La boheme, la boheme <<un>>
紺色のスーツケースを足元に置き、些か疲れ気味の背中を見せて、その女は立ってい た。 あるとき昔の近所へ散歩に出かけてみると La boheme, la boheme……。 お気に入りのシャンソンを機嫌よく口ずさんでいるうちにいつのまにか目的地へ到着していた。 皮肉な気持ちで俺はその言葉を受け止める。 俺は料金メーターを置かないベンツを乗り回し、観光客相手に三倍以上の金額をふっかける、いわゆる悪徳タクシードライバーだ。 <イビスポルトドモントルイユ>の正面玄関を出た俺は、そこで見慣れたナンバーのベンツを発見する。 仕事に戻るというアヴリルと分かれた俺は、シャンゼリゼを南東へ向かうと、そのままセーヌ川沿いを走り、待ち合わせのため、観光客でごった返すルーヴル美術館へ入った。 パリでもっとも美しいパッサージュと言われているギャルリー・ヴィヴィエンヌのカフェへ移動すると、白いクロスがかかったテーブルを間に、俺とアリーヌは腰を落ち着けた。
目の前にはリムジンバスの券売機。シャルルドゴール空港とオペラ座を結ぶ、ロワシーバスの後ろ姿を見送ったあと、女は諦めたような顔をしてスーツケースを引き摺り、力なくノロノロと、そのまま歩道を進む。行く当てすらあるのだろうか。
「お嬢さん!」
愛車のベンツの前に立ち、声をかけてみると、女はすぐに顔をあげた。
ウェーブがかかった黒髪に、カチューシャ代わりに耳へかけた黒のサングラス。日本人だろうか。
「eh…Taxi?」
英語で聞き返される。
返事の代わりに飛び切りの笑顔を見せて後部座席を開放してやると、女はホッとしたように車へ乗り込んできた。
まだそう重くはないスーツケースを受け取り、トランクへ運び入れる。
「どちらまで?」
運転席に戻った俺は、客へ行き先を尋ねる。
言葉が通じるかどうか不安はあったものの、客の方でも予測がついたのだろう。
質問を聞いた途端、彼女は旅行会社が用意したらしいパンフレットの1ページを見せて、宿泊予定のホテル名を指差した。
Ibis Porte de Montreuil。団体客向けの大型ホテルだ。
パンフレットにはご丁寧に、住所と周辺地図まで印刷されている。
<イビスポルトドモントルイユ>は、日航機や全日空、KLMなどが到着するアエロガール1で客待ちをしていると、最近よく指定されるホテルのひとつである。
渋滞がなけれ ば空港からは30分ほどで移動が可能だ。
ターミナルから公道へ出ると、フロントグラスいっぱいに雲ひとつない青空が広がった。
背後からは戦闘機にも似た独特のシルエットが、もの凄いスピードで上昇してゆく。
「おっ、コンコルドだな」
観光客が喜びそうだと思い空を指差して教えてやるが、即座に英語で聞き返された。
俺は笑顔で曖昧に言葉を濁し、さっきから思っていたことを逆に質問する。
「ひょっとして、あんた日本人かい?」
だがこれも通じない。
どうやら客はまったくフランス語を理解できないらく、俺はこれ以上のコミュニケーションを諦める。
バックミラーを見ると、女は会話が成立できなかったことに随分と不安を感じているようで、俺はミラー越しに笑顔を見せてやる。
すると少しだけ彼女の表情が和らいだような気がした。
雰囲気を入れ変えるように、俺はラジオのスイッチに手をのばした。
スピーカーからは馴染み深い音楽が流れてくる。
若い頃に見ていた壁も通りもすっかり変わってしまい
僕はもう見分けることが出来なくなっていた
階段を上がって自分のアトリエを探そうとする
目の前に広がる新しいモンマルトルの景色
僕には痛ましく見えた
リラの花が消えてなくなっていた
La boheme, la boheme
僕たちは若かった
La boheme, la boheme
今はもう、意味もないその言葉
「お客さん、着いたよ」
教えてやるまでもなく、振り返った視線の先では、両手で長札入れを握り締めた姿のまま、シートの上で女が固まっていた。
必死そうなその姿を見て俺は苦笑する。
タクシーの中だというのに、それはまるで、スリやヒッタクリから自分を守ろうとしているかのように思わせた。
無理もない。
料金メーターのないタクシーに乗っていると気付いて、不安を感じない客などどこを探しても見つからないだろう。
だがいくら警戒されたところで同じことだ。
払うなら払う。払わないなら払わない。
決めるのは客で、俺は欲しい金額を彼らに提示するだけ。
「How much?」
予期していたセリフが英語で発音され、俺は昨夜カフェで貰ったレシートの裏に、通常料金の約三倍を殴り書きにして彼女に見せる。
すると意外なことに、女は大人しく紙幣を引き抜き、500フランを差し出してきた。
顔は不満そうだったが、何も言わないところを見ると、言葉の壁が彼女に鳴き寝入りを決断させたらしい。
もちろん雄弁なフランス語で反論されたとしても、ドアのロックを解除してやらなければ、大抵の客は大人しく言われた料金を支払ってくれるのだが……。
「メルシー」
運賃に対して、二倍以上のサービス料金。
喜々として500フラン紙幣を受け取ると、俺は車から抜け出し、乗客のスーツケースをトランクからひっぱり出してホテルのロビーまで運び入れる。
憂鬱な顔をして女は後ろから着いてきた。
「部屋はもう予約してあるのか?」
世間話のつもりで頼りなさそうなその顔に聞くが、案の定返事は返ってこない。
この分ではチェックインひとつで、また随分と手間取るんじゃないだろうか……。
俺はロワシー空港で、彼女がリムジンバスの乗車券の購入方法が判らず、悲しそうに券売機を見つめていた姿を思い出していた。
国際空港にあるにも拘らず、その券売機にはフランス語でしか利用の仕方が説明されていなかった。
だから俺のような仕事が成り立つといえば、そうかもしれないが……。
「ちょっと待ってろ」
彼女に言い残すと、俺はフロントまで走り立っていた黒人の女スタッフに声をかけた。
「いらっしゃいませ、ご予約は承っておりますか?」
「俺じゃない。あそこに東洋人の女が立っているだろう。フランス語がまったく話せないらしいから、面倒見てやってくれ」
二、三人の客を抜かしてカウンターに肘を突き、ロビーの真ん中でぼんやり立っている彼女を指さしながら、俺はフロントに渡りをつけてやるつもりだった。
しかしそんな俺の態度が気に障ったのか、女スタッフは皮肉っぽい笑みを口元に浮かべると、
「あらそう、それはどうもご苦労様。ところで彼女からは、一体いくらボッタくったの?」
「人聞きの悪いことを言うな。俺は客を運んで来ただけだ」
「それは失礼。でもあまりウチの前でチョロチョロしていると、そのうち警察につきだすかもよ」
言われてから気が付いた。
この女には数日前、アメリカ人男をここに運んできたとき、玄関先で警官を呼ぶの呼ばないのと騒がれた現場を、間近に見られていたのだ。どうやらここは俺の分が悪いらしい。
「ああ、わかったよ。……とりあえず、ちゃんと部屋を取ってやってくれ。追い返すような真似だけはしてやるな」
すましたフロント係にそれだけ言うとまた女のところに戻り、
「今あの黒人女性に声をかけておいたからな。……まあ感じは良くないが、べつに悪い女じゃないだろう」
そう言って彼女の顔を見ると、言葉は判らないながらも状況はつかめたらしく、少しだけ顔色が戻っていた。
「一人で大丈夫か?」
聞くと彼女は鞄の中からバウチャーを見せて、
「メルシー」
初めてフランス語を話した。
「そうか、バウチャーを持っていたのか……」
予約済みなら言葉が判らなくても大丈夫だろう。
「後は一人でいけるな? じゃあそれ落とさないように気をつけろよ」
そう言って彼女の背中をポンと叩き俺は出口へ向かうと、もう一度後ろからヘタな発音で、「メルシー」と追いかけるように聞こえてきた。
"merci"。
俺の仕事場は、例えば市内の主要駅前であったり、ルーブルやオルセー美術館、ノートルダム寺院といった、観光名所であったり、空港前であったりさまざまだ。
だが中でも、疲れた身体を引き摺って、一刻も早くホテルのベッドに落ち着きたい客が世界中から集まるロワシー空港前、…それも日航機や全日空といった日本人客を多く運んでくるアエロガール1は、お気に入りの職場と言ってもいいだろう。
それも狙い目は、恐らくはアジア方面で乗り継ぎを繰り返し、二十時間を越える長時間フライトに耐えてまともな判断力も失っている、20歳前後の若い女性客……、そう、ちょうど先ほどの女のような日本人。
目の下に濃い隈を作り、重そうにスーツケースをズルズルと引き摺って歩くその姿を見ただけで、俺の商売魂が大いに刺激さられるというものだ。
そんな俺は、当然ホテル側からはいい顔をされない。
先ほどの黒人フロントクラークは俺を「警察に突き出してやる」と脅してきたが、今のところホテル前で客取りをしたり、派手な大風呂敷を広げていないせいか、実際に通報された経験は一度もない。
例のアメリカ人に騒がれたときでさえ、すぐにドアのロックを解除してやったら男は大人しく出て行った。
警察を呼ぶと脅されたら、即座に金を諦める。ここが肝心だ。
所詮悪いことをしているのはこちらなのだから、それだけで不利である。
タダ乗りになるとか、そんなことを気にしている場合ではない。逮捕されれば、元も子もないのだ。
実際、この見極めを誤ってパクられた同業者を俺は何人も知っている。
俺だって、いつこの手に手錠を掛けられるか判らない。
いずれにしろ、俺という人間がまず褒められた男じゃないのは確かだ。
そんな野郎が、乗客から「メルシー」なんて言葉を貰う道理はない……。
間もなくその持ち主の方から声をかけられた。
「よお、ピエール」
振り返ると帽子を被った赤毛に髭面の貧相な男が、マクドナルドを片手にガードレールの向こうから手を振ってきた。
同業者のアヴリルだ。
「なんだ、お前もここだったのか?」
俺はアヴリルが差し出してきた揚がりの悪いポテトを一本受け取ると、ガードレールを跨いでそのまま白いパイプに腰掛ける。
「お前いつからどこぞの上品なお抱え運転手になったんだよ」
アヴリルも紙袋を抱えたまま隣に並んで腰掛けると、笑いを含んだ口調で俺を揶揄ってきた。
「なんの話だ」
「スーツケースをロビーまで運ぶは、チェックインは手伝ってやるは、あげくに”一人で大丈夫か?”だなんて、一体どの口が言うんだ、そんなこと?」
「お前聞いていたのか」
全部観察されていたらしい。
「たとえ、ぼったくりタクシードライバーでも、女性と見ればフェミニストは優しくなるもんなのか?」
「まあ、そんなところだな」
目を細めて皮肉を言うアヴリルの視線を避けるように、俺は視線をホテルの玄関側へ逸らす。
さすがに恥ずかしかった。
同業のヤツにあんなところを見られていたとは、最悪だ。
「いいのかそんな言っていて。そろそろだろ、アリーヌの結婚式? 離れて暮らしていても父親としてやれるだけのことはやってやりたいって、言っていたじゃないか? 結婚だ出産だなんだって、これからいくらでも金がかかるだろうに」
相変わらず皮肉の混じった口調が俺を詰る。
「金はちゃんと貰ったさ。ロワシーからここまで500フラン。いつものとおりだ」
「なんだそりゃ。偽善者だな」
「なんとでも言え」
振り返るとヤツは相変わらず皮肉っぽい笑みを浮かべた顔で、俺を見つめていた。
俺は立ち上がり、ジーンズに零したポテトのクズを両手で払い落とすとそのまま車に戻る。
「おいもう仕事か?」
素早く平らげたマクドナルドの袋を丸めるとアヴリルも立ち上がってついてきた。
「いや、花屋だ」
「花屋?」
白百合を束ねただけの簡素なブーケを白い墓石へ手向けると、俺は石に刻まれたそう古くはない墓碑銘を見つめた。
ジュスティーヌ・ヴィトリ(1956 - 1992)。
生まれた時のままの名前で記されたその下に、短すぎる彼女の生涯が、明確に刻まれている。
「もう五年か。早いな」
後ろでアヴリルの声が聞こえた。
死者への敬意を表して、彼は帽子を手に神妙な面持ちで立っている。
澄み渡った秋晴れの空の下、広大な敷地の共同墓地。
白い天使やマリア像の足元には鳩が戯れ、土の地面の上ではところどころに、熟れかけた栗の果実がわずかに実を綻ばせている。
臆病なリスたちが、その実に興味を示しつつも、俺たちの足音が気になって、木陰から出ようか出まいか迷っている。
平日昼間、大都会の墓地は閑散として、シャンゼリゼを行き交う車の雑踏だけが、ざわざわと耳に入っていた。
彼方に見えるブローニュの森。緑を背景に、なだらかな坂を下りながら俺たちは墓地の門まで引き返した。
ジュスティーヌが死んだと知らされたとき、俺は5件目のバーから閉店時間だと追い出されて、アパルトマンへ帰ったところだった。
ドアの前に立っていたアリーヌの小さな顔は、俺を見るなり泣きだした。
事故だった。
酔っ払い運転のトラックが、残業帰りのジュスティーヌの運転するルノーへ、猛スピードで突っ込んできたのだ。
8年前に離婚で片親を失っていたアリーヌは、十六歳でもう片方も失い、そのままジュスティーヌの両親へ引き取られた。
定職のない俺に、親権はなかった。
「墓場の土は冷たいんだろうな」
「じゃあお前のときは、毛皮を着せて埋めてくれって、遺書に書いておけよ」
軽快なアヴリルの応えに、俺は力なく笑った。
カルーゼルの凱旋門を通り過ぎ、ナポレオンの中庭へ入ると、晴天の下、ガラス張りのピラミッドが、キラキラと陽光を照り返していた。
入場受付は団体客でごった返し、先頭に立った小柄な女が旅行会社のロゴをプリントした小さな旗を振り回して、知らない言葉を大声で叫んでいる。
時間のかかる受付をどうにか終わらせ美術館内へ入ると、受付階の地下から真直ぐドノン翼を目指した。
ダ・ヴィンチの『モナリザ』に続いてルーヴルでもっとも人が賑わうギリシャ・ローマ部門。
カメラやビデオを片手に観光客が群がる『ミロのヴィーナス』を横目に俺はダリュ階段を駆け上がる。
大階段の踊り場で、ひときわドラマティックにその翼を広げる勝利の女神。
『サモトラケのニケ』。
記念撮影に興じる観光客に混じって、ここには一心不乱に筆を走らせる美術学生たちの姿も多く見られる。
ぐるりと首をめぐらしてアリーヌがまだ来ていないことを確かめると、俺はふらふらと踊り場の周りを歩いてみた。
自然光を取り入れた天井の下で柔らかい光に包まれ、堂々たる凱歌を上げる勝利の女神。
長いドレスを纏わりつかせて、右足を大きく前へ繰り出し、やや腰を捻り気味に、ピンと背筋を張った躍動感溢れる肢体。
しかしそこに、女神の顔を見ることは出来ない。
翼を広げた肩の上に、俺は様々な女の顔を思い浮かべてみる。
ミロのヴィーナス、モナリザ、ジュスティーヌ、アリーヌ…。
いずれとも想像しがたい女神の本当の姿は、はたしてどんな美女だったのだろう。
紀元前二世紀ごろの作品とされているこの壊れかけた彫刻の周りで、俺はふと、奇妙な光景に出くわした。
大階段のやや左、彫刻を描くには少々離れすぎている、階段の殆ど上がりぐちで、一人の小柄な東洋人がスケッチブックに、素早く鉛筆を走らせている。
俺は大階段を下りると、まだ学生に見えるその人物の背後へ回り、手元を覗いた。
「おい、坊主」
呼びかけると学生は振り向いた。
どうやらフランス語が判るらしい。留学生だろうか。
「お前こんなところで、何描いてんだ?」
俺は少年の隣へ腰をかがめると、人の顔で一杯に埋め尽くされたスケッチブックを覗き込み、呆れるとともに感心した。
白人、黒人、アジア人……様々な人種が古代の美術品を前に、その顔へ賛嘆の色を滲ませている。
「何って……いいじゃん。人が何描こうが」
言うと少年は不機嫌そうに俺から背を向けて、スケッチブックを隠す様に、ふたたび凄まじい動きで鉛筆を走らせ始めた。
「まあそりゃ自由だが」
どうやら嫌がられているらしい。
俺は立ち上がると、再び大階段を上って上から少年を観察しなおした。
変なガキだ。
入場料を支払い、これだけの芸術品に囲まれながらその作品には興味を示さず、鑑賞している人間の姿など描きたがるとは……。
だが邪魔さえされなければ構わないのか、俺に見られていることなど気にせず、少年は真剣な顔をして人の顔ばかり描いていた。
日本人……それとも中国人か?
ヨレヨレの長袖Tシャツに半袖のパーカーを羽織った小柄な姿はどう見ても十代。
アジア人が若く見えるといっても、おそらくまだ二十歳にはならないだろう。
そんなことを考えていると、不意に後ろから肩を叩かれた。
「アリーヌ……」
そこには1年ぶりに目にする、我が娘が立っていた。
「綺麗になったな」
素直な感想を口にするとアリーヌは苦笑を見せ、
「1年前と変らないわよ」
白い頬を薄く染めて言った。
「母さんに段々似てくる」
「母さんは父さん似だって言っていたわよ」
そう言うとアリーヌは、ジュスティーヌに瓜二つの青い目を細めて、エスプレッソが入ったカップを持ち上げた。
ピンクのマニキュアを塗った、艶のある細い指先が、カップの華奢な持ち手に絡みつく。
「確かに髪の色は、俺に似たな」
「ジョリスが綺麗なブロンドだって褒めてくれるわ」
「あいつに褒められても、俺は全然嬉しくないぞ」
娘の口から聞かされる男の名前に、俺はつい不貞腐れる。
「父さんを褒めてるんじゃないわよ」
アリーヌが可笑しそうに笑った。
俺はますます面白くなくなり、椅子の背に掛けたジャケットのポケットから煙草のパッケージを取り出すと、苛々とした手つきで1本を咥えた。
しかしライターが見つからず、ジャケットやジーンズのポケットを叩きまくる。
「手紙、読んでくれたんでしょ?」
それを見ていたアリーヌが呆れた調子で言った。
彼女はカップをテーブルに置いて、膝に乗せていた鞄から女らしいライターを取り出すと、両手を伸ばして風を遮りながら、俺の煙草の先に火を点してくれた。
そういえば彼女もスモーカーだったことを思い出す。
「……本当に結婚するのか?」
顔に纏いついてくる煙の流れに目を細めながら俺は言った。
先週末、前日の消印でアパルトマンに届いていた、娘からの結婚報告。
厚みのある封筒に記された何年か振りに目にする彼女の筆跡を、俺は複雑な気持ちで眺めていた。
ご丁寧なことに相手の男と連名で届けられていたのだから、今さら確かめる話でもない。
「先月ジョリスのご両親にもご挨拶したわ」
「そうか……」
返事をしつつ、実の父親である自分への報告がそれよりずっと後であったことに、俺は少なからず傷ついた。
煙草がやけに苦く感じられ、俺は堪らず火種を消す。
アルミ製の灰皿の上で、まだ長さのあるジタンがグニャリと曲がって転がった。
黒くなった火種の先から、白い煙が細く一本立ち上る。
「……随分立派なご家庭らしいな」
俺は間が持たず、とりあえず話を続けた。
ジョリス・ド・カッセルは伯爵家の跡取り息子で、父親は有名な国文学者だと聞く。
「素敵な方たちだったわ。マルセイユに別荘があって、クリスマスはそこで一緒に過ごそうって誘ってくださったの」
「大丈夫なのか?」
俺は正直、親のいないアリーヌが、彼らの間で肩身の狭い思いをするのではないかと不安だった。
「心配しないで。ご両親とも優しい人たちよ」
そう言って微笑むアリーヌの顔は、本当に幸せそうだった。
「そうか……。じゃあ俺は安心してお前を見送っていいんだな」
寂しくないと言ったら嘘になる。
だが、父親として何もしてやれなかった俺のような男が、年に一度でもこうして娘の成長してゆく姿を見守り、そして彼女の門出を祝してやれるのなら、これ以上の贅沢はないだろう。
「もう父さんとこうしてデートすることも出来なくなるわね……」
「何を言っている。別に構わないだろう、他の男と会うわけじゃあるまいし」
急に娘から突き放されたような気がして、俺は冗談めかしながら反駁した。なんだか雲行きが怪しい。
「そういうわけにはいかないの。ジョリスやあちらのご両親がいいって言ってくれたとしても、父さんとはもう親子じゃないんだし、ご親戚の手前を考えると、あまり言い顔はされないと思うから……」
濃い金色の長い睫に縁取られたブルーの瞳が、不意に逸らされ、影を帯びた。
「そうだよな……」
ショックだった。
親子じゃない……、改めてそう言われると俺には何も言い返すことが出来ない。
「多分、式にも招待出来ないと思うけど……」
アリーヌはチラリと俺の表情を伺った。
「ああ判っている。……でも、お祖母ちゃんたちは来てくれるんだろ? いいじゃないか。そうしたら淋しくない。俺からはドーンと祝いの花束でも派手に贈ってやるから、楽しみに待っていろよ」
「それもやめて欲しいの」
「………」
青い瞳が無表情に俺を映し出した。
娘を纏っている空気が、一気に氷点下まで下がった気がする。
「正直に言うわ……。父さん、今日はお別れを言いにきたの」
「別れって……、おいアリーヌ何言って」
思いがけない言葉を突きつけられて、俺はその単語が持っている簡単な意味すらすぐに理解出来なかった。
いや、理解したくなかった。
「ド・カッセル家は名門の家柄なの。父さん判るでしょ?」
「ああ……。ああ、そうだよな」
そうさ俺とは住む世界が違う。そして、本当ならおまえも……。
「もう連絡しないでほしいの」
俺みたいなヤクザ野郎が、もうおまえの側にいてはいけない。
アリーヌ、それがおまえの望みなのか?
俺が側にいることが、幸せになろうとしているおまえの足を引っ張る……、そういうことなのか?
「アリーヌ……」
目の前にいる青い瞳はそれ以上の会話を拒否していた。
「ごめんなさい」
硬い声でアリーヌはそう言うと、一瞬だけ俺の顔を見つめ、そのまま背中を見せて立ち去って行った。
それが21年間娘だと思ってきた彼女との、……いや、今日で22になる我が娘との永遠の別れであるらしいことを、心のどこかで他人事のように考えていた。
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