ミノリの部屋へ到着する。
「おじゃまします」
簡単に壊せそうな安っぽい取っ手の扉を押しあける。
天井も低くせせこましい部屋の内部は、まさにアトリエと呼ぶに相応しかった。
幾つもの立てられたイーゼルに、描きかけの油絵。
ルーブルやオルセーで見たことがある名画の模写以外にも、ムーランルージュの赤い風車、テルトル広場の前の階段、アベス駅のサインなど、モンマルトルのあらゆる景色が、主に水彩画で描かれていた。
とくに目に付くのが、夕日に照らされた、少しだけピンク色を帯びている、白亜のサクレクール寺院で、同じモチーフの絵が何枚もこの部屋にある。
理由はすぐに判明した。
ミノリの部屋から見える、景色そのものだったからだ。
カーテンも付けていない大きな窓辺から、黒い手摺りに手をかけて、気持ちの良い夕方の風を肌に感じる。
早くも夏を感じさせるような少し湿った空気を肺いっぱいに吸い込んで、なぜだかふと、甘くほろ苦いノスタルジーに捕らわれそうになった。
どこからともなく風にのって運ばれてくる甘い香りに気が付く。
手摺から覗きこむと、中庭のリラの木がすぐ真下に見えた。
穏やかな花の香りを嗅いで、いつの間にか心に芽生えかけていたせつなさが、霧が晴れるようにすっと消えてゆくのを感じる。
「運んでほしいのは、これとこれなんだけど」
不意に話しかけられ振り向くと、木目がはっきりとした楡材の大きなキャビネットから、50号サイズのすでに額装された油絵を、ミノリがずるずると引っ張り出していた。
「おう、ルドンにシュヴァーベ、それとモローね・・・見事にアドルフが好きそうな象徴派ばかりだな。こっちもか?」
彼女の肩より高い位置からパネルをおろすのを手伝ってやりながら、棚の足元に立てかけられていた同じような雰囲気の、剥き出しのカンバスに手を伸ばしてかけて気が付く。
いかにもギュスターヴ・モローの耽美な世界を再現したようなその油絵の、モデルの顔がつい最近にどこかで見た覚えがあることを。
「ああ、そっちは違うんだ。まだ描きかけなんだよ」
おろしたパネルを手慣れた手つきでクラフト紙へ包みながらミノリが言う。
よく見れば、つい先ほど階段ですれ違った、騏一郎という男だった。
ただし、ほぼヌードで僅かな面積の腰布だけを纏っている。
「お前・・・随分とまた大胆だな」
「バカッ! 違うんだよ、これは頼まれて描いてるの!」
ミノリが顔を真っ赤にして足音を立てながらこっちに来た。
拳を振りまわしつつ必死に否定をする姿が可笑しくて、ついもっとからかってみたくなる。
「いや、別にいいんだぞ。お前だってそうは見えなくたって、年頃の娘だ。綺麗な男に興味があっても不思議じゃない。天賦の才能をカンバスにぶつけ、男の裸を想像しながら夢見がちな絵が描けるっていうのは素晴らしいことじゃないか。いや、良い絵だ」
「だから違うって言ってんでしょうが! これは上のルシュディーに頼まれて描いてるの! 構図はモローの『妖精とグリフォン』のアレンジだよ、すぐ近所に本物があるっていうのにどうしてわかんないのかな、このフランス人は!」
ミノリが炊事場を指さして言った。
食器棚にはマグカップが一つと食べ掛けのバケットが半分、瓶詰めのピーマンが一つ、そして流し台には、半分ほど緑の液体が残っている透明プラスティックボトルの食器用洗剤兼ミノリのシャンプーが1本。
いや、違う。
ミノリはギュスターヴ・モロー美術館がある、南の方角を指したのだ。
言われてみると確かにこの絵は『妖精とグリフォン』によく似ている。
ただし、印象的な瑠璃色の背景は薄紫になっており、全体に明るく、そのせいかどこか優しい印象だ。
微笑を湛えた青年の表情のせいもあるだろうか。
青年が冠っている飾りも白い小花の仙人草ではなく、薄紫色の花の房・・・リラだ。
モローの絵のタイトルにもなっているグリフォンも、この絵では2羽の白鳥に変えられている。
青年はさながら妖精ならぬ白鳥の化身。
いや、むしろ白鳥に変身したゼウスに誘惑されるレダを思わせるような、妖艶な美しさだ。
そして大きな違いがひとつある。
左右が完全に逆転しているのだ。
「このアイディアはお前が考えたのか?」
あらためてミノリの才能を俺はひしひしと感じた。
なんと美しい絵を描くのだろうか。
「そうだけど、ルシュディーがこの写真をくれたんだ」
そう言ってミノリはキッチンの抽斗から、1枚の隠し撮りっぽいスナップ写真を取り出して見せてきた。
どこかで見たことのある景色・・・そうだ、メッシーヌベルシーのキャンパスだ。
チャペルと思われる白い建物の前であの騏一郎という青年が壁に左肩を凭れさせるようにして佇んでいる。
目線の先には髪の長い女性の後ろ姿・・・これが森律子なのだろう。
そして建物の背景には湖が見え、本当に小さくだが、番いと思われる2羽の白鳥が湖岸にたゆたっていた。
どこにでもあるようなスナップ写真。
しかも他にギャラリーは大勢いる。
なんてことのない大学のこの日常風景から、どうしてこんな、幻想的な構図が思いついたのだろう。
よく見れば、もちろん服こそ着ているが、騏一郎のポーズも同じ、遠近が逆転しているが白鳥のポーズも絵と同じだった。
「これ、本当にそのルシュディーって男にあげちゃうのか?」
なんだかもったいない気がした。
金がとれるレベルどころじゃないだろう。
「もちろん約束だからあげるけど、オーナーに出品しろって言われてるんだよ」
さすがアドルフだ!
金に汚いが目だけは確かだ。
「出品って、なんのコンテストだ」
「来月モントルイユのヴェリテ美術館で開催される、市主催の絵画コンクールだよ。でもそうすると、しばらくルシュディーにあげられないし、どうしようかと思ったんだけどさ、なんか優秀作品に選ばれると車がもらえるらしいんだよね」
そういえば以前にミノリは、スケッチ旅行に出かけたいと言っていた。
車があれば、地中海でもアルプスでも、気ままにいろんな場所へ行って好きな絵がいくらでも描けるだろうし、アドルフが依頼した絵の搬入も、自由にできるだろう。
なるほど、確かにいい考えだ。
「この薄紫とリラの花は?」
この絵でとても印象に残るのが、背景の色と花冠だ。
それについてミノリに聞いてみた。
「それはルシュディーたっての希望なんだよ。どうしてかわかんないけど、そこだけは絶対に変えるなって言われた。でも確かにリラの花って騏一郎さんのイメージかもね」
「そのルシュディーって男はひょっとしてゲイか?」
「さあ・・・知らない」
お子ちゃまに聞いた俺が馬鹿だった。
だが、なんとなく確信できた。
ルシュディーって野郎はこの男のことが好きなんだろう。
そしてリラの花はこのアパルトマンを指し、ここですれ違う騏一郎への思いを込めて、1枚の絵をミノリに託した。
中庭で満開に花咲くリラの花。
ひょっとしたらこのアパルトマンで、二人の間に密かなロマンスがあったのかも知れない。
描き手がそこらへんの情緒をまるでわかっていないことは拍子抜けだが、彼女がこれだけ美しく官能的な表情をセンスだけで描くことが出来る天才だったことに、ルシュディー君は大いに感謝するべきだろう。
梱包を手伝ってやり、3枚の絵を車に運び込む。
外はもうかなり暗かった。
「トイレだけ借りていいか?」
戸締りをしているミノリに声をかけて、バスルームの扉を開ける。
まさしく地獄絵図ってのはこういうことを言うに違いない。
古いバスタブに放り込まれた絵筆やペイントナイフにパレットの山。
排水溝へ向かって曲がりくねりながら毒々しい線を描いている色の筋に、壁のあちこちへこびりついて干からびている絵具の塊。
幸いなことに無事だったトイレで用を足した後、息が詰まるほど絵具の匂いが充満しているバスルームを出た俺は、ミノリへ確認せずにはいられなかった。
「つかぬことを聞くが、他にバスルームがあるのか」
「ないよそんなもん。見りゃわかるじゃんこんな安アパルトマン」
「一体どうやって風呂に入っているんだ?」
「そうだねー、週に1度はコンコルド広場やシャイヨー宮に行くようにしてるけど・・・」
「噴水は公共施設で風呂じゃない」
ミノリの頭がフケだらけなのも当然だった。


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