その後俺は勝手に冷蔵庫を開けて、シードルとストラスブールソーセージしか入っていないことを認識し、洗濯機もないこの部屋でベッドの上・・・そもそもベッドもスケッチブックやチャコール、木炭、羽箒、分断された練消しゴムの断片などで散らかっていたのだが、その上に張ってある洗濯ロープには、ミノリが今着ているような粗末で、裾に絵具が付いたTシャツと雑巾にしか見えない穴が開いたタオルしか掛かっていなかった。 06
いちおうクローゼットらしき扉もあるのだが、女性だから遠慮をするという理由ではなく、俺の中のごく平均的だと思っていた潔癖な何かが、開けてはならないと警告を発していたので見るのをやめた。
ミノリの壊滅的な生活レベルがよくわかった。
ひとまず絵の運送を済ませた俺はもう一度ミノリを車に乗せると飯に誘った。
その前にオペラ方面へ向かう。
最初にアドルフの店から出て来る時にミノリが言っていたとおり、彼ら二人はまだ戻っていなかった。
やはりマルセルと食事にでも行っているのかも知れない。
あのまま待っていたら、ミノリではないが確かに日が暮れていたところだ。
シャンゼリゼ通りを東へ向けて、メルセデス・ベンツS560を走らせる。
「あ〜、観覧車だ!」
コンコルド広場を通過するとき、助手席で身を乗り出してミノリが言った。
ライトアップされた噴水とオベリスク。
その向こうで放射状に眩い光を放つ観覧車。
「よかったら乗って行くか?」
「やだよ! 観覧車は恋人と乗るものだもん、おじさんとじゃ嫌!」
「悪かったね、おじさんで」
せっかく食事に誘ってやったのに、えらい言われようだ。
その前に自分がしようとしていることを思い、さらに情けなくなる。
俺とじゃ満足できないらしいロマンティックな観覧車の前を素通りし、ロワイヤル通りからマドレーヌ通りへ入った。
オペラ広場を通り抜けて、ひときわ目立つ巨大な建造物オペラガルニエを見ながらアレヴィー通りを北上する。
「ねえおじさん、どこ行こうとしてるの? 何を食べさせてくれるの?」
「そういう高い声で幼女のような聞き方をされると、なんだか悪いおじさんになった気がするからやめてくれないか」
「どういう意味?」
「いや・・・なんでもない。メシに行く前に、ちょっと買い物をしたいだけだ。車を止めるぞ」
買い物客や観光客でごったがえす歩道脇にベンツを止めると、俺はミノリを連れてデパートへ入った。
「さっさと行くぞ」
入り口でキョロキョロとしているミノリの手を引き、ガードマンから止められる前にさっさとエレベーターへ乗り込むと、婦人服売り場へ向かう。
「ねえ、こんなところで何するの?」
「デパートだから買い物に決まってるだろう」
ミノリに選ばせていたら何も決まりそうにないので、女の店員に声をかけて、適当に服を持ってこさせる。
「ご試着はその・・・あちらですけど」
「ああいい。多分大丈夫だろう」
明らかに試着などして欲しくなさそうな店員にそう告げると、さっさと服を包ませた。
カードで支払って茫然としているミノリの手を引き、すぐに店を出る。
「ほら、これ持ってろ」
たった今買ったばかりの包みをミノリに渡す。
「ねえおじさん、これ何なの?」
「洋服って言うんだ、覚えろよ」
そう言ってミノリの頭を掻き混ぜると再びベンツへ乗り込んだ。
ブラウスにジーパン、Tシャツ、履くかどうか知らないがスカート。
本当は下着も買ってやりたかったが、さすがに変態扱いされそうなので止めておいた。
服が綺麗になったら、自然と買い替える気になるだろう。
どんな下着をつけているのかは、さすがに知らないが。
珍しそうに服を眺めているミノリを見て苦笑する。
古い映画の紳士気取りだな、これじゃ。
次に向かった先は10区の俺のアパルトマン。
「ここは?」
マゼンタ通りから少し横道に入り、路地に車を停車する。
「俺の家だ。入れよ」
石畳の中庭を抜けると、薄暗い玄関ホールでエレベーターのボタンを押す。
黒い蛇腹の旧式なエレベーターでノロノロと5階に向かった。
「高そうなアパルトマンだねぇ、いいなぁ。儲かってんだね」
「古いだけだ。別に高くはないし、この辺の治安はお前の家の近所とそう変わらんぞ。大体稼ぎはお前の方が絶対に良い筈だ」
なのに、服を買ってやったり、飯を奢ってやろうとしている俺は、しっかりと若い娘に貢がされている愚かな中年男でしかない。
「ねえ、ご飯食べるんじゃなかったの? ひょっとしておじさんが作ってくれるの?」
「そんなわけないだろ。降りろ」
エレベーターホールからまっすぐに突き当りの部屋へ向かい、鍵を開けるとミノリを先に入れた。
「うわ〜、なんかいかにもフランスって感じ!」
部屋の明かりをつけ、暖炉と黒いパイプのベッドを行き来しながらはしゃいでいるミノリを適当に遊ばせておいて、俺は風呂場へ向かった。
バスタブに湯を張り、脱衣籠に新しいタオルを置くと、ミノリに声をかける。
「じゃあ、ま。俺は向かいのブラッスリーでビールでも飲んで待ってるから、準備が出来たら出て来いよ」
「えっ、おじさん出て行くの? 何で?」
ミノリが目を丸くして聞いてくる。
まあ、そりゃそうだろう。
俺はひとつ咳払いをすると。
「お前いちおう若い女なんだろ? 風呂入ったり着替えたりすんのに、俺がいちゃまずいだろうが」
「えっと・・・意味がよくわかんないんだけど。ねえ、ごはんは? ・・・なんでお風呂なの?」
ミノリが赤くなりながら頭を掻いた。
一応は男だと意識されているようで、少し安心する。
だがフケが飛ぶから、できれば頭を洗ってから掻いてくれないかと凄く言いたいのだが、俺は紳士だからそこは口へ出さずにとどめておく。
「ご飯はこの後で食べに連れて行ってやる。だけどその前にまず、風呂に入って頭も身体もちゃんと洗え。それから、さっき買ってやった服から適当に好きなのを着ろ。ご飯はそれからだ、マドモアゼル」
そう言って額にキスしてやる。
今度こそミノリが真っ赤になった。
そして次に力いっぱい張り倒された・・・。
アパルトマンの向かいにある、皇帝の名を冠したカフェ・ブラッスリーで待つこと10分足らず。
ハイネケンと一緒に、着替えたミノリが窓際のテーブルへひょこひょことやって来た。
「本当にちゃんと洗ったのか・・・」
多少はこざっぱりとしたかもしれないミノリが、仏頂面で俺を睨みつけた。
ミノリの選択は案の定Tシャツとジーパンの組み合わせ。
まあいいだろう。
ブラウスやスカートの方は、彼女にそれなりの相手が現れたときにでも着てくれたらそれでいい。
ハイネケンを一気に飲み干すとミノリを連れてマゼンタ通りを歩く。
「飲酒運転はしないんだね」
「まあ一応、これでも商売で車に乗ってるからな。交通ル−ルは守らないと」
シャトー・ドー通りへ抜けて、薄暗いアーケードの入り口を目指し、更に歩いた。
パッサージュブラディは南インド系の店ばかりが集まっている特殊なパッサージュだ。
地下で繋がっていて食材の貸し借りをしているから、どこで食べても味が安定している。
しかも安くて美味い。
まあ中には頭が可笑しいゲルマン人の犯罪者が待っている、不思議系の雑貨屋もあるが。
「ムッシュウ・ラスネールこんばんは」
アーケードの入り口付近にある、金色の象の置物が目印のレストランへ入る。
『パラ・デ・ラヨポ』。
俺の行きつけの店だ。
窓際のテーブルへ腰を下ろし、ミノリに向かいの椅子へ座らせる。
店内はそこそこに込み合っていたが、平日なのでこの時間なら大分ましな方だ。
適当にコースを頼み、まずはアペリティフのキールで喉を潤す。
店員が赤いキャンドルに火を灯して行った。
ぼんやりとミノリの幼い顔が照らされる。
「なんか全然パリって感じしないね、ここ」
赤い木枠の窓を眺めながら彼女が言った。
外ではどの店も盛んに店員が呼び込みをしている。
この通りは客引きが激しいことでも有名だ。
「まあインド人街だからな」
正確にはパキスタン系が多いのだろう。
この店もたぶんそうだ。
10分ほど待たされた後に、前菜のタンドリーチキンが出てきた。
「すっごい美味しそう! こんなの食べさせてもらって本当にいいの?」
「2人前で3皿づつ頼んでも120フランだ。気にしてくれるな。・・・ところで、お前はマルセルのことをどう思う?」
少し突いただけでナイフとフォークを諦めたミノリが、手づかみでタンドリーチキンに齧りつきながら顔を上げた。
彼女がチキンを皿に戻したタイミングを見計らい、俺は立てた人差し指にナプキンを被せて、彼女の頬に付いたソースを拭ってやる。
「ありがと。・・・マルセルは綺麗だけど、全然あたしの好みじゃないなぁ」
「いや、異性としてどう思うかを聞いているわけじゃないんだが・・・そうか。ああいうのは女に受けないもんなんだな。そうじゃなくてだな、お前はアイツとよく話したりするのか? ありがと」
焼き立てのナンと3種類のカレーをテーブルに置いて、骨だけになったタンドリーチキンの皿を店員が下げていく。
カレーはミックス野菜と、フルーティーな甘いやつと、ちょっと黒っぽい辛めのルーが少しずつ入っている。
ナンはふわふわで絶品なのだが、俺が呑気にビールを呑んでいると、全部ミノリに食べられてしまった。
仕方ないのでナンだけ追加注文する。
「結局何が聞きたいの?」
追加したナンに齧りつきながらミノリが聞き返してきた。
「マルセルはさ、一度アドルフを裏切ってるんだよ。それなのにアドルフはふたたびマルセルを黙って受け入れている。俺にとっちゃダチを陥れた酷い野郎だが、実際のところマルセルってどんなヤツなのかなぁと思ってさ。・・・ひょっとしたら俺がそういう色眼鏡で見てるだけかもしれんし」
「おじさんがそう思うんなら、そういう子ってことじゃないの? あたしもよくわかんないよ。ただマルセルは絵が上手いよ。コンクールがあるし、他に描きたい絵もあるし、だからマルセルが戻って来て半分仕事を受け持ってくれていることで、あたしはすごく助かってるんだ。・・・まあ、オーナーからもそれとなく話は聞いてたから、マルセルが悪いことをしたのは知ってるけど、あたしにとっては有難い子。でも、話すっていっても仕事の話ばっかりだし、実際のところよくわかんないんだよね。それもらっていい?」
デザートのシャーベットに手をつけないでいると、それもまたミノリに取られてしまった。
「結局お前もマルセルのことはよく知らないってわけか」
「そうだねー。色遣いのセンスが飛びぬけていいとか、そのぐらいかな。何が聞きたかったのかわからないけど、力になれなくてごめんね」
「いや、かまわん。・・・まあ、要するに恋人同士の問題に首を突っ込む方が野暮ってこったな」
そんな話について俺は娘と同い年の少女の口から、一体何を引き出そうとしていたのか・・・そう考えて、自分が恥ずかしくなった。
「恋人って? ・・・やっぱりおじさん達ってそうだったの?」
ミノリが素朴に聞き返してきた。
あまり自然に聞いて来るから、俺はあとから言われた意味を考え直して猛烈に恥ずかしくなったほどだ。
が、この時はそこまで頭が回らなかった。
「お前まさか知らないのか・・・マルセルはアドルフの恋人だろうが」
「うそ・・・全然、そんな感じじゃないんだけど」
「お前自分で言ってたじゃないか。マルセルを連れてアドルフが出て行くと、絶対食事をしてくるから遅くなるって」
「だって、それはマルセルがいつも自分で言ってるもん。昨日は何を奢ってもらったとか、食費が助かったとかって。やだっ、一緒に食事したら恋人だとか、まさかそんなことおじさん思ってるわけ? ちょっと、あたしおじさんの恋人になんて、なる気ないよ!? いきなり服買ってくれたりするから、怪しいと思ったんだよ、絶対嫌だからねっ!」
俺が何を勘違いさせたのかは知らないが一人でミノリが騒ぎだし、しかも内容が内容なので、店員が俺をジロジロ見始めて、仕方なく店を出ることにした。
そのあと説得に10分ほど時間をかけてどうにか誤解は解けたが、結局ミノリに奢るだけ奢って、俺はカレールーしか食べられなかった。
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