翌日の夕方、パーティー当日の詳細確認の為に、仕事帰りにアドルフの店へ寄ったときのこと。
「ねえオーナー、車貸して」
レンタカー屋にマイクロバスの手配をし終えて電話を置いた途端、事務所へ顔を出したミノリと再会した。
「よお坊主」
「だれが坊主だよ! ・・・あれ、おじさん久しぶりじゃん。元気してた?」
身長150センチちょっと。
やせ細った身体に薄っぺらいTシャツと擦り切れたジーパン、穴が開いたスニーカーを履いている、小汚いこの東洋人がミノリ。
この店のアーティストだ。
初めて会ったときは路上生活者にしか見えなかったが、最近少し髪を整えたらしく、化粧っけは相変わらずないものの、かといって汚れてもいないし、あまり匂いもしない。
まあ、初対面に比べたらずいぶんとまともな人間に見えるようになった。
しかしアドルフから金を貰っているのだから、もっと年相応にちゃんとした格好ができる筈だろうに、そういうことにはまるで無頓着な一応成人女性だ。
「お前、免許取ったんだって?」
ミノリの頭を嗅いでみる。
「やめてよ! ちゃんとシャンプーしたってば。・・・費用出してくれるっていうからとってきた。その代わりに時々ホスト君達を運べって言われたけど。ねえ、オーナーどこ?」
アドルフの野郎はこんな小娘を、どんどん自分の怪しい仕事の世界へ引きずりこんでいるようだった。
そのきっかけを作ってしまった俺としては、見知らぬ親御さん達に申し訳がないと心を痛めるしかない。
というより、シャンプーしたというわりに、フケが浮いているのはどういうことなのだ?
シャンプーをいつしたんだ?
「アドルフならさっきマルセルと出て行ったぞ。何かを買いに行くと言っていたから、すぐ戻ってくるんじゃないか」
ミノリの髪を指先で掻きまわす。
フケがパラパラと落ちてきた。
「だからやめてって言ってるでしょ! も〜っ、髪が乱れるじゃん!」
「フケが浮いてるのは構わないのか?」
どういう感覚の22歳だ。
ミノリは嫌がって俺から少し離れた。
「このところ忙しかったから、ちゃんと髪が洗えなかったの! まいったな〜、搬入どうしよう。マルセルと出て行ったんじゃ、どうせ食事してから帰ってくるだろうし、暗くなっちゃうよ〜」
「そうなのか? だったら俺が運んでやろう。デカイのか? お前さっき自分でちゃんとシャンプーしたって言ってたが、やっぱり嘘だったんだな」
「嘘じゃないよ! ・・・シャンプーは嘘だけど。でも、ちゃんと1週間前にレネットで洗ったもん!」
「どこからツッコんだらいいんだ、それは・・・で、大きさはどうなんだ?」
ちなみにレネットはアマガエルのイラストで有名な、ドイツ生まれの環境に優しい食器用洗剤の名前だ。
エコ精神だけは認めてやるべきなのだろうか。
「絵は大きくても50号サイズだよ。おじさん、運んでくれるの?」
「よし、わかった引き受けてやろう」
ジーパンの後ろポケットから俺はS560のキーを取り出すと、やせ細ったミノリの手首を引いた。
だが、すぐにその手を引っ張り返された。
「あ、ちょっと待って・・・あたしお金持ってないよ」
顔が蒼ざめている。
ミノリは最近になって、俺の仕事に気がついた。
自分を騙して若い外国人留学生のミノリを路上生活者同然に追い込んだ男と同業者の、ぼったくりタクシードライバー。
それを知ったとき、ミノリはしばらくまともに口を聞いてくれなかった。
以前のように話せるようになったのは、この1週間ほど。
それでも、時々こうして怯えた顔を見せる。
それが俺には辛い。
彼女にナイフさえ突きつけたというタクシー運転手によって、ミノリはどれほどの恐怖を味わったことだろうか。
「安心しろ。料金ならアドルフから徴収してやる」
もう一度ミノリの髪を掻きまわしてやると、またイヤイヤをされた。
それでも本気で嫌がってはいないその仕草に、俺は少しホッとする。
エトワール広場からワグラム通りへ抜けてバックミラーへ夕焼けを映しながらまっすぐに北東を目指す。
ミノリのアパルトマンは18区のモンマルトルにあった。
観光の名所だが移民が多く、けして治安の良い場所ではないから俺は最初、反対したが、同じアパルトマンに日本人女性がいて、彼女の恋人の日本人がしょっちゅう建物へ出入りをしていると聞いて入居を許可した。
お前はいつからミノリの父親になったのだと、アドルフが呆れたものだ。
車を路上に駐車して煉瓦造りの建物を見上げる。
「ここの3階」
エントランスを入ると中庭に2階の窓辺まで背が伸びているリラの木があり、満開に咲いた薄紫の花が辺り一帯に甘い香りを漂わせていた。
1階は玄関と郵便受けのみだ。
エレベーターはなく、階段にはアールヌーボー様式の花模様になっている、美しい鉄製の黒い手摺が付いており、各階に一部屋ずつしか部屋がない。
2階は例の日本人女性が住んでいて、16区のメッシーヌベルシー大学に通っているらしい。
3階がミノリの部屋で、4階には役者志望で同じくメッシーヌベルシーの聴講生であるアラブ系の若者が住んでおり、5階にはオタクっぽい無口な白人が住んでいて、滅多に外へ姿を現さないのだという。
「こんにちは」
階段の上から突然日本語が聞こえて、ミノリが同じ挨拶を返した。
ニッコリと微笑みを見せて、俺にもフランス語で挨拶をしてから彼が通り過ぎてゆく。
「律子さんの彼氏だよ」
律子とは、2階の住人である日本人女性のことだろう。
「えらい綺麗な男だな」
アドルフが見たら一発でホスト合格間違いなしだろう。
下手すりゃしばらく通いつめるかもしれない。
「入居の手続きを手伝ってもらったとき、オーナーが騏一郎さんに会ってさ、しばらく用もないのにウロウロされて気持悪かったよ」
遅かったらしい。
どうやら騏一郎というのがあの青年の名前のようだ。
森律子という女性の恋人で真面目な男だと知って、やっと諦めてくれたとミノリが続けた。
不健康そうな青白い中年に建物内をフラフラ歩きまわられて、さぞかし不気味だったことだろう。
2階と3階の踊り場の壁に、半円型の小窓があって、リラの花をモチーフにしたシンメトリーなステンドグラスが嵌め込んである。
そこから傾きかけた西日がキラキラと鮮やかに輝きながら、階段に差し込んでいた。
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