『La boheme, la boheme <<trois>>』

艶のある黒いボンネットの表面を、オレンジ色のパリの灯が目まぐるしく流れてゆく。
「お前もご近所の犯罪者の顔ぐらいおぼえておけ」
たいした感情もこもらない調子でそう言われ、俺、ピエール・ラスネールは運転席を見た。
車窓越しの街灯に浮かび上がる、浮世離れした美貌の横顔。
シルクか何かに見える柔らかな素材の襟を大きく開けた黒いシャツに、細身の黒い革のパンツ、黒い革のブーツ・・・したがって、彼の病的に白い肌とルーズに後ろで纏めている波打つ薄金色の眩い長髪という組み合わせである頭部だけが、宵の薄闇をぽっかりと切りとっているように見える。
彼、アドルフ・フルニレがステアリングを右へ切ると、黒いケイマンSは広々としたシャンゼリゼ通りへ入って行った。
バックミラーの中でズームアウトされてゆく、キラキラとライトアップされたコンコルド広場。
鏡のまん中で垂直に立っているオベリスクとそれを取り囲む観覧車の円と放射状の光が、徐々に縮小化されて夜景に溶け込む。
それは10区のパッサージュブラディにある、行きつけのインド料理店で夕飯を食べたあとのこと。
気まぐれに立ち寄った雑貨屋で、俺は店員から魔法のランプを売りつけられそうになっていた。
魔法のランプ・・・俺が言ったわけじゃない。
頭に白いターバンを巻き、ノースリーブの腕に”so−ryann−se”という、解析困難な文字列を彫った、推定30代半ばから後半の、どう見てもインド人ではなくゲルマン系の男性であろうその店員が、断言して譲らなかったのだ。
要らないと言ったら、今度はなぜか突然にお茶を飲んで行けと誘われ、いそいそと男が茶器の準備をし始めた。
いい加減、気持が悪いから無視して店を出ようとすると、男が店先の看板の下まで追いかけてきて、恐怖を感じ始めたところで、通りすがりのこの悪友、アドルフによって俺は保護されたというわけだ。
「あいつは有名なのか?」
黒い革張りのシートに身体を深く預け、ちらちらと花を咲かせているマロニエの並木をぼんやりと眺めながら、俺は運転中のアドルフに尋ねる。
「パスポート偽造で2カ月ほど前に出てきたばかりだ。頭が悪そうな若い外国人観光客をターゲットに、拉致して睡眠薬で眠らせては旅券を盗んだり、監禁してヒンドゥーのお守りだの、東洋の呪い人形だのといった不思議グッズを高額で売りつけたりするのが奴の手口らしい。中年フランス人被害者第一号にならずに済んでよかったな。・・・ちなみに、しょっちゅう逮捕されては、懲りずにまたあの界隈で店を開いている、そこそこに有名なイカレ野郎だ」
飲まずに出てきた中国茶に睡眠薬が仕込まれていた筈・・・アドルフはそう言いたいのだろう。
それにしても妙なものばかり売りつけている店のようだが。
「あの魔法のランプってのは本当なのか・・・・いや、やっぱりどうでもいい。ところでお前はインド人街になんの用だったんだ」
一瞬、色素の薄いブルーの瞳を冷淡に向けられて、俺は自分でもどうでもいい愚問をすぐに引っ込めた。
「集金だ。ちなみにあの野郎は被害者との間に何件も訴訟を抱えているみたいだが、逮捕前から本人の主張は一貫して”全部本物”ってことらしいぞ。気になるなら車を戻すが、どうする?」
アドルフが丁寧に俺の質問へ回答してくれた。
「結構だ・・・お前あんなところにまで客がいるのか?」
詐欺師もお断りだが、狂人の相手をする気は更にない。
俺は話題を自分で転換した。
「一番遠方で日本だ。電気屋のオーナーだが、なかなか羽振りのいい男だぞ。やたら縛ったり、薬を使ったりしたがるから、気味悪がって引き受けてくれるスタッフが見つかりにくい点が悩みどころなんだがな。・・・パッサージュブラディにはお得意さんが二人いる」
「お前は相変わらず景気がいいな」
「お蔭さんで」

エトワール広場の少し手前でシャンゼリゼ通りから抜け出し、間もなく車は一軒の白いタイル造りの建物の前で停止した。
そこですぐ異変に気がついた。
「ミノリが来てるのか?」
シャッターが開いたままの店構えを見て、俺はアドルフに問いかける。
「いや」
短い返事だけを残して、アドルフはさっさと店へ入って行った。
頭上のロゴ入り看板にも照明のスイッチが入れられている。
『Fourniret's』(フルニレズ)という店名だけでは何の店だかわからないここは、アドルフが経営する絵画ギャラリーだ。
ただし一見さんはお断り。
常連客の紹介がなければ、絵を見ることすらできない。
店内は応接セットとカウンターだけ。
応接セットの隣の壁には、躍動感あふれるタッチの人物デッサン。
隅に作者のサインが書いてある。
河上(かわかみ)ミノリ。
絵画留学生にしてこの店のアーティストだ。
年は22歳。
最近嫁いだ娘のアリーヌと同い年だが、見た目はせいぜい10代半ばから後半・・・日本人は若く見えるという問題以前の、素朴で気性と髪が短い小柄な少女だ。
しかし根性があって良い仕事をする。
カウンターの奥は事務所になっており、その隣は応接室。
絵画購入の手続きなどは、この応接室で行われている。
事務所の方で待っているように命じられ、俺は勝手にキャスター付きの椅子を引いて腰を下ろした。
机に広げたままの売上伝票を数枚捲ってみる。
途切れることなく連続している起票日。
なかなか繁盛しているようだった。
アドルフは事務所の奥にある、目立たない扉へ消えていった。
扉の向こうには地下の居住スペースへ通じる細く暗い階段があるが、手前にもうひとつ観音開きの重厚な扉があってそこが展示室になっている。
ギャラリーの面積は120平米と聞いている。
地上から上階に向けて3フロア続いており、分厚い額縁に入れられたゴッホやルノワール、セザンヌなどが、かつてあたりまえのように展示されていた。
ただし、いずれも贋作だ。
『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』、『夜のカフェテラス』、『サント・ヴィクトワール山』、『詩人とミューズの結婚』・・・素晴らしい名画の数々。
一部の作品はミノリが手掛け、ほとんどはマルセル・ランドリューという美大生の手による。
マルセルはこの商売をアドルフに持ちかけた張本人で、一時期彼の恋人だった男である。
だが、ある日突然、アドルフに買いとらせた筈の何十枚もの絵画、そして金庫の中身とともに行方を眩ませた。
アドルフはマルセルに騙されたのだ。
恋人に裏切られ、それでもこの商売を続ける理由を、アドルフはビジネスの一言で片づけた。
外国人客をターゲットに相場の約3倍の運賃をとって個人タクシー業を営む俺の目の前に、白タクの運転手から強盗被害に遭ったミノリが現れたのはそんな頃。
画家志望の彼女はほとんどの所持金を奪われ、宿も食べるものもまともに確保できない状態へ追い込まれて、それでもこの地にしがみつき、コツコツと絵を描き続けていた。
アドルフはミノリを後釜にすることで、商売を継続させている。
マルセルに持ち逃げをされて、資金も売り物の大半をも失い規模縮小を余儀なくされても尚、『Fourniret's』は毎日営業中である。
だが、そこまで意地を通す理由が俺には未だに理解できない。
なぜならアドルフにとってギャラリーは、あくまでサイドビジネスだからだ。
本業は人材派遣業。
100人を超える登録スタッフはいずれも、10代後半から20代前半の男の子達。
ゲイであり、本人いわく美の追求者たるアドルフの目に適った可愛いらしい彼らの派遣先は、政治家や官僚、医者、弁護士、芸能人、実業家・・・つまり世の中の成功者であり、失う地位や名誉がある男達の元ばかりだ。
おおっぴらにゲイバーやハッテン場へナンパに行けない彼らに、素敵な出会いとひとときのロマンスを提供するのが、彼の職務なのである・・・そんな美しいものではないが。
先ほどアドルフが集金をしていたパッサージュブラディの住人というのも、もちろんそちらのお得意様だろう。
ちなみに彼から絵画を買っているのも、どうせ同じ連中だ。
アドルフに「買いませんか」と持ちかけられて、断れる客はそうそういない。
別に名画じゃなくても、落書きや新聞の切れ端であろうとも、彼らは何だって買うだろう。
もっとも贋作とはいえ、ここで扱っている絵は、どれも高い精度で再現された、本物と遜色のない素晴らしい作品ばかりなのだが。
売る方も描く方も、妙な職人気質を持っている。
それが『Fourniret's』だ。
それでもなお、俺には彼がこの仕事に拘る意味がわからない。
ここを動きたくない本当の理由が、何か他にあるのではないだろうか。



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