翌日の土曜日。
初夏のレオンブリュム広場は午後9時を回ってなおも暖かく、俺達は人の流れが切れぬロケット通りをペールラシェーズ墓地方面へ向けて、ノロノロと進んでいた。
レンタルしたメルセデスのマイクロバスには20名ほどの気飾った少年たち。
すぐ斜め後ろのシートではTシャツにシンプルなジーパン姿のマルセルが、窓枠に肘を突いて道行く人通りを眺めている。
「あ、そこで曲がって」
「ここか?」
小さな通りをふたつばかり通過したところで、マルセルが声を上げた。
ステアリングを左へ切って、やや細い道へバスを入れたところで目的地に到着する。
「ねえピエール、荷物を運ぶから手伝ってよ」
「はいはい」
車から出て、邸へ向かうコンパニオンの少年たちを見送りながら、一服しようと煙草を取り出したところでマルセルに声をかけられた。
人遣いの荒いクソ餓鬼だと溜息を吐きつつ、トランクからイーゼルや画材をてきぱきと運び出しているマルセルの指示に、俺はやる気のない肯定の返事をかえす。
口に咥えていたジタンを箱へ戻すと、マルセルに運べと命令されたクラフト紙の大きな包みを二つ両脇に抱え、トランクを閉めた。
「こっちだよ」
コンパニオン達が歩いて行った、照明がキラキラと輝く玄関ポーチらしき方向へ向けて、アプローチを進みかけたところで、違う方向からマルセルに呼ばれた。
アトリエへの近道を知っていると思われる彼の小さな背中を追い、薄暗い茂みが向こうに見えている砂利道へ足を進める。
「お前な、自分だけ軽そうな荷物選びやがって、先々行くなよ」
「あー、ごめんごめん! 若者の僕が気を遣ってあげるべきだったね〜。ひとつ持ってあげようか、お・じ・さ・ん?」
一旦立ち止り、極上の笑みを見せつつ、その可愛らしい唇から聞こえて来るのは、張り倒したくなるようなこの憎まれ口。
「結構だよ! で、どこなんだ? 画家大先生の仕事場とやらはよ?」
「その噴水の向こう側だよ」
ポツポツと庭を照らす常夜灯の下を、砂利の擦れ会う音を立てながら突き進む。
前方からはリラや薔薇らしき花の香りを運んでくる、緩やかな風の流れ。
水しぶきの涼しげな音と湿気を含んだ空気が、そう遠くない距離にある噴水の在りかを教えてくれる。
「おまえ、なんで今回の仕事を引き受けようと思ったんだ?」
柔らかなオレンジ色の光を受けながら、マルセルがあどけない表情でこちらを見上げる。
鳶色の大きな瞳と、それを縁取る長い睫毛がまっすぐに俺を映し出し、形の良い唇は微笑を湛えたまま・・・思考が読めない。
「画家を志す身として、有名な依頼者からの仕事を引き受けることは、名前を売る大きなチャンスになるからだよ」
予め用意されていた、しごくもっともな回答を、淀みのない言葉が音声に変換する・・・そんな感じだ。
「ああ・・・そりゃ、そうだろうな。ミノリもお前を誉めていたよ・・・何て言ったかな。色彩感覚が天才的だってさ。・・・いや、そうじゃなくてさ。一度はアドルフと縁を切ろうと思っていたわけだろ? どうしてもう一度、アイツへ手を貸す気になったんだ?」
瑞々しい美貌の面から一瞬で笑顔が消えた。
マルセルは俺から視線を逸らすと前方を見据える。
「つまり・・・僕が腹に何かを企んでいると、・・・あなたはそんなことを僕の口から真正面に聞きだしたいわけだ」
「よもや、俺にアリーヌを会わせてやりたいから、ダチのアドルフに気の利いた情報を持ってきてくれたわけじゃあるまい」
「そういうことにしておいてよ」
笑いを含んだマルセルの声が、それが嘘だと隠そうともせずに、ぬけぬけと言った。
俺は一歩前に出ると、彼の行く先を阻む。
「なあ、吐けよ」
マルセルの顔が微笑を湛えたまま俺を見つめた。
「食い下がるね」
「てめぇの本心は何だ? アドルフに何をしようとしてる」
「そんなに彼が心配なら、どうしてもっと上手く聞き出そうと思わないの? たとえばさ・・・」
「やめろ」
手に画材を持ったままの腕を背中に回しつつ、急接近してきたマルセルの華奢な身体を押しやった。
「乱暴するなんてひどいね」
それほど強く押したつもりはないマルセルの肩がドシンと音を立てて太い幹にぶつかり、上から小さな花がパラパラと舞い落ちる。
あたりに強く漂う、リラの甘い香り。
口元に笑みを保ったまま俺を睨みつける妖艶な美貌に、眩暈を覚えそうになった。
だが、負けじとこちらも相手を睨み続ける。
擽るように息を吹きかけられた耳元の薄い皮膚の感触が、ぞわぞわと肌を粟立たせていた。
今回の仕事も、こんな感じでマルセルは獲得してきたということだろうか。
ゲイではない俺でさえあっさりと動揺させるマルセルの誘惑は、アドルフがその裏切りを一度は許そうとする気持ちがわからなくもないほど、強烈な色気を孕んでいた。
気持を奮い立たせる。
ここで目を逸らしたら、たぶん俺の負けだ。
「二度とあいつを裏切るような真似をするなら、今度は俺がてめぇをぶちのめすぞ」
マルセルの顔から再び笑みが消えた。
「何があっても、僕が再びアドルフを陥れると・・・彼を守ってみせると・・・、あなたはそう言うわけだ?」
「そうじゃないと言うなら、ここでその本心を言って俺を納得させてみろよ」
「本心か・・・ねえ、ピエール。その前に、どうして僕が彼を裏切ったか・・・そこに興味はないの?」
「なに?」
意外な逆質問の意図が掴めず聞き返すと、マルセルはそれきり視線を逸らし、ふたたびアトリエを目指してゆっくりと歩き始めた。
「僕にはあなたの真意こそが知りたいよ」
表情を見せぬままそう続けたマルセルの声が、なぜだか苦しそうに感じられた。
パーティー会場になっている広間から、白々と灯りが漏れている。
華やいだ雰囲気と軽快な音楽がガラス越しに響いている噴水の広場を通り過ぎ、石畳の通路を渡った先でマルセルがようやく建物に入った。
「こんばんはシルヴァン」
使用人用か、あるいはこの青年の物なのかと思われるその部屋は、豪勢なマシュクール邸の庭園を通り過ぎてきた目にはひどくシンプルで殺風景に映った。
シルヴァンと呼ばれたモデルの青年は、声をかけられるとパッと頬を染めて立ち上がり、握手を求めるマルセルの右手を握り返した。
二人は同年代ぐらいだろうか。
シルヴァンの装いは半袖のフード付きスウェットシャツに、ロールアップさせたミリタリーカーゴパンツ。
素足に履いた赤いスニーカー。
聞いた話ではマシュクールの秘書兼愛人ということだったが、とても政治家の秘書には見えない。
やはりただの愛人・・・もっと言えば、気まぐれに街で声をかけた、ゆきずりの相手と言ったところだろう。
だが、マルセルやここへ連れて来たコンパニオン達に負けないほどの美しさ。
マシュクールが肖像画を残したくなる気持ちも、わからぬではない。
マルセルは荷物を下ろすと包みを解き、とっとと準備を始める。
「悪いけど、着てるもの全部脱いでくれる?」
クラフト紙を剥いで出てきたオブジェをセッティングしながら指示をされると、シルヴァンは動揺も見せずにさっさとシャツを脱ぎはじめた。
「ああ、ええと・・・じゃあ、俺はこれで」
「ピエール」
さすがに気不味くなり退席しようと出口へ向かったところで、後ろから呼びとめられた。
ギリシャ神殿風の柱、冠の形に編みこまれたリラの花、2羽の白鳥の剥製・・・・なぜか既視感を覚えるそれらの取り合わせを包みから取り出しつつマルセルが顔をあげた。
「1時間ほどで終わるから、そのまま待っててもらってもいいかな」
窓辺を指さしながらマルセルが笑顔で言った。
指された方向を見ると、小さなテーブルと椅子が置いてある。
不意に女性の声が聞こえて入り口を振り返った。
使用人らしきエプロンを付けた若い女性が、ティーカップと茶菓子を載せたトレーを持って部屋へ入って来る。
慌ててシルヴァンの方を見ると、すでに一糸纏わぬ姿になっており、マルセルに指示をされるまま大きな布を被せた木製の椅子へ腰を掛けてポーズをとっていた。
局部が丸見えだ!
「そ、その・・・ええと君、ここじゃ、なんだからさ・・・彼らの邪魔になるだろうし」
「それでは、『青薔薇の間』へご案内いたしますので、こちらへどうぞ・・・」
女性はマルセルとシルヴァンへ一礼し、そのままトレーを持って再び扉から部屋の外へ出た。
俺は焦りながら彼女の後を追う。
「わかったよルネ、『青薔薇の間』だね」
後ろから声を掛けてきたマルセルの声が、笑いを含んでいた。
どうやら動揺していたのは俺だけだったようだった。