部署を出たところで僕は、トイレへ寄って帰るつもりだった足を思わず止める。
「勇太……なんで、お前ここに……?」
 背後で静かに閉まる自動ドアのモーター音を聞きながら、目の前の男に茫然と質問した。
「もう7時ですよ? 百目木さんが出てきてから30分も経ってます。今まで鹿橋さんと何してたっていうんですか」
「だから……お前、送別会は? 百目木君もそっちに行った筈だろうに、なんで主役のお前がこんなとこにいんだよ」
 エレベーターホールで腕を組みながら僕を見下ろしている狼森を、続けて追及する。
「たしかに百目木さんからは、さきほど玄関でわざわざ挨拶して頂きました。彼は会場のマリンホールへ向かわれたみたいですよ」
「いや、お前が行かないと始まらないだろうに、さっさと会場へ行ってやれよ」
「もちろんちゃんと顔も出して来ましたよ。花束贈呈はお断りしましたけどね。一通り、女性陣には個別に挨拶して来たんでご心配なく。その辺はぬかりありません。その上で、急ぐのでと頭を下げて、先に失礼して来たんです。あとは自分達で盛り上がってると思うので、気遣いは無用だと思いますよ。みなさん理由を付けて呑みたいだけでしょうから」
「ああ、ちゃんと足を運んで断り入れてきたのか。なら大丈夫だろうけど……それにしたって、花束ぐらい貰ってやれよ、せっかく用意してくれたんだろうからさ」
「そりゃあ、代表で一人二人っていうなら僕も礼儀として頂きますけどね……個別に10人も並ばれて、ネクタイだの財布だの、プレゼントまで用意されたんじゃあ、さすがに断るしかないでしょう」
「なんだそれ……イケメンエリート新入社員ならではのスーパーオプションか?」
 鹿橋が聞いたら、さらに狼森の陰口が激増しそうな気がした。近い将来、弘前部長の意向とは別に、鹿橋が総務や海事とともに、常務派に参戦する未来が見えそうで行く先が思いやられた。 狼森が皮肉そうに吹き出す。
「違いますよ。僕が社長の息子だからでしょ」
「へっ? だって、社長の息子は総務の……」
 鹿橋達も言っていた通り、フジエレクトロニクスの代表取締役社長八戸守矢(はちのへ もりや)の息子は、総務部にいる八戸守衛(はちのへ もりえ)であり、百目木の見たてでは総務部と海外事業部とともに、鑓水常務の後押しの元、次期社長の椅子に座るかも知れない人物である。まあ、順当に行けばそういうことになるのだろうが。
「正確には前妻の子ですけどね」
「ってことは、お前のお袋……」
 オペレーター連中の噂話を咄嗟に思い出す。
「ええ。両親は俺が小学生の頃に離婚してます。そして、総務の八戸守衛は俺の義兄ってことになりますね……話したこともないですけど」
 義兄。つまり、身体が弱かった狼森の母は中々子供が出来ず、当時秘書で社長の愛人だった現社長夫人が、先に妊娠した。その後社長は愛人を選び、狼森と彼の母を捨てた……そういうことなのだろう。
「待てよ、……けどさ、その後お前が生まれてるわけだろ? なんで社長はお前たちを捨てたわけ? しかも身体の弱いお袋さんを追いだすなんて……」
 僕が返すと狼森は目を丸くしたあとで苦笑した。
「そんなこと、俺一言も言ってませんが……なるほどね。あの噂好きの派遣さん達が、色々勝手に話を作ってるみたいですね。兄が海事の男を片端が食いまくってるとか……」
「いや、それはさすがに初めて聞いたが……やっぱり、全部嘘なのか?」
「まあ、話半分ってところじゃないですか? 確かに俺の母は身体が強くなく、俺は母が40近くなってからの子供でしたからね。俺も子供の頃は病弱でしたし」
「だよな……なのに、なんでそんなデカくなったんだ?」
「身長は父譲りだとして……そりゃあ努力して身体作りましたもの。……母は身体は弱かったですけど、奔放で活動的な女性です。還暦の今でもね」
「……あれ? 社長って今……」
 目の前の男と、その両親の年齢差が急に気になった。そういえば、写真で知る限りフジエレクトロニクスの社長は、とてもではないが、大学卒業したての子を持つような年齢ではないような気がした。ちょっとした混乱を起こしていると、その疑問に狼森が穏やかな声で答えを示してくれた。
「父は65。二人が結婚したのは36年前です。それから14年間も母は妊娠できなかったわけですよ。夫婦生活もままならなかったみたいですし、母には悪いですが、男としても、それにファミリー企業の次期社長だった当時の立場としても、外に愛人を作るのは仕方なかったのかもしれません」
 つまり、狼森は八戸社長が43歳になってからの子だったということだ。なるほど、年齢を考えれば、焦る気持ちもわからなくないかもしれない。しかしだ……狼森は平然と答えてくれたが、相手は自分の母親を捨てた男である。内心では当然わだかまりがないわけもなかろう。だからこそ、彼が、優秀さを買われたのだとしても、よく自分達を裏切った父親の元へ、やってきたものだと……僕はそれが不思議で仕方なかった。
「お前、社長に恨みとかないの?」
「そりゃあ、母以外の女性との間に子供がいて、しかもその人の方が俺よりも先に生まれていて……まったくなんとも思わないって言えば嘘になります。ですが、さきほども言いましたが、母は病気がちなくせに、結構積極的で行動派なんですよ。……おそらく、父を先に裏切ったのは母です」
「どういう意味だ……ええと、お前、そういえばアメリカに行ってたんだよな。それってなんで……」
「あの頃……リョウちゃんに守ってもらった直後、俺はリョウちゃんに似合う男になりたかったから、もっと強くなりたいって母に言いました。すると母は、それなら気候の良い場所で過ごせばきっと丈夫になる。知り合いの道場もあるから、そこで身体を鍛えればいい……そう言って、俺を説得してカリフォルニアへ行ったんです。当時はリョウちゃんと離れることが辛かったけど、それでも身体が強くなるならそうするべきだと……。母が自分のためにしてくれたことなのだと、そう信じて疑いませんでした。ですが、週2回の道場にはいつも母が同伴しましたし、終わったら俺は先に帰らされるのに、母が帰ってくるのはいつも夜遅く、俺が自室で寝たあとでした。……今思うと、彼は母の愛人だったんですよね。あとからわかったことですが、師範は元在日アメリカ軍の退役軍人で、帰国と僕らの渡米時期がぴったり合ってました」
「それは……なんとも……」
 オペレーター達の噂話は、たいがい酷い物ではあったが、想像の上を行く過去を狼森は経験していた。話を聞いてみるまでわからないものである。
「もちろん、こんなことをいつまでも続けられるわけがありません。突然、息子を連れてアメリカに移住してしまった妻を、父は人を使って調査させ、あっという間に浮気がばれて離婚が成立しました。そして僕らの家には、晴れてパパ……師範が迎えられ、その頃僕は八戸から母の旧姓である狼森に変わりました」
「つまり、お袋さんはその元米兵と再婚したけど、お前は籍を入れなかったってことか?」
「いえ……まあいわゆる事実婚って奴です。母はたぶん、俺のことを思ったんでしょうが、なにより退役軍人のパパも大概お爺ちゃんでしたからね。へたに母の籍を汚すのを躊躇ったんだと思います。こういう話をすると、大抵母が騙されていたんだの、遺産相続させないためだと言う人がいますが、そもそも刑期縮小の為に兵役に就いていた父には、多額の賠償金があって、プラスの資産なんてありませんでしたから……。それでいて、パパは俺達を出来るかぎり守ってくれました。離婚で八戸の別荘だったマンションも出て、行き場のなくなった俺達をアパートに住ませてくれたり、毎月の賠償金支払い後、手元に残ったいくばくかの年金から、俺達の生活を守って、俺を高校まで進学させてくれたんです。……今でも俺にとって、唯一の父親らしい存在はあの人だけだと思ってます。……そんな生活も、パパが亡くなるまでのことでした。身体が弱くて仕事が出来ない母と、アルバイトしてたと言っても、まだまだ学生でしかない俺とが、そのまま外国で生活できるわけもない。10年ぶりに俺と母は日本へ戻り、そのまま母の実家がある京都に住むことになりました。どうにか国立のK大に進学できたまでは良かったのですが……3年の頃、母がとうとう入院しました」
「お前のお袋さん……大丈夫なのか?」
 狼森の母親は60だとさきほど言っていた。元から身体の弱い女性ということなら、あるいはまだ入院している可能性もある。
「今はどうにか。……といっても薬漬けですし、しょっちゅう入退院を繰り返してますがね」
「そうだったのか……心配だな。となると、お前……」
 だとすると医療費だって馬鹿にはならない。そこでふと気が付いた。
 出来の悪い長男。片や、離婚した妻の子とはいえ、実子であり、優秀な狼森。ドラ息子を祭り上げ、全権を握ろうとしている常務……というあたりは、百目木の妄想の域を出ないとしても、しかし、大企業の将来を任せるにあたって、我が後妻の息子に不安を感じたのだとしたら、社長自ら優秀な前妻の子を呼び戻すということも、選択肢としてありえるのではないか。
「リョウちゃんも、色々聞いてると思いますが、まあ先ほども言った通り、半分ぐらいは本当なんですよ。……あるとき、京都の家へ父と弘前部長がやってきました」
「部長が……?」
 そういえば、さきほど弘前部長は社長の従兄弟だと、鹿橋達が話していたのを思い出した。
「ええ。どうやら弘前部長が言い出したことだったみたいですね。あの人は中々の策士ですよ……たとえば、階上工場長からリョウちゃんが第3工場にいることを聞き出してくれたのも、あの人ですから」
「確かに、弘前部長と階上工場長って呑み友達だって話は聞いたが……」
 何かが繋がりそうで繋がらなかった。頭で単純に処理するには、狼森の話は情報量が多すぎた。狼森が話を戻す。
「それでまあ……何しろ俺にとっては思春期を挟んだ12年ぶりの父ですからね。正直、お前の父親だと言われても、さっぱり実感は湧かないし、知らないおじさんでしかなかったですよ。そんな人に、入院費も医療費も、当面の生活費も小遣いも、なんでもくれてやるから、自分のところへ来てほしい……そう言われたんです。母の実家は普通の家でしたし、90を目前にした祖父母が肩を寄せ合って年金生活をしているような状態です。そんなところへ、手のかかる母と俺が転がり込んだだけでも、随分な苦労だった筈です。俺には迷う余地なんてなかった……少しでも彼らを楽にしてやれるなら、俺が重荷にならなくて済むなら、この男に付いていくしかない……そういう選択だったんですよ」
「お前……そんな事情で……」

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