La boheme, la boheme <doux>

シンガポールを経由して到着したフランスは、10月だというのに、真夏のような暑さだった。
シャルルドゴール空港からはパリ市内に、あらゆる交通網が完備され、予約していたホテルへも、鉄道で簡単に移動が可能だったが、27時間という超・長時間フライトを経験した身体には、それもなんだか億劫に思えた。
俺はカートからバックパックを取り上げると、バス停を探して空港内を移動する。
すぐに見つかったその場所には小さな箱と、排気ガスを撒き散らして立ち去る大型車両の後ろ姿。
並んでいた人たちは、今行ったバスに全員乗り込んだ後なのだろう。そこには誰一人、残っていなかった。
仕方がないので、次のバスが来るのを待つことにする。
「そうだ、乗車券……」
だが傍らに立っている小さな券売機に目を向けて、俺はすぐに根を上げた。
イラスト入りの乗車券購入方法が、フランス語でしか説明されていない。
フランス人の英語嫌いは世界に向けて有名な話だが、国際空港でこの対応は、ちょっと意地悪だろう。
ふと視線を感じて歩道脇を見ると、誘いかけるような目を向けて、一人の男が立っていた。
彼の後ろには一台の白い車。
「Taxi?」
おそるおそる近付いて聞いてみると、男は後部座席を開放してくれる。
料金は気になったものの、飛行機のなかでは寝られない神経質さも手伝って、すでに24時間以上も起きっぱなしだった俺に、柔らかそうなシートは誘惑以外の何物でもなかった。
吸い込まれるようにしてシートへ身を滑り込ませると、いつのまにかバックパックを収めていた車のトランクが、後ろでバタンと閉じられた。
続いてドライバーが左前の運転席へ入ってくる。
「Ibis porte de Montreuil s`il vous plait」
拙いフランス語で告げた行き先は、とりあえず通じたようで、車は静かに発進する。
車内は外から想像していたよりも、ずっと広々としていた。身を沈めたシートもクッションがよく効いている。
窓の外を流れる景色を楽しむ間もなく、俺はウトウトとしかけていた。
突然、何かを聞いてきたドライバーの声に、寝入りばなを引き戻される。
「Etes‐vous Japonais?」
ドライバーがゴキゲンな笑顔で、ミラー越しにこちらを見つめていた。
ジャポネって言ったぐらいだから、「日本人か」と聞かれているのだろうか? 
それとも「日本から来たのか」って聞いているのかも知れない。
どちらか迷ったものの、どちらも合っているので、とりあえず「yes」と答えておく。するとその答えに満足しなかったのか、ドライバーは苦笑しながら、前を向いてしまった。質問の意味を取り違えたのかもしれない。
俺がフランス語を理解できないことが判ったせいか、ドライバーはそれ以上話しかけてこなかった。
それでも機嫌がくずれることはないようで、気が付いたら呑気に鼻歌を歌っていた。
メランコリックなシャンソンをBGMに、俺はふたたび、車窓の景色に目を楽しませる。
澄み切った青い空は、爽やかな秋晴れ。
彼方に楕円形の飛行船が、ゆっくりとした動きで空を横切っていた。
隣の車線を通り過ぎる白いタクシーのボディに、見覚えあるマークを見つけ、ベンツがタクシーなんて、贅沢な国だ……などと、ぼんやり思う。まさかと思い、自分が乗っているタクシーのステアリングへ目を向けて、俺は同じものを発見した。
今乗っている車が、メルセデスベンツじゃないか……!
凱歌の雄叫びを上げかけた俺の心の声は、直後に悲鳴へすりかえられた。
……ダッシュボードの上か下……、タクシーならば当然あるはずの「アレ」が、どこにもない。
やられたか……?
思わず後部シートから身を乗り出し、俺は縋るような目でミラー越しにドライバーの顔を見つめていた。

Moi qui criais famine,Et toi qui posais,La boheme,laboheme....

ドライバーは相変わらずゴキゲンにシャンソンを歌い続けている。
深いバリトンは意外に上手く、聞いていて耳に心地いいなどと、この期に及んで、呑気な考えが頭を掠めた。
込み合った市内へ入り、車は動いたりとまったりを繰り返す。
やがて車は広いロータリーへ入り、前方に<Ibis porte de Montreuil>と書かれた看板が見えてくる。
一方通行の中心では歩道脇に幾つものテントが立ち並び、賑わった人々が蚤の市を楽しんでいた。
ドライバーが器用に車の流れから抜け出して、ホテルの正面玄関前へ車を停めると、すぐに紙へ金額を書いて差し出してくる。
500フラン。
絶対にボッタくられている。そう思った。
だが、なんと言えばいいのだろう。
フランス語どころか、英語で抗議をしようにも、満足に言葉が浮かんでこない。
だいたい、正しい金額すら俺は知らないではないか。
なぜ事前に調べてこなかったのだろう。
顔中に不満を全開にして、ウェストポーチから財布を取り出すと、……俺はしぶしぶ500フランを支払っていた。
「Merci」
オヤジはニコニコ顔で車を出ると、トランクからバックパックを取り出し、丁寧にロビーの中まで運び入れてくれた。
「Au revoir!」
そう言って口笛を吹きながら立ち去っていくドライバーの背中に、羽根を見たような気がした。
悪魔の羽根だ。
俺は深く溜め息をつくと、バックパックを肩にかけて、フロントの前まで移動する。
「Excusez−moi...」
フランス人は英語で話しかけられるのを嫌うと聞いていたので、とりあえず覚えている三つのフランス語から一つで声をかける。
もうひつはs`il vous plait。そしてもうひとつはmerciだ。
応対に出たフロントの黒人女性は、当然フランス語で返事をかえしてきた。
「…日本から予約した河口哲平と申します」
英語でそう続けてパスポートを見せると、女性も即座に英語に切り替え、手元のコンピューターを弄りだした。
「承っております。シングルでご予約の河口様ですね。あちらのエレベーターより、二階の205号室へどうぞ」
そう言ってカードキーを渡された。
エレベーターは三機並んでいた。二階へ降りるとそこはレストランバーになっており、入り口の大きなカウンターで、ウェイターが忙しく立ち回っていた。ドアの横に日本語で、有名な旅行代理店の名前に「様」をつけて書いた紙が、二枚貼り付けてある。
どうやら団体旅行客が、今夜ここで食事をするらしい。
テーブルの上にも、どうやらそれっぽい食器がセットされていた。
ということは、今夜ここは満席だろう。別を当たるしかなさそうだ。
レストランの前の角を曲がり、壁の案内図を見ながら部屋を探す。
結構大きなホテルであった。
再び壁に突き当り、さらに廊下を進む。
ようやく数字が近くなり、俺はもう一度カードキーを確かめた。
「205……あった、ここかよ」
角部屋だった。
部屋は大した広さはなかったが、こちらも長居をする気はなかったので、それで充分だった。
俺は荷物を開けると着替えや洗面用具といった必要なものを取り出して、とりあえずベッドに寛いだ。
足を伸ばすと、疲れが一気に身体へ押し寄せてくる気がする。
テレビを点けるとスポーツニュースをやっていた。英語のチャンネルを探してゴチャゴチャやっているうちに眠気が襲ってくる。
いつのまにか目を閉じていた。

目が覚めると、窓の外はとっぷりと暮れていた。
時計を見ると四時。……いや、こちらでは夜の八時だろう。
今のうちに時差の分だけ、針を回しておくことにする。
機内食を最後に水一杯口にしていなかった身体は自然と飲食行為を欲求しており、まずは夕食に出かけることにした。
エレベーターホール前のレストランに入りかけ、団体客が来ていたことを思い出す。
俺はそのまま、エレベーターのボタンを押した。
どこに行こうかと考え、事前に調べたインターネットで、パリ在住の日本人がやたらとパッサージュ・ブラディのカレー屋を勧めていたことを思い出す。
早速そこへ、行ってみることにした。
パリにはパッサージュと呼ばれる屋根付き横町がたくさんあり、パッサージュ・ブラディとはその中でも、南インド系の移民が多く住む、特殊なパッサージュだ。
サン・ドニ門の近くにあり、地下鉄では4号線か8号線、もしくは9号線にある、ストラスブール・サン・ドニ駅が最寄駅になる。
パリ10区とよばれるこのあたりは、お世辞にも上品な町並みと言えない。
切符を片手にSortie(出口)の表示に従って改札を探しているうちに、いつの間にか駅の外へ出ていた。
真正面に建つサン・ドニ門を見上げて、少し迷う。
……どちらへ行けばいいのだろう? 
とりあえずストラスブール通り沿いに歩いてみる。
周りを歩く顔ぶれは、さすがに移民街。
こんなところを日本人が一人で歩いているというのが珍しいのか、何度も冷やかしの声をかけられる。
まもなくガイドブックなどで見た、見覚えのあるアーケードの前へ出てきた。
Passage Brady。
中へ入ると呼び掛けられる声は、表の比ではなかった。
どうやら夕食時とあって、各レストランから客引きの店員が出ているらしい。
「美味しいタンドリーチキンだよ」
「ウチは50フランで食べられるよ」
そんなことを言っているようなのだが、どういうわけかここの人たちは、いちいち目の前へ立ち塞がって呼び込みをするので、つい釣られてテラス席へ座ってしまいそうになる。商売上手だ。
とりあえず避難をしようと、まったく呼び込みをしていない、一軒の店へ入った。
「Bonsoir」
中から聞こえてき店員の声は、若い男性のものであった。
雑貨屋らしいその店で、しばらく時間をつぶすことにする。
お香でも焚いているのだろうか。店全体に、甘い匂いが漂っていた。
意味もなくTシャツやポスターを手にして眺める。
首にコブラを巻き付けた髪の長い男性や、男女のカップルの絵、象と人間が合体したような太ったお化け……ガネーシャといっただろうか。
お化けじゃなくて、ヒンドゥーの神様だ。
ポスターやカード、ペン立てのような入れ物のそこかしこに、どぎつい色使いで、そんなイラストが描いてあった。
店の壁も天井も、ガネーシャのポスターで一杯だ。
「Japanese?」
突然英語で話しかけられ、顔を上げると、男が笑顔で立っていた。
てっきりインド人の店だとばかり思っていたが、店内にはどうやら、このブロンドの白人男性が一人いるだけであった。
頷くと彼は、今度は学生かと聞いてきた。話し好きのようだ。
「いいえ……」
そこまで言って、返答に困った。
就職浪人って、英語でなんと言うのだろう。
 
考えてみれば、呑気な旅だった。
去年俺が卒業した三流大学の就職率は、関東圏でも最悪なもので、日本の失業率アップに大いに貢献していた。
多くの友人たちは適当にバイトを見つけ、俺も彼らと共に割のいい仕事だと聞けば、何にでも飛びついていた。
この夏はバイトの掛け持ちで、毎日20時間近く働いていたような気がする。
どれも身体を使った仕事だった。
その中のある運送屋は、「このまま社員にならないか?」と声を掛けてくれた。
悪くない話だと思った。さっそく付き合っていた彼女に俺は連絡した。
ところが携帯に出たのは男の声だった。
倫子、電話……ちょっと、何で勝手に出るのよ……早く切れよ……。
俺はそのまま別れ話を切り出した。
三日前のことだ。

「アラジンと魔法のランプって知ってる?」
「はい?」
何時の間にか男が真横に来ていた。
よく見ると男は凄い格好をしていた。
ターバンを編みこんで作ったような、丈の長い胴衣に、膝や腿の擦り切れたジーンズ。黒い魔術師の異名を持つ悪役レスラーが履いているような、尖った爪先が派手に反り返ったブーツ。
ノースリーブの腕には、<so−ryann−se>とタトゥーが入っている。
……そーりゃんせ?
「それ。きみが今、手にしているランプ」
言われて初めて自分の手の中のものに気が付いた。
無意識に持っていたランプは、男の掌にスッポリと収まるぐらいの大きさで、少し燻んだ金色をしていた。
「三回擦りながら願い事を唱えてごらん」
男はニッコリ微笑んで俺の顔を覗き込みながらそう言った。腰を屈めて上体を近付けられると、店内に漂っている白檀に似た香りが、より一層強くなる。
……いや、焚きしめたお香の類いではなく、この男がつけているフレグランスの匂いだったのかも知れない。
「嘘でしょう?」
揶揄われているのだろうか?
すると男は俺の手からランプを取り上げて、
「君は僕の言うことを、何でも聞きたくなる」
「ちょ…ちょっとやめてくださいよ!」
俺はランプを奪い取り、棚に戻していた。
「信じやすい性格だね」
人の悪そうな顔が、目を細めて俺を見ていた。
「お腹が空いたので、これで失礼します」
男の言っていることなど、もちろん信用しなかったが、なんだか言い知れぬ不安を俺は覚えていた。
結局何も買わずに、店を出ることにする。
「また、いらっしゃい」
 
パッサージュ・ブラディを一通り歩いた俺は……といっても、全長50メートルぐらいの小さなアーケードだが、とりあえず再びストラスブール通り側の入り口に立ち戻り、表に金色の象の大きな置物を置いている『パラ・デ・ラヨポ』というインド料理屋へ入ることにした。
象はインド人にとって、何か深い意味があるらしい。
タンドリーチキンに前菜とカレー、デザート、そしてドリンクをつけて、一人前1500円ほど。お得な価格だ。
注文を終えるとまずウェイターがライターを持ってきて、テーブルの上のロウソクに火を灯してくれる。
赤い蝋の先端にぼんやりとした炎が煌めき、テーブル全体が突然に洒落た空気を醸しだした。
男一人で座っていることが、妙に気恥ずかしい。
食前酒として出されたピンク色の飲み物は、アルコール度数は微弱なものの、味に妙なクセがあり、あまり受け付けなかったが、タンドリーチキンはさすがに本場ということなのか、とても美味しかった。
カレーも想像したほど辛くはなく、日本人の味覚に合っていると感じた。南インド系だという、その味付けが、あるいは相性良かったのかもしれない。
ただしデザートとして付いてきたライスプディングは完全に失敗だ。せっかく選べるのだから、無難なフルーツケーキにしておけばよかったと後悔した。
給仕してくれた若い男性は人当たりが柔らかく、終始笑顔で気持ちが良かった。
俺が日本人だと知ると、「この間日本のテレビ局が取材に来ていた」と自慢を始めた。
有名な店なのかもしれない。
支払いの段階になり、財布を取り出そうとウェストポーチに手を入れて、焦った。
「アレ…」
さっきの店? …だが、あの店で俺はべつに何も買うつもりなどなく……。
そこまで考えて思い出した。地下鉄を出るときに切符を入れた財布を取り出し、出口の改札がなかったので、鞄へ仕舞わず、そのまま日本の癖で、ジーンズの後ろポケットへ押し込んで歩いていたのだ!
「すいません、すぐに戻ります」
そう言うと、さすがに店員は訝しげな顔をした。どうしようかかなり迷ったが、しかたがないので、パスポートを置いていくことにした。店の名前や場所も、店員が胸に着けている名札からこの男の名前も判っているのだから、そうそう悪用される心配はないだろう。
かなりの賭けだったが、このまま無銭飲食で言葉も通じない警察へ突き出されるよりはマシである。
とりあえず店員も俺を信用してくれたらしく、
「2時まで開いているから」
とだけ教えてくれた。よかった……いい人らしい。
俺はレストランを出ると、来た道を引き返した。
とにかく状況は最悪だった。駅からレストランへ辿り着くまでの間に、どこかへ落としたか、さもなければスリにやられたか。
……確率的には、圧倒的に後者の可能性のほうが高かったが、いずれにしても、結果は同じだろう。
中に現金まで入っているのにご丁寧に警察へ届けてくれるお人よしなど、今どき日本でも珍しい。ましてここはパリでも治安が、あまりよくないことで知られる、10区だった。
最悪、カード会社に連絡して止めてもらうしかないかもしれない。
保険金が入るだろうから、当面はそれでなんとかなるにしても、それでも財布に入っていた現金のほうは、諦めるしかなさそうだ。
先ほど入った雑貨屋の前まで来たので、一応あの男にも聞いてみることにした。
「Bonsoir」
ドアを開けると、先ほどの店員が顔を覚えていたらしく、俺を見るなりカウンターから出てきて、愛想よく手を振ってきた。
「……すいません、ここに黒い財布を落としていませんでしたか?」
そう聞くと、店員は残念そうな顔をしてみせた。
「ランプを買いに来たのかと思ったのに、違うのか……」
そう言ってカウンターへ引きかえすと、なぜか湯呑みに茶を注ぎ出した。
台湾の茶藝店などで出してくれるような、丸い急須と小さな湯呑みだった。
だが、サーバーを利用していないところを見ると、青茶などの類いではなさそうだ。 
とりあえず、ここじゃないとすると、長居は無用である。
やはりカード差し止めか……。
「すいませんでした」
こうしてはいられず、俺は本格的にスリか盗難を疑って、カード会社へ連絡を取った後、言葉も通じない現地の警察へ向かうことを考えなければならなかった。
しかもヘタをすれば、無銭飲食でそのまま拘留されるかも知れないのだ。
……あの店員の気が長いことを祈る。
「まあ、そう急ぐなよ。君はこれが欲しいんだろう?」
ドアから一歩足を出しかけていた俺はその言葉に立ち止まり、後ろに立っていた男を振り返った。
手には紛れもなく、俺の財布が握られている。
「あ、…やっぱりここに。……助かった。ありがとう……」
セーフ! 心底そう思った。男に握手を求めたいような気持ちで、俺は財布を受け取ろうと側まで行くと、男の手に収まったまま財布はスッと引っ込められ、ニヤリと悪企みの笑みを浮かべた顔が俺を見ていた。
「…何の真似……」
一瞬で、この男が得体のしれない輩に思え、そして急転直下の恐怖に叩き落とされた気がした。
まさか、こいつに強請られるのか?
「どうして君はそう急ぐんだろうなあ。ほらとりあえずそこに座って、お茶でも飲みながら、ゆっくり話そうじゃないか」
そう言って男は再びカウンターの奥へ収まると、目の前に薄茶色の飲み物を注いだ湯のみがさし出された。
「でも、あの……、レストランの支払いが……」
「大丈夫だ。あの店なら二時まで開いている」
なぜ俺が行った店を知っているんだ? 
俺はますますこの男を不気味に思いながら、仕方なく湯呑みを手にした。
薄茶色の飲み物は変な匂いがして、正直言ってそれほど美味しいものではなかったが、男の説明によると、神経を和らげ、血液を綺麗にしてくれるらしい。
漢方の類いの薬草か何かが入っているのかも知れない。
「ごちそうさまでした。財布を返してください」
「オイ、そんな飲み方はないだろう。それじゃあ、ただ食道に流し込んだだけだ。ホラもう一杯。……なにを突っ立っている。そこに椅子があるから持ってきて、ゆっくりしていったらいいだろう」
「急いでいるんです」
「日本人はどうしてそう、セカセカしているんだ? ここに来る観光客もみんなそうだ。荒らすように商品を手にとって、目だけで店を一巡すると、すぐに出て行ってしまう。気に入らなかったのかなと、後を追うように表へ出てみると、もうアーケードの中にすらいない。まるでつむじ風だ」
「いろいろあるんです」
人のことなど知らない。とりあえず俺に関して言うなら、一刻も早くレストランに戻って、支払いを済ませたいだけだ。通報される前に。
「例えばシヴァ神の話をしよう」
「宗教に興味はありません」
「だったら天体はどうだ? 今年は例年より早く、オリオン座が見られるらしい」
「星なんか東京じゃ見られませんから」
それにオリオン座は天体じゃなくて、星座と言うべきだろう。普通天体と言ったら、一等星とか、二等星とか……俺もよく知らないけど。
「君は何歳だ?」
「二十二です」
「若いんだな」
「老けて見えますか?」
ちょっとショックだった。
「僕より若い」
「そりゃそうでしょう」
どう見てもこの男は、三十より上だ。三十過ぎのいい大人だと思うと、より一層ヤバさがパワーアアップされる気がした。
レストランに俺が通報されたら、俺はこの男を通報しよう。パリ市の安全のために。
「こんな話を知っているか?」
「知りたくないです」
「聞かないのに、どうして判る」
「あなたの話は、とりとめがなさ過ぎます」
「お茶をもう一杯どうだ?」
「もう結構です、いいから早く財布を返してください!」
我慢の限界だった。
俺はテーブルに湯呑みをたたきつけるようにして立ち上がると、男の方へ身を乗り出し、自分の財布を取り返そうとして……よろめいた。
アレ……?
正面から目を細めたガネーシャが、俺を見つめて笑っている……、いや、あれは壁ではなく天井だ。
天井に貼られたポスターがなぜ俺の目の前に……? 
そうではなく、俺が床に向けて倒れかけているのだろう。
ドシンという衝撃が、背中に走る。次第に視界が暗くなり、俺の意識が閉ざされた
何を……飲まされた?



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