シャンゼリゼ通りをゆっくりと走るケイマンSの静かなエンジン音。
オレンジ色の街灯が艶のある黒いボンネットを規則的に流れては、次々と俺の顔を照らして後ろに消えてゆく。
助手席のガラス窓に額の少し右斜め上の辺りを預けながら、俺は馴染みのあるその光景に自分の居場所をようやく覚った。
ふと運転席にいるはずの、よく知っている男の顔を確認しようと身じろいで、強く顔を顰めてしまう。
「いったたた・・・」
唇の端に頬骨、喉、肩に背中、肘・・・・あちこちに作ったらしい痣や切り傷が一斉に居場所を主張し始めて、俺に悲鳴を上げさせた。
「無理に動くな」
ステアリングを握ったまま、珍しくノースリーブ姿の悪友が、咎めるように言う。
そこで初めて、自分の着ている、少し大きめの肌触りの良いシルクの黒いシャツが、彼の物であることに気が付いた・・・ほんのりと匂う、彼がいつもつけている香水。
下も自分が履いていたジーンズではない。
だがアドルフのものでもない。
「なあ・・・このスラックスって誰のだ?」
そういえば、ウェストがかなり緩い。
「マシュクールのものだ。あんな野郎を脱がせるなんて気は進まなかったが、俺が脱ぐわけにもいかなかったからな。・・・ったくあの変態め、お前の首を締めながら勃起してたぞ。思い出すだけでも気色の悪い」
アドルフが吐き捨てるようにそう言って、せっかく美しい形をしている鼻の上あたりへ、大きな皺を寄せて見せた。
「お前・・・助けてくれたのか?」
返事がない。
だがそれが素直ではない彼の回答だと、俺にはわかる。
俺は苦笑する。
「笑いごとじゃないぞ。お前はもっと自分のことや置かれた立場を正しく理解する必要がある。自分を裸に剥いて手首を縛り、ペニスをおっ立てながら首を締めている変質者に、のうのうと説教を垂れるだなんて、お前もそうとう頭がイカれてるぞ」
「アドルフ・・・お前こそ一体どこから目撃していたんだ?」
「場所という意味なら庭からだが、時間的な質問をしているなら、今言った場所からだ。・・・ジブリルが俺に知らせてくれた。マルセルとお前が姿を消したきり、戻って来ないと。アトリエがあるという裏庭へ回り、ようやく部屋の明かりを見つけてみると、マシュクールに首を締められたお前がぐったりとなっていた・・・血の気が引いたぞ」
ジブリルとはアドルフのところの古いホストの一人だ。
シャンゼリゼ通りから抜けだした、ケイマンSが間もなく停止した。
『Fourniret's』の前の馴染み深い景色。
ひどくそれが懐かしいように感じられ、俺を安心させる。
「アドルフ、手が・・・」
ステアリングを握っている彼の手が小刻みに震えていた。
それに気が付いたとき、淡い虹彩の彼の瞳から一筋の涙が流れ落ちたような気がした。
いや、さすがにそれは幻覚だっただろうか。
「すまない」
短くそう告げる彼の声は、非常に冷静なものだった。
やはり涙は見間違いだったのだろう。
しかし彼の指は、まだ震えたままだった。
恐怖か、或いは怒りのためか・・・だが、それは何に対しての感情の昂りなのだろう。
「どうしたんだ、急に」
「マルセルは俺に仕返しをしようとしていたんだ。だが、よもやお前に手を出すとまでは予想ができなかった。・・・わかっていたらお前をあそこへはやらなかった。俺のせいだ」
「待てよ、アドルフ・・・意味が理解できない。マルセルに企みがあったことまでは俺も気が付いていた。けど、なんで俺を陥れたことがお前への仕返しになるんだ? それにマシュクールは俺を襲ったとき、正気じゃなかった。彼は最初、俺をジャン・ダクールだと勘違いしていて・・・」
「それこそがマルセルの狙いだった。あいつがソーホーのクラブでマシュクールと会ったときに、彼からキガンダ時代のスナップ写真を見せてもらったらしいんだ。当時のダクールはお前によく似ていた・・・それでこの茶番を思いついたらしい」
確かにダクールも俺も、ブロンドで目の色は濃いブルーだし、何度かダクール少将に似ていると言われたことが、ないこともない。
マシュクールの発言から考えてみても、傍目にはよく似ているのだろうということも想像はつく。
しかし、それを利用してマシュクールに俺を襲わせることが、どうしてマルセルからアドルフへの復讐に繋がるというのだ。
そこで大事なことを思い出した。
「なあ、ジブリルはなぜお前にそんなことを知らせたんだ? お前の店の子たちはどうしたんだ・・・・っ。たたた」
身を乗り出しかけて、肩やら頬やらがキリキリと痛む。
怪我をしていることを忘れていた。
アドルフが俺を見て苦笑した。
「ミノリに連れて帰らせたから安心しろ。彼らにも本当に悪いことをした・・・今回の仕事は、完全な大失敗だ。最初に電話をかけてきたのは、邸を抜けだしたアランだ。みんなが酷い暴行を受けていると言って泣いていた。俺が車を飛ばしてマシュクール邸へ着いてみると、沢山のスタッフ達がお前と同じような怪我をしていた・・・レイプされかけた奴もいる。その場にいた使用人へマシュクールに会わせろと詰め寄ったら、秘書と名乗る男がしゃしゃり出て来て、警察へ訴えてくれてもべつに構わないが、そうされて困るのはそっちだろうと嘲笑われたよ・・・。結局スタッフ達はその場で帰してもらえたが、その時にジブリルが、お前がまだ邸にいる筈だと教えてくれた」
ようやく俺はアドルフの怒りの理由を理解した。
彼はおそらく、自分に対して怒っていたのだ。
大事な仲間達を傷つけてしまい、その仇を討ってやることすらできなかったことに対して。
オーナーとしてこの事態が予測出来なかった、彼らしからぬ危機管理能力の欠如に対して。
では、常に冷静だったアドルフの目を惑わせてしまったものは、一体なんだったのだろう。
「ミノリは大型免許を持っていないだろうに、どうやって彼女に連れて帰らせたんだ・・・。なあ、アドルフよ。結局なんでマルセルは・・・こんなことをしたんだ」
あなたの真意こそ知りたい・・・。
そう言ったきり、結局俺の質問には答えなかったマルセル。
だが、彼の語り口からは、アドルフへの悪意らしきものは感じられなかった。
アドルフは自分への復讐に俺が巻き込まれたのだと言う。
そもそもなぜマルセルがアドルフへ復讐をしなければならない。
被害を被ったアドルフからではなく。
マルセルはなぜ、アドルフを裏切ったのだ?
そこにあった本当の理由とは・・・そしてなぜ俺が巻き込まれた?
話が繋がらない。
いや・・・違う。
繋がらないわけじゃない・・・・あるひとつの憶測さえ、間違っていなければ。
マルセルの恋人が浮気したくなるのも、理解できる・・・。
ゾッとするようなマシュクールの声が、耳の奥に蘇り肌を粟立たせた。
「顔が真っ青だぞ・・・」
不意に腕を掴まれて振り向くと、間近でアドルフが俺を見据えていた。
「なあ・・・お前、今でも俺を・・・」
そう言いかけた瞬間、薄いブルーの瞳がフッと微かな笑みの中で細められた。
「これだけ言ってるのに、まだわからんのか?」
次の瞬間アドルフは俺に口づけた。
思わず彼の身体を押し返す。
「・・・何の真似だ?」
しかし無言のままアドルフは強引に俺の顎を指先で捕えると、もう一度深くその唇を押し付けてきた。
息がつまりそうなほどに情熱的な口づけ。
呼吸が苦しくなり、たまらず唇を僅かに開いたその隙間から、素早く舌が侵入してきて自分のものと絡み合う。
怪我の痛さも忘れるほど頭が痺れてぼんやりとなった。
こんなキスは何年振りだろう・・・・ひょっとしたら、初めてかもしれない。
そう考えて、自分の経験の拙さに苦笑する。
ままごとのようだったジュスティーヌとの儚い夫婦生活へ思いを巡らせているうちに、アドルフが大胆になった。
俺の背中をシートへ押しつけて、シャツの裾から彼が手を侵入させる。
わき腹や胸を掌でまさぐられ、指先で尖りを転がされて、快感に声が漏れかけた。
マシュクールから受けた行為と変わらないはずの動き。
なのに、嫌悪感がまるでない・・・むしろ俺は。
ようやく唇が解放されて大きく呼吸を再開した瞬間、耳へ飛び込んでくる掠れた声の告白。
「ピエール・・・お前が好きだ」
心臓が大きく跳ね上がる。
愛しげに自分の名を口にする友の声。
記憶に蘇るキリマンジャロの香り。
「俺も・・・」
無意識のうちに言いかけて、ハッと息を呑む。
俺の肩を押さえつけて、せつなそうに見つめてくるアドルフの瞳が一瞬揺らめいた。
次々と鮮明に呼び起されてゆく、学生時代の思い出。
ずっと奥底へ沈めて、厳重に封印をしておいた筈の、夏の日の残像。
甘くて苦い・・・あの日、友の部屋で感じた、やや湿った夕暮れどきの風が、ゆっくりと脳裏へ流れ込んでくる。

俺もだ・・・アドルフ。

熱っぽく見下ろしてくる淡いブルーの、まっすぐな視線の強さを間近に感じながら、額や頬を撫でてゆく、ひんやりとした長い髪の細い束に、おずおずと指を伸ばす。
柔らかい触り心地が気持ちよく、緩やかなウェーブにクルクルと指先を絡ませては、艶やかなその感触を楽しんだ。
好きだ・・・何度も繰り返すその熱心な告白を聞きながら、唇に、首筋に、胸に、腹にと、彼の接吻を受けとめて、吐き出される湿った息の熱さに神経が剥き出しにされてゆく。
乾いたシーツの感触と清潔なその香りと、とっくに熱くなっていた己の身体の性感のギャップがもどかしく感じた。
意外に筋肉質なその広い背中へ両腕を回し、キスだけでは物足りないと文句を言うと、友の瞳に戸惑いが滲んだ。
そして自分から彼に何度も接吻し、立ち上がりかけていた彼の中心へ指を絡ませて上下に擦りあげると、自分のものへも長い指が絡みつき、その感触に胸が躍った。
まだ足りないとさらに強請れば、目の前の美しい顔は馴染み深い苦笑を漏らしつつ身じろぎ、ついにねっとりとした口腔へ己のものが包まれて、急激に襲いくる沸騰しそうな快感に全身が震えた。
後ろへはけして触れてくれぬその誠実が、却って寂しいのだとさえ確かに感じたあの日。
それでも求められれば、恐怖で萎縮し、ひと悶着ののちに結局受け入れ、あとから延々と罵倒し続けた光景が容易に目に浮かぶ。
昔から変わらぬ意地っ張りな性分と彼を振りまわすその身勝手さに、今となっては呆れずにいられない。
下腹部で蠢く冷たくて心地よい手触りの金髪を指にからませて、ついにやって来た射精の快感に、声を上げながら俺は大きく仰け反った・・・。
じっとりと湿って乱れたシーツに仰向けのまま横たわり、呼吸を整える。
ようやく落ち着いてきた頃、目の前に自分を見下ろす友の顔が再び現れた。
髪を振り乱し、額や鼻梁に汗を滴らせても尚、浮世離れしている美しさを湛えたその微笑。
満ち足りた表情を見せる薄い唇が、十分に濡れている理由を思い、急激な羞恥に襲われた。
俺は彼を突き飛ばし、アドルフが呼びとめるのも聞かず、散らばった服を腕の中に掻き集めて、裸のまま彼の部屋を出て行った。


ピエール、好きだ・・・お前は?
俺もだ・・・アドルフ。

 

俺は自分で自分の記憶に鍵をかけていた。

 

「嘘だろ・・・」
アドルフが弾かれたように性急な動きを止めると、まるでストップモーションを見ているような状態で瞬きもせず、じっと俺の目を覗きこんできた。
何かを確かめようとしている・・・・。
「お前・・・もしかして」
彼の声が震えていた。
「なあアドルフ、冗談はやめろよ。・・・そうだよ、な?」
心にもないことを言っている。
自覚はちゃんとあった。
俺も彼がずっと好きだった。
「今度は、冗談・・・か」
不意に身体が軽くなった。
アドルフが力なく笑い、身を引いて、その手を放してくれた。
だがそんな彼の優しさが、俺には却って痛かった。
彼は自分の欲だけで、俺に無理強いはしない。
今も昔も。
そして俺はすべてを正しく理解した。
この20年あまり。
俺が罪もない男をレイプ未遂犯呼ばわりしていたこと。
そのくせ彼から、どうして俺が離れられなかったのかという本当の理由。
友情のようでそうじゃない、似た者同士が恋い焦がれ合っていた結びつき。
この関係が壊れる気がして互いに一歩も踏み出せず、だからこそ20年以上も繋がっていられた俺とアドルフ。
危うい距離感が居心地よくて。
そこにある真相を、俺は直視できなかった。
彼は少なくとも、俺の気持を確かめてから事を運ぼうとした。
誘っていたのはむしろ俺のほうだ。
もちろん、怪しげな薬を使ったことは倫理に反する。
それでも、あのとき彼に好きだと伝え、欲しいと感じた気持は、今思い出しても嘘じゃない。
薬の効果が消えて、突然冷静になった俺は、恥ずかしさから一度は逃げた。
けれど今なら、ひょっとしたら俺は・・・。
少なくとも、さっきは嫌じゃなかった。
「あれだけのことをされたんだ。お前にはマルセルやマシュクールを訴える権利がある」
再び淡々とした口調でアドルフが話を戻した。
たしかにあの二人がしたことは、俺にとってもアドルフや彼の少年達のことを考えても腹立たしい。
だが、警察や司法へ訴えるということは、あの場で商売をしていたアドルフを危険に晒すことを意味していた。
無論、加担した俺もなんらかの罪に問われる可能性があるだろう。
そんなことはできない。
たとえ自分がどうなったとしても、アドルフをこれ以上傷つけてやりたくはないというのが正直なところだ。
「いや、もういいさ。それよりお前はこれからどうするつもりなんだ? マルセルは2度もお前を裏切った」
それだけが今はどうしても許せない。
「べつに構わん。マルセルのことは十分締めあげたし、もともとただのビジネスパートナーだ」
さきほど聞かせてくれた話は、どうやら事前に本人の口から白状させた内容で、その場で自らいくらかの報復もしたようだった。
細く見えるが、裏街道を歩く者の嗜みとして、アドルフも若い時分からそれなりに腕っ節が強い。
しかし、俺に好きだと言い、マルセルの裏切りも気にしていないと切り捨てる割に、アドルフの目は、やはりどこか寂しそうに見えた。
きりりとした胸の痛みと、込み上げてくる苛立ち。
その正体もわかってみると、非常に馬鹿馬鹿しく、アドルフも自分も哀れで情けなかった。
いや、個人的な嫉妬心はこの際考えまい。
強がったところで、結局本当はアドルフもマルセルが好きだったのだろう。
それが恋なのか、あるいは自分がミノリを思うような親心なのかはともかくとして。
「馬鹿だな」
「お前には言われたくない」
とりあえず、自分の気持ちだけははっきりとした。
「いいや、馬鹿だよ・・・俺もお前も」
そして何かを言い返そうとこちらを振りむいた、整いすぎているその顔の薄い唇を、今度こそ自分から奪い取る。
殆ど感情を表にださない、その淡いブルーの瞳が、驚きに丸くなったのを確かめた後、俺は満ち足りた気分でアドルフの車を降り、のんびりと徒歩で家路へ向かった。



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