「待たせたな」
ようやく奥の扉が開き、アドルフが戻ってくる。
一足先に白い塊が飛び出してきて、俺の足元で丸く蹲った。
「よお、モンブラン」
手を伸ばして頭を撫でてやると、真っ白なペルシャ猫は一旦立ち上がり、少し離れたところで反対側を向いて座りなおした。
煩がられたようだ。
目の前にコーヒーカップが一つ置かれる。
「飲む、飲まないはお前に任せる」
そう言うともうひとつのカップを持って、アドルフが隣のデスクから椅子を引き、俺と向かい合って腰を下ろした。
カップを持ってモンブランの鼻先へ近づけようとしていた俺は、慌てて手を止めると、机へ戻す。
俺は学生時代に、ゲイであるアドルフから襲われた経験がある。
コーヒーに仕込まれていた薬で意識を失っていたらしい俺は、気がついたら素っ裸でアドルフの下になっていた。
彼が薬の量を間違えたのか、俺の身体が効きにくい体質だったのかは知らない。
だが、何かのショックで意識が戻り、そして自分の身体に覆いかぶさっていた裸のアドルフを殴り飛ばして、俺は最後の一線を死守した。
お陰で俺は、あれ以来コーヒーが怖くなった。
そんなアドルフは俺がこの店を訪れるたびに、毎回こうして新鮮な豆を炒っては、薫り高いキリマンジャロを振る舞ってくれている。
だから以前、コーヒー党のモンブランに少し分けてやったことがあるのだが、アドルフはどうやらその事で嫌味を言っているつもりらしい。
「お前、まだモンブランに毒見させたことを根に持っているのかよ。それより話ってのは一体なんだ? 大体ミノリじゃないなら、誰がこの店の留守番を・・・」
そこまで言いかけていた俺は言葉を止めた。
答えがひとつ判明したからだ。
アドルフがコーヒーを持って出てきた扉の奥から、ほっそりとした一人の青年が現れる。
「どうも」
俺を見つけて短く挨拶をした彼は、手に持っていた10号サイズのパネルを壁に立てかけ、まっすぐこちらへ歩いてきた。
アドルフを見る。
白皙の横顔は無表情のまま、足元にすり寄って来たモンブランへ手を伸ばしている。
何を考えている?
青年はアドルフの足元からモンブランを抱えあげると、彼の隣へ寄り添うように、机の端に腰をかけて、猫の背中を撫で始めた。
アドルフとはまた違った雰囲気の色白の小さな顔が、頬のあたりだけほんのりとピンク色で、血色の良いぷっくりとした唇などまるで少女のように愛らしい。
癖のある栗色の髪は、整髪料で毛先を跳ねさせて、チェックのシャツの上から大きめのプリントTシャツを重ね、膝が破れたジーンズと、色違いのカラフルなスニーカーを履いている姿は、パリのどこにでもいるような若者だ。
だが、抜け目のない鳶色の瞳をまっすぐにこちらへ向けて、含みのある微笑みを見せるその表情が、不気味であり美しくもある。
「マルセル」
俺が名前を呼ぶと、マルセルは形の良い両眉を軽く上げて反応して見せた。
「こんばんは、ピエール。なんか大変だったみたいだね」
言葉だけでマルセルは同情してみせた。
コーヒーを用意しているアドルフから、雑貨屋での出来事を聞いたのか、それともそれ以外の何かを言っているのか・・・いずれにしろ、上っ面な言葉にそれほど意味はないだろう。
「お前こそよく戻って来れたな。アドルフに金は返したのか?」
「やだなぁ〜、心配してくれている久しぶりに会った友人に、いきなりその金の話かい? 普通は労をねぎらったり、気遣ったりするもんだろう? やあ、元気だったかい? とか、しばらくだねぇとか」
「逃亡先で何があったか知らんが、コソ泥に人様からねぎらってもらえる大層な存在価値があると思うのか? そもそも俺とお前は友達でも何でもないんだが」
「それがあるんだよ! 感謝してくれてもいいくらいさ。・・・ねぇアドルフ、僕から話してもいい?」
猫を撫でつつ、猫撫で声の音声サンプルのような声を出して、マルセルが小首を傾げる。
「いや、俺から話す。悪いがお前はモンブランを連れて少し席を外してくれ」
アドルフに追い払われて唇を尖らせると、マルセルは猫を抱えて大人しく扉の奥へ消えた。
その姿がなんだか幼く見えていちいち可愛いらしい・・・これがとんでもないペテン野郎なのだから、パリって街は本当に恐ろしい。
俺はアドルフに目を戻す。
「どういうことか説明してくれないか」
アドルフも俺を見た。
気だるそうな白い美貌の面からは、やはり何の表情も読みとれない。
「ピエール、お前にひとつ頼みがあるんだ」
「それは内容次第だ。だが、その前にちゃんと一から説明しろ。なぜマルセルが戻っている。金は返してもらったのか? お前にあれだけのことをした奴だぞ!」
「金は確かに盗まれたが、俺は生活に困っちゃいない。それに元々はマルセルが持ちかけてきた仕事で、アイツの絵を売って得た金だ。彼が自分のものだと主張をする権利を否定はできない」
マルセルの後釜として同じ仕事を引き継いでいるミノリに対して、契約当時に話した内容と、180度は違うその主張に呆れなくもないが、俺が言いたいのはそこじゃない。
「おい誤魔化すな。マルセルはお前を利用して出て行ったんだぞ? 金の問題だけを言ってるんじゃない。お前の気持ちを踏みにじって、手酷く捨てたんだ。なぜその男を許せる?」
「ピエール・・・お前こそ、身を乗り出して、何をそんなに興奮しているんだ?」
アドルフにやや茫然と指摘され、俺は自分が椅子から前のめりになって捲し立てていたことに気がついた。
「・・・いや、なんでもない。忘れてくれ」
俺は身を引くとジャケットから煙草を取り出し、火をつけた。
ジタンの苦い煙を肺に入れて、昂った神経を落ち着かせる。
「なんだ、もういいのか」
アドルフが一旦立ち上がり、離れた机の抽斗から黒ずんだ銀色の四角い灰皿をとり出して持ってきてくれた。
彼の声が少し不満そうに聞こえたが、その理由がわからない。
礼を告げ、俺は喫煙の習慣がないアドルフが目の前に置いてくれたその灰皿を眺める。
いぶし銀のアンティークっぽいそれは縁が繊細なレース仕立てになっていて、2か所に深い色合いの大きなラピスラズリが入っている。
てっきり有名な工芸品かと思って聞いてみたら、モントルイユの蚤の市で手に入れたとアドルフは興奮気味に応えた。
作者は不明で購入価格は35フランらしい。
自分は煙草を吸わないくせに、なぜか本人はえらくこの灰皿がお気に入りのようで、とくに二つの大きなラピスラズリがいいのだと、買った当時、うっとりと石に見惚れながら評価をしてみせた。
確かに綺麗な色だ。
いぶし銀の灰皿の縁へ少し当てながら人差し指で煙草をトントンとノックして、1センチほどの灰を払い落とすと、俺は改めて目の前のアドルフを見る。
彼もまっすぐに俺を見つめていた。
「・・・で、話ってのは一体何だ?」
マルセルのことは頭に来るが、当事者であるアドルフがもういいと言うのなら、俺が怒るような話ではない。
惚れた弱み・・・そういう事なのだろう。
なんだか情けなく、憐みを誘うその響きの持つ意味は、けして友人として傍で見ていて心地のよいものではない。
しかし愛とは本来、そういうものではなかっただろうか。
随分とご無沙汰している感情だ。
それでも俺は、やはり苛々として落ち着かなかった。

 

マルセルは1ヶ月ほどロンドンへ行っており約1週間前にここへ戻って来たということと、金は返していないという案の定な事実を明かしたうえで、アドルフは意外な話をしてくれた。
「マシュクールって知っているか?」
アドルフが聞いた。
「市議会議員のマシュクールか? ・・・元准将で、先月当選したばかりの」
ジル・ド・マシュクールは40代後半の元フランス軍准将で、昨年他界した父親の地盤を引き継ぐ形で当選した男だ。
軍にいた頃は大虐殺があったキガンダへも行っており、ジャン・ダクールという少将の師団に従属していた。
退役後すぐに政界へ飛び込んだダクールは、キガンダでの経験や私的なボランティア活動から、平和活動家、弱者救済的な立場のリベラリストとして人々の注目を集め、また金髪碧眼のその美貌からマスコミ受けも良く、圧倒的な大差で同じ選挙区の現職のベテラン議員を破って国政デビューした。
ところが間もなく、ダクールの駐留地でもフチ族の大量殺戮があったことが問題になり、目の前で起きていた虐殺行為を止めず、沢山の人を見殺しにしたとゴシップ紙に書きたてられ、ある夜彼は暴漢に襲われて死んだ。
犯人は10人以上のグループで、うち半分はキガンダ系の難民、残りの3分の1は過激な政治団体の運動家たちで、あとの連中は面白がって参加した者たちであり、あくまで噂でしかないがダクールはその場で性的暴行も受けていたという話だった。
マシュクールが市議会議員選挙に立候補したのは、それから3か月後。
彼の地元はキガンダ難民が多くいる地域であり、彼はその選挙演説で、ダクールの名誉潔白を繰り返し訴えていた。
現地でフランス軍がクツ族の虐殺行為を止めることは、内政干渉にあたるという軍の判断があったこと。
それでもダクールは何度も上層部へ掛け合っており、人命救助や民間人の保護など出来る限りの救出活動に尽力していたことなど。
最初は非難の野次ばかりだったが、父親譲りの巧みな弁舌で次第にマシュクールの呼びかけは住民たちの心へ響き、見事に当選した。
アドルフは続けた。
「ソーホーでマルセルが彼を見かけたらしい。ゲイが集まるクラブだ」
アドルフの金を盗んでロンドンへ高飛びし、行きずりのアバンチュールでも求めていたということだろうか。
まったく呆れた餓鬼だ。
「つまり、マシュクールはゲイって話か?」
別に珍しくもないだろう。
そういえば聞いたことがある。
まるでダクールの弔い合戦でもするかのようなタイミングで、選挙に出馬したマシュクール。
国政に市政という舞台の違いはあれど、選挙演説でダクールの名前を連呼していたマシュクールは、実はキガンダでダクールと同性愛の関係にあった・・・いくつかのゴシップ紙がふざけた調子で書いていた記事だ。
それもまた政敵の仕掛けた嫌がらせの可能性はあるが、仮に本当だったとしても、別に驚くような話ではない。
アドルフの上客にだって政治家はいくらでもいる。
それを弱みにマシュクールへ近づいて商売をしたいなら勝手にやればいいし、強請ればいくらでも金を引き出せるだろう。
「そうだ。奴さんもどうやらゲイみたいだな。ついでに最近バスティーユ界隈で起きているアフリカ系少年達の誘拐事件の犯人が、実はマシュクールだっていう噂もある。彼はペドフィリアでいたいけな少年達を地下室に監禁してエロいことをいっぱいしているらしいぞ」
「ああ、そのタブロイド紙の記事なら俺も先週読んだ。現代の青髭ジルという異名で恐れられ、錬金術にハマっており、近々ティフォージュの城にフランスじゅうの子供たちを集めて殺しまくり、次々と切り刻んで死姦する予定らしいな・・・で、そのマシュクールがゲイだから、一体なんだっていうんだ?」
この国のタブロイド新聞の記事が無責任で悪趣味であることは、100年前から変わらない事実だ。
俺は自分で話していても吐き気がするような、馬鹿げたその話題に一旦終止符を打って、アドルフに話の続きを促した。
「今週末にレオンブリュムの彼の邸で大きなホームパーティーを開くらしい」
「パーティー?」
「その会場にはざっと20名ほど俺達のようなゲイが集まる」
「ダウト。お前は間違いなくそうだが、俺はゲイじゃない。どさくさに紛れて適当に纏めないでくれるか」
こっちはバツイチとは言え、成人した娘までいるというのに。
「つまらないことに拘るな。まあ、話を聞けって。お前には当日うちのスタッフ達を会場へ運んでやってほしいんだ。もちろん金は払う」
「大事な問題だし、俺はゲイじゃないからそこははっきり言っておくぞ。・・・つまりバスでも借りてお前んとこのホストたちを連れて行ったらいいのか? 言っておくが俺はぼったくりタクシーの運転手だぞ。そういう男に運転を頼むと、安くはないぞ? だいたいなぜお前が連れて行かない。ホストたちの中にも大型車両を運転できるヤツぐらいいるだろうに」
「お前には素質がある筈なんだが・・・わかった、わかった、ゲイじゃない。うちのスタッフにそういう仕事はさせられない、契約違反になるからな。それに当日俺は、ちょっと用事があってな。会場へは行けないんだ」
「だったら・・・マルセルはどうなんだ? あいつも契約云々でダメなのか」
「まあ、そんなところだ。当日は20人ほど運んでもらうことになる。こんな仕事を頼めるのはお前ぐらいだからな・・・言い値でいいぞ。いくら払えばいい」
妙にひかかった。
「正直に言ってくれないかアドルフ。なぜ俺をそこへ行かせたいんだ?」
するとアドルフは苦笑した。
「やっぱりお前は騙せないな・・・。ジョリス・ド・カッセルは知ってるな」
断定口調でアドルフが言う。
「ああ」
先月アリーヌが結婚した相手だ。
法律的には赤の他人になるが、事実上、俺にとって義理の息子にあたる男で、俺は一度も面識がない。
「次の上院議員選挙に出馬するという噂がある。このパーティーにもよばれているらしいぞ」
俺はその瞬間、目の前の男を殴り倒して、迂闊にもキスしたいと思った。
どうしてそういう肝心なことを、はっきりと言わない。
「まったく、お前は・・・」
アリーヌに会えるかも知れない。
だが、この話を持ってきたのはあくまでマルセルだ。
アドルフを裏切り、その反省もしていないような男だ。
素直に信用してもいいのだろうか。



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