの規定や解約手続なんてほとんど案内できないし、そういうことって先に頭に入ってる方が、お客さんも安心して話が聞けるじゃない。だから、出来れば先に解約手続きを説明してほしいんだけど、あそこってお客さんにちょっと言われたら、すぐに他部へ振っちゃうでしょ。解約のお客さん、たらいまわしにされると厄介だし……だからその辺、予め交渉しといてほしいのよね」
「ああ、そういう……。まったく、総案にも参ったもんだよなあ……。よし、じゃあ狼森これ架けてくれるか? どっちにしろ、アイツじゃあ話になんないだろうしな」
「はい、やってみます。先に総合案内へFAXでいいんですね」
「そ。送信短縮番号は……」
「125ですね」
「正解。さすがだねぇ」
甘い香りを残す背後の通路を、今度は長身の紺色スーツが反対方向へと素早く移動する。間もなく複合機から用紙の排出音が聞こえ、送信終了の発信音が鳴った。
その日の昼、現状まだ教育係としてコンビを組まされている自分と狼森は、同時に昼休憩へ行かされた。いつもまっすぐに社食へ向かう狼森は、コンビニ弁当派の僕と行き先が異なるが、ほぼ30分後に喫煙室で合流する。その後、気不味い時間を同じ空間で過ごすことがいたたまれず、早々に僕は喫煙室から出て行きトイレの個室でスマホを弄って課へ戻るのだが……。
「面倒臭いなあ……」
先に狼森が席を立つのを確認したあと、数分置いて僕はエレベーターホールへ向かい、やってきた籠へ乗り込み一階の玄関へ向かった。
05