『青薔薇の間』とやらは、アトリエのある建物とは別棟になるらしく、使用人の女性、ルネは一旦石畳の通路へ出た。
月明かりに照らされたマシュクール邸の庭園。
「なるほど、『青薔薇の間』か・・・」
やたらに気取った呼び名であるその部屋へ案内された俺は、明るい月光の下、開け放したガラス扉から続く広いポーチへ立ってみて、名前の由来を即座に理解した。
庭をぐるりととり囲む、手入れが行き届いた垣根の植え込みは、一面の青い薔薇。
一体何百本・・・いや何千本の青薔薇がこの庭に植えてあるのだろうか・・・月の光を静かに浴びて夜に輝く大量の薔薇・・・噎せかえるほどの甘い芳香に包まれて、俺は息がつまりそうになった。
薔薇の垣根の向こう側には、大きな白い壁面・・・どうやら門を入って最初に見た建物なのであろう。
パーティーの会場となっている部屋の窓が開かれているらしく、灯りとともに五月蠅いほどではないバンド演奏の雰囲気ある音楽が、夜風に乗って伝わってくる。
「アリ・・・・!」
二階のバルコニーに佇む人影を見て、俺は一瞬叫びそうになった。
ほっそりとした深紅のロングドレスに身を包み、明るいブロンドの長い髪を結いあげた若い女性・・・まちがいない。
アリーヌ・・・。
その名をそっと心で呼び、だが口にはできぬもどかしさに、身を焦がす。
すぐ隣に立っている黒髪の男が、おそらく彼女の夫、ジョリス・ド・カッセルなのだろう。
バルコニーから離れてゆく男に続き、彼女もその後に続こうとする。
「アリーヌ・・・」
思わず手をさしのべて呼びとめようとし、自分の愚かしさに失笑した。
こんなところから呼んでも、聞こえるわけがない。
叫べば声は届くかもしれないが、ジーンズとスニーカー姿の招待客でもない自分が彼女に声をかけて、それでその後どうするというのだ。
場違いな会場にひょっこりと現れた、相応しからぬ男。
血こそ繋がっているが、法律上は赤の他人でしかない、身分違いの男が彼女の傍に現れても恥をかかせるだけだ。
「アリーヌ・・・」
そっとその名を、もう一度だけ口にする。
綺麗になったな。
背中が大きく開いた、大人っぽいドレスに、美しい項を見せているアリーヌ。
ほっそりとした剥き出しの肩を引き寄せる男の手が憎らしい。
「アリ・・・」
一瞬だけ彼女がこちらを振りかえり、慌てて背を向けると部屋の中へ入った。
気付いた・・・・?
「そんなわけ・・・ないよな」
「どうかなさいましたか?」
ルネがテーブルの傍にまだ立ったまま、不思議そうに俺を見て首を傾げている。
「いや、なんでもない・・・お茶ありがとう。頂くよ」
「それでは、私は斜め向かいの厨房におりますので、何かございましたらいつでもお申しつけくださいませ」
「そうするよ。どうもありがとう、ルネ」
礼を告げると彼女は軽く挨拶をして退出した。
立ったままティーカップを手に持ちポーチへ近づく。
バルコニーからはすでに人影が消えていた。
隣の建物から漏れている灯りに気付き、再びポーチへ出てみると、そこがアトリエであることに今さら気付く。
金髪の頭に花冠を頂き、裸体でポーズをとっているシルヴァン。
「あの姿は・・・・」
先ほど意識した既視感に再び襲われる。
噎せかえるような強い薔薇の香りと、煌々と降り注ぐ月明かり。
どこで見たのかを思い出そうとするが、思考がなぜかぼんやりとして霞む。
甘すぎるアールグレイのせいだろうか・・・だんだんと気分が悪くなってきた。
可笑しいと気付いた瞬間、陶器が割れる音を俺は耳にした。
それが自分の手から滑り落ち、足元で破片となったティーカップによるものだとわかった頃、俺はその場に倒れて意識を失いかけていた。
倒れながら、青薔薇の垣根の向こうから歩いてくる誰かを見る。
「ジャン・・・・いや、まさか」
ジャン・・・誰のことだ。
立ち上がろうとするが、まるで身体に力が入らない。
薬・・・そうか、マルセルにやられたんだな。
なぜだか俺はそう直感した。

 

次に目を覚ました俺は、元いたアトリエの窓辺の椅子に座らされていた。
椅子には白い大きな布が掛けられており、背後にはギリシャ風の白い柱が立っている。
足元には2羽の白鳥の剥製・・・・不意に頭から何かが滑り落ちて来る。
それが膝を掠めた感触で、自分が全裸・・・正確には腰布を右腿に掛けただけの姿で、局部も露わに座っていることに気付く。
慌てて膝を閉じた。
続いて布で隠そうとして、両腕の自由が奪われていることを覚る。
俺はシルヴァンと入れ替わっていたのだ。
ただし、縛られた状態で。
「せっかくの花飾りが落ちてしまったな」
男がそう言って俺の足元から何かを拾い上げる。
リラの花冠だ。
そこでようやく気が付いた。
「妖精とグリフォン・・・・」
「モローか・・・私も好きだよ。・・・君の姿はまさに『妖精とグリフォン』の妖精だ。多少アレンジされてはいるがね。・・・まったくマルセルは愉快な男だ」
そう言って軽く笑いながら、男が俺の頭へ再びリラの花冠を載せる。
年齢は俺より少し上ぐらいだろうか。
やや長めの癖がある栗色の髪をふんわりと後ろへ撫でつけ、手首でクラッシックなカフスリンクスを留めたドレスシャツの上には、細かいストライプのグレーのベスト。
そして同じ柄のスラックス・・・三つ揃いのスーツのジャケットだけを脱いでいるのだろう。
ネクタイは外され、胸までボタンを開けられたの襟の隙間からは銀色のボールチェーンを見せている。
大柄な彼が背を屈めて俺の顔を覗きこみ、2種類のペンダントトップが、襟の隙間から零れ落ちて来た。
ひとつは文字列が彫られた正方形に近い金属プレートで、まん中に一列の小さな穴が空いており、もうひとつは下が波型に切られている、横長のプレートに3列の文字の刻印・・・違う、横長じゃない。
どちらも軍のドッグタグだ。
ひとつは死者識別の為に、すでにまん中でカットされている・・・字は判読しづらいが、名前はJ・・・JEAN、だろうか・・・ジャン・ダクール?
暴行されて殺された、彼の形見・・・なのだろうか。
「マルセルの恋人が浮気をしたくなる気持がわからんでもない」
男が目を細めながら、俺の顔へ手をかけてきた。
全身の肌が嫌悪に粟立つ。
この男は危険だ・・・本能でそう察知した。
「ジル・ド・・・マシュクール・・・?」
「いかにもそうだ。・・・君はピエールと言ったかな・・・多少トウが立ってはいるが、運転手なんかにしておくのはもったいないような美人だ」
マシュクールはそう言うとベストとシャツのボタンをすべて外した。
うっすらと胸毛に覆われ、軍で鍛え抜かれた見事な筋肉が露わになる。
胸元で揺れる、2種類のドッグタグ・・・形を残している方が彼の物で、半分のものがダクールのものなのだろう。
半分の方には、無数の細かい傷が入っている。
今際の際に彼が受けた暴行の凄惨さが、そこから窺いしれた。
「余計な御世話だ・・・マルセルはどこだ? くそっ、外せよ・・・」
妖精とグリフォン・・・正確にはミノリが描いた日本人青年の絵、そのままの構図の中に俺は座していた。
ただひとつの違いはモローの絵の妖精も、ミノリの絵の中の青年も肘を突いて人差し指を立てているが、俺の両手首は椅子の背もたれの後ろで縛られていること。
両腕を引っ張ってみるが、まるで結び目が緩む気配もない。
マシュクールがゆっくりと手を伸ばしてくる。
「美しい金髪・・・ラピスラズリの青い瞳・・・・君にはリラの花より、青薔薇が良く似合う・・・ジャンと同じだ」
「ジャン・ダクールか・・・さっきから、どうして彼のことを?」
ダクールはかつてマシュクールがキガンダで駐留したときの、彼の盟友・・・そして同性愛の噂があった、美貌の元フランス軍少将。
聞き間違いでなければ、彼が垣根の向こうから現れたときにも、その名を呼んでいた筈だ。
覆いかぶさるように身を屈めたマシュクールが荒い息で、俺の首筋に顔を埋めつつ、身体を掌で撫でまわしてくる。
「ジャン・・・・私は君こそを守りたかったんだ・・・君が必死に守ろうとしたキガンダ人達に君は辱められ、殺されて・・・・君はどれほどの深い悲しみの中で死んでいったことだろう。私は彼らが許せなかった・・・・かつて君に愛され、君を裏切り、君を凌辱した少年たちに、君と同じ屈辱を味合わせて、もがき苦しむその姿を君にも見せてやりたかったよ・・・」
吐き気を催すようなおぞましさに全身が包まれる・・・恐ろしい犯罪の告白。
熱に浮かされたようなマシュクールの言葉は、聞くに堪えないものだった。
肌を這いまわる粘質な手の動き、首筋を伝う軟体動物のような舌の滑り、辛うじて腿にかかっていた腰布が取り払われ、膝を割られながら腰を持ちあげられて、腿の内側に当たるマシュクールの昂りに気が付き、ゾッとする。
罪もなき哀れな難民の少年たちもまた、このようにして彼に凌辱されていったのだろうか・・・理由もわからぬまま。
「彼らを・・・・どうしたんだ?」
マシュクールに突き纏っていた黒い噂。
現代の青髭ジル・・・タブロイド紙の命名は、半分ぐらいは当たっていた。
「すぐにわかるさ」
「ぐっ・・・・!」
とつぜん首を締められて、急速に意識が遠のいてゆく。
ペドフィリア、ネクロフィリア、錬金術者・・・行方不明になった難民の少年達の消息は、なぜかかならずレオンブリュム広場を最後に途絶えていた・・・タブロイド紙の記事はこんな感じだった。
キガンダ人達に殺された悲劇のダクールの盟友であり、彼を愛していたマシュクールが、一連の事件に関わっているという突飛な噂がありながらも、キガンダ人を救おうとしていたダクールの汚名を、持ち前の弁舌で晴らすことにより、彼は先の市議会選挙に圧勝していたはずだ。
しかし彼の告白は、マシュクールがそのキガンダ人の少年達を拉致し、暴行し、あるいは殺害したかもしれないことを意味している。
ダクールが懸命に命を救おうとしていた、罪もないキガンダ人の子供達を、そのダクールの為に、彼は何人犠牲にしたというのだ。
「ダクールは・・・こんなことを望んでいたと・・・本気で思っているのか・・・」
不意に首の締めつけが緩み、急に開放された気道へ一気に流れ込んだ空気により、俺は激しく咳き込む。
目の前が涙で滲んだ。
「貴様に何がわかる!」
次の瞬間、頬を殴られ、椅子から引きずり下ろされて、身体が床へ叩きつけられた。
「ああ、わからんよ・・・ジャン・ダクールのような高い倫理観と熱い魂を持って国家に忠義も尽くしていた優れた男の姿を間近で見ていながら、独りよがりの思い込みで罪もない子供達を手に掛けて、それを亡き盟友との愛のせいにしつづける身勝手さなんてなっ・・・」
再び息が詰まった。
今度は喉元へ両手を強く掛けられていた。
「五月蠅い黙れっ・・・・誰にも理解などしてほしくはないっ! ジャンがどれほどの思いで軍と戦い、キガンダ人達を救おうとしていたかっ・・・どれだけ無念のうちに死んでいったか・・・何も知らないくせにベラベラと・・・・貴様のようなフランス人達の無責任な戯言が、奴らを煽動し、彼を殺したんだ!」
遠のいてゆく意識の中で、マシュクールの悲しげな叫びを聞き、俺に馬乗りになった男から、頬へ胸へと熱い雫が幾つも落ちてきた。
再びどこからともなく流れ込んでくる薔薇の甘い香りが鼻孔をくすぐる・・・青い薔薇。
そうか、あれはダクールの瞳の色・・・ラピスラズリの瞳の色だったのだ。
そして夜空に浮かぶ月の黄色は、ダクールの波打つ眩い金髪の色。
あの『青薔薇の間』は、彼がダクールへの思いを形にした、大切な部屋だったのだ。
かつてキガンダ人達のためにフランス軍と戦い、無責任な報道で汚名を着せられて、そのキガンダ人達に殺されてしまった、彼の美しき盟友との思い出に耽る為の。
ひょっとしたら、在りし日の彼と何度か逢瀬を重ねたかもしれない、そんな甘い香りがよく似合う部屋。
彼を見つめるラピスラズリの瞳を思い出しながら・・・二つのラピスラズリ・・・さて、どこかで俺はその石を、最近良く見ていた気がするが。
そう気が付いたとき、俺の意識は再び闇へ包まれた。



08

欧州モノ:『La boheme, la boheme』シリーズへ戻る