蚤の市で賑わうモントルイユの広場を眺めながら、俺は何本目かのジタンに火をつける。
月が変わって6月半ば。
この1カ月、マルセルは俺達の前からまた姿を眩ましていた。
マシュクールはあれからまもなく、誘拐と殺人容疑で逮捕された。
レオンブリュムの邸からは、この数カ月、行方不明になっていた少年達のものと思われる死体が多数発見されて、フランスじゅうを恐怖へ陥れた。
彼らは地下室に監禁されていて、故障したボイラーの修理でマシュクール邸に入った技師が異臭に気付き、すぐに警察へ通報した。
この世の悪夢のようなマシュクール邸の惨劇が次々と明るみにされ、例のタブロイド紙が断じたとおり、彼は名実ともに現代の青髭ジルの肩書を自分のものとしたのだ。
かつてダクール少将とともにフチ族を救おうとし、見殺しの汚名を着せられてキガンダ人達に殺されたダクールのために、盟友の潔白を訴えつづけたマシュクール。
その彼が罪もない子供達を邸の地下室で凌辱し、死体を切り刻んでいた・・・運命の皮肉さまでもが青髭そっくりだ。
少なくともダクールへの思いは本物だっただろうし、俺も彼の言っていたことが間違っていたとは少しも思わない。
どこで何が、マシュクールを狂わせたのだろうか。
ヴェリテ現代美術館の白壁から背中を起こした俺は、足元へ煙草を落とすと、待ち人を視界に認めて、半分ぐらいの長さになっていた吸い殻を、靴の裏で踏み潰した。
黒いプジョーのトランクから80号ぐらいの作品を下ろした彼は、レオン・ゴモン通り沿いに建つ美術館の通用口へ向かって、軽快に階段をかけ上ってくる。
時刻は午前9時55分。
受付開始時間の5分前だ。
「元気そうだな」
後ろから声をかけてやると、男はあからさまに目を丸くして、動揺した顔を見せてくれた。
腹立たしいほど可愛らしい。
「や・・・やあ、ピエール」
俺や、あるいはアドルフが待ち伏せていることの想像がつかなかったとでもいうのだろうか。
それとも、彼にしては珍しく野暮ったい黒ぶち眼鏡と野球帽という、お粗末な変装が見破られない自信があったのだろうか。
俺から間合いをとるように、じっとマルセルは距離を保ったまま、前へも後ろへも動こうとはしない。
一方的に俺の方から距離を詰めるとマルセルの手から素早く絵を奪い、迷わずその梱包に手を掛けた。
念入りに保護された包みや掛け紐を力任せに次々と剥ぎとり、マルセルの絵を陽光の下で露わにする。
彼はそうされることの予想がついていたとでも言うように、黙って俺の自由にさせていた。
だが、これ以上俺が彼の作品に手を掛けるようであれば、いつでも人を呼ぶぞという警戒心だけは見せており、彼の視線は俺と背後の監視カメラとの間を行き来する。
ひょっとしたら、すでにガードマンがこちらへ向かっているかもしれない。
「さすが贋作ビジネスをアドルフへ持ちかけただけのことはあるな。見事なサル真似だ」
ダンボールやクッション材、クラフト紙をビリビリに引き裂かれたその下から、分厚い額縁に収められた油絵が現れる。
マルセルの作品は実に見事な力作だった。
そして間違いなく盗作だ。
「なんの話だい? この絵は元々僕の発想だよ。ミノリが真似をしただけだろ」
何も言っていないのに、ミノリが同じ構図の絵を出品することを知っていると、マルセルは自分から告白した。
「ほう、興味深いな。どういうことか教えてもおうか」
「妖精とグリフォン・・・左右を反転させ、妖精を天使に、足元のグリフォンを白鳥に変えることによって、モデルを白鳥の化身に見立てる・・・・僕がシルヴァンを目にした瞬間に閃いたアイディアさ」
「妖精やレダではなく、天使か・・・・」
リラの花冠を頭に載せた金髪のマシュクールの愛人、シルヴァン青年は、なるほど羽根こそ生えていないが、天使のような神々しさを全身に纏っていた。
元絵となったモローの幻想的な世界観はそのまま、さすがにミノリが称えるだけのことはある優美な作風と、印象的な色彩感覚や繊細なコントラストも素晴らしい。
だが、ミノリですら騏一郎から感じ取って無意識に再現し、シルヴァン本人にもそれなりの色気があったにも拘わらず、どうやらそういうものはマルセルの感性にはまったく響かなかったせいだろうか、この人物を見てゼウスに誘惑されたレダを連想する気にはなれない・・・強いて言うなら、そこが大きな違いだろうか。
個人的には面白みに欠ける気がするが、それだけに、ひたすら気高く美しい作品になっていると言える。
これではアドルフが心を奪われるのも無理はないだろうか。
確かにマルセルの高い実力は認めざるを得ない。
しかし、彼はアドルフとミノリという、俺にとって大事な二人の友人をまとめて傷つけた。
それだけで十分断罪に値する。
「あなたがここにいるということは、ミノリはもう搬入を済ませたのかな?」
「いや、まだだ」
コンクールの搬入は今日が初日だった。
マルセルが盗作をしたことを証明する為にも、ミノリに朝一の搬入を俺は勧めた。
だが、ミノリはアドルフの仕事の締め切りを優先させるために、今日の搬入を諦めたのだ。
「あたしはマルセルを信じてるよ。それにもしもマルセルが先に同じモチーフで搬入して、彼の作品が認められたのなら、それは彼の実力ってことだよ」
ミノリはそうとさえ言った。
俺はアドルフに仕事の締め切りを1日か、せめて半日伸ばすように頼んだが、ビジネスに冷徹な彼はそれを許さなかった。
だから、これは俺の勝手な行動だった。
そして事実を知ったマルセルの顔が、見る見る勝ち誇っていくのを俺は醒めた気持で見ていた。
愛らしくも醜悪な笑顔だ。
「それなら僕の勝ちだよ。いや、仮にミノリが先に搬入を済ませていたとしても、僕の絵を見れば彼女より勝っていることは一目瞭然な筈さ。所詮あんな東洋の小汚い留学生が、僕に勝てるわけがないんだよ。あなただってこの絵を見ればわかるでしょう? どっちがオリジナルかなんて、この際関係ないと思わないかい? 結局は『上手く描いた』方が勝ちってことなんだよ」
上手く立ちまわった方の勝ち・・・・俺にはそう言っているように聞こえた。
そうなのかも知れない。
己を正しく理解し、チャンスを巧みに利用して、高い実力を証明した者が勝ち上がり、敗者は食いつぶされてゆく。
それが競争というものだろう。
芸術は上手く表現した方が評価され、コンクールなら評価を多く得られたものが賞を獲る。
マルセルの言う通りだ。
「そうなんだろうな・・・俺にお前を止めることはできないんだろうよ」
たぶんマルセルの絵は大きな評価を得るのだろう。
だが、俺は知っている。
彼がミノリを、アドルフをどんなふうに利用し、欺いたかを。
それを暴くのも俺の勝手だ。
「だったらそこをどいてくれよ。これ以上僕を侮辱すると、人を呼ぶぞ」
そう言ってマルセルは梱包を半分ほど破かれた絵を俺から奪い返し、通用口へ向かって歩こうとした。
「お前が絵を搬入するのは勝手だ」
俺は建物の中へ入っていく彼の背中に呼びかけた。
マルセルは振り向こうとはしない。
「だが、お前がその絵を搬入したあとで、俺は審査員へこの写真を提出するぞ」
マルセルは足を止めて振り向いた。
俺はミノリがルシュディーから預かっていたスナップ写真を彼に向けて掲げてやる。
最初は首を捻っていた彼の顔が、俺が写真を持って近づくに連れ、見る見る表情が強張っていった。
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