昼時の臨海公園駅は、営業のサラリーマンや買い物中の主婦、学校をサボッている高校生などで、それなりに賑わっていた。
「ん……」
 煙草を咥えながらケースにライターが入っていない事に気が付く。喫煙室に忘れたのだろうか……。ベンチに放り出したコンビニ袋にも手を伸ばし、今しがた食べ終えたおにぎりやパンの袋を掻き分けながら、何かの間違いでライターが入っていないか探るが、入れた覚えもなかったのでやはりない。仕方がないので、ライターを買いに行こうかと売店を見つめていると……。
「どうぞ」
 不意に手を突き出され、目の前にライターの火が現れた。
「……あ、どうも……」
 お礼を言おうと思い、紺色のビジネススーツに包まれた長い腕に気が付いて顔を見上げた。
そこにはすっかり見慣れた若い端正な顔が、やや仏頂面気味に僕を見下ろしていた。
「どうしたんです? 煙草を吸うんじゃなかったんですか?」
「あ、いや……その……」
 あまりのバツの悪さに途方に暮れていると、ライターの火が消えて男が手を引っ込める。
「持ち合わせがなかったので」
「え……、ああ」
 唐突に男が何かを言いかけて言葉を切った。意味がよく理解できず視線を追うと、自分が座っているベンチの隣に設置してある銀行のATMボックスを彼は見ていた。どうやら現金引き出しの為にやって来たらしい。ATMは現在、スーパーの大きな買い物袋を二つも下げている中年女性が利用中である。なるほど、現金引き出しの為に彼は会社を出て来たということを、なぜか説明してくれたようだった。
 不意に視線が合った。青年はそれに気が付くと、また顔を背けてポケットを探る。そして白地に青いラインが二本入っているボックスを開封すると煙草を咥え、再びライターを点けた。それは自分が始めて吸った煙草の銘柄だった。ほんのりと目元が赤い……こんなところを見付けられた自分もバツが悪かったが、ATMにやってきた彼も、それなりに気不味かったようだ。
ATMボックスの中から女性が出てくる。並んでいる人物もいない。
「中、誰も……」
「やめたのかと思ってましたよ」
 なぜか中に入ろうとしない男を不思議に思い、空いていること教えてやろうと声をかけると、再び唐突に狼森が話しだす。
「へ……?」
 言われた意味がまたもやわからず首を傾げた。
「煙草ですよ。喫煙室に来なくなったから」
「ああ、いや……なんとなく、ええと……」
 よもやそれを指摘されると思っておらず、僕は答えあぐねた。それこそ煙草を止めたのだと思わせておけば、喫煙室へ近寄らない理由もなりたつ。だが、わざわざ会社の外へ出て、駅の喫煙所で吸っている姿を目撃されると、さすがに言い訳がしにくく、何より格好が悪い。口籠っていると。
「やっぱりアレですか……俺と顔を合わせたくないんですか」
「いや……そんなこと……」
 驚いて目を見開き視線を上げる。それほど自分がしていた行動はあからさまだったとは思えない。しかし、考えてみれば狼森がやってきて一週間あまり、休憩中にしろ、勤務中にしろ、他の社員と比較してみれば、彼に対してけっして友好的とは程遠い接し方をしていた。自分の態度で好かれていると狼森が感じることはあり得ないだろう。もちろん、特別に狼森を蔑ろにした覚えはなく、それは鹿橋達に対しても、同じことである。だが、自分に狼森へ対する特別な嫉妬心が、本当にまるでなかっただろうか……。容姿端麗、頭脳明晰で、若く将来有望な……自分のデスクを奪ったこの若者に……ただ早くすぎ去ればいいと思っていた残りの2ヶ月を、さらに苦々しいものにしてくれた新人に。
 僕にとって狼森勇太は、他にいくらでもいる、口うるさい、あるいは冷たい、どうでもいい連中とは違っていたのだろうか。
 動悸が激しくなっていく……この青年は、僕という人間を、落ち着かなくさせ、そして底の見えない劣等感へと落下させる。放っておいてくれればいいのに、なぜ、わざわざ声をかけて来た……言い訳も出来ないようなこんな状況で、どうして僕に、自分という存在と、その行動の恥ずかしいほどの愚かさを見つめさせる。
不意に狼森が踵を返す。
「わかりました」
「え」
 そして灰皿へ手を伸ばすと、そのまま立ち去って行った。
 何がわかったといい、どのように理解したというのか……直前に彼が言っていたことを考慮すると、それはおよそ当たり障りのない好ましい解釈だとは、とても思えない。
 即座に狼森がATMを利用せずに引き返したことに気が付く。現金を引き出しに来たと言っていたが、それほど逼迫した状況でもなかったのか……あるいは、まさか……。こちらが尋ねてもいないのに、手持ちがないと狼森が話したときの様子は、考えてみると少々不自然だ。まさかと思うが、ATMに来たという理由こそが、ただの言い訳で、始めから狼森は自分を探しにきたのではなかろうか……だとすると、なぜ? 自分の態度が、そこまで狼森を怒らせていた……どうしても僕にその理由を問い詰めたくて……?
 灰皿に残された狼森の吸いさしが、真中で折れ曲がり細い煙を立ち上らせていた。
「自分だって、ちゃんと消してないじゃないか」
 吸いさしを摘まみ火種を押し潰すと、残り5分を切った休憩時間を確かめて会社へ戻る。
 その日の午後から、狼森は完全に態度を変えていた。
「これとこれとこれ……封筒に速達印を押し忘れてます。それとこっち、FT2−Cじゃなくて、旧式のFR2−Cの取説に入れ直してください。あと、さきほど本宮さんから、一昨日処理分の住変処理、番地入れ間違いがあったと自己申告がありましたよ。昨日ダブルチェックした筈ですよね。一体どこを見ていたんですか、ダブルチェックの意味がないでしょう」
「ああ……ごめん。えっと、見落としていて……」
 目の前に狼森が投げつけるようにして置いた、処理間違い分の送付物へ目を落としながら、おろおろと言い訳する。自分のミスもバツが悪いが、ダブルチェック漏れの指摘は最悪だった。
「そんなことはわかっているんです。以後、注意してください。……で、今一体何をされているんですか」
「これは、ええと……柿元さんから頼まれた、FP3系のDMの発注確認で、もう在庫が少ないからって……」
 午前中にタブレットPCのFP3シリーズの在庫が全体に少ないから、いつ頃入荷するのか教えてほしいと頼まれていたのだ。
「FP3系は入れ替えがあるから、わざと在庫を減らしてあるんじゃないですか。商品自体が新しくなって、二週間後に新発売ですよ。新しいDMは明日到着です。……もう、まったく……何をやっているんですか! とりあえず、柿元さんには俺から説明しておきますんで、さっさとそれやり直してください」
 百目木の不器用な笑いもかくやと思うほど、音量調節を無視した声で僕を非難した狼森は、休憩へ行こうとしている柿元の後を追い掛けて出て行った。
「ひぃ〜、怖い怖い。まあ若いから抑えが効かなくても仕方ないねえ……雲谷君もしっかりしないと」
「すみません……」
「ドンマイ、ドンマイ……さてと、俺も休憩に行こうっと。まだA定食残ってるかなあ」
 珍しく気を遣ってくれた鹿橋に救われたが、それほど狼森の剣幕に驚いたということだろう。百目木も茫然と狼森が出て行った出口を見つめていた。

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