『La boheme, la boheme <<quatre>>』

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(プロローグ 1)

醜悪なるもの。それはカフェ。
ギュスターヴ・モロー美術館でサロメを鑑賞し、立ち寄ったカフェでエスプレッソを飲みながら、ユイスマンスに耽る。
途中で入って来た騒々しい観光客に邪魔をされることほど、腹立たしいものはない。
醜悪なるもの。それはカフェ。
リラの木立に夢想し、甘い香りに恍惚となる。
通りすがりのビジネスマンが、足元に吸殻を落としていくことほど、腹立たしいものはない。
醜悪なるもの。それは子供。
理性の対極にあり、協調性がなく、対話に困難する。
醜悪なるもの。それは子供。
育てる方も、育てられる方も苦労しかない。
互いの幸せのために、子供は作るべきではない。
醜悪なるもの。それは女。
権利を主張し義務を放棄する。
理屈を理解しない生物である。
醜悪なるもの。それは女。
毒々しい仮面を身につけて、不快な匂いと騒音をまき散らす社会の公害。
醜悪なるもの。それは女。
すなわちあれは、醜悪そのものである。
俗物なる者たちよ。
私は君たちを軽蔑する。

ルブール「俗悪」(『ジュルナル・ド・パリ』6月号寄稿文)


(プロローグ 2)

「あれは現実だ」
つるっとした陶器のシンクの縁に掌をつくと、壁面に張りつけた鏡を覗きこみ、己へ言い聞かせるように呟いた。
換気の為に、わざと細く開けてある、磨りガラスの窓からは、少し湿った冷たい風が吹き込む。
見下ろすフォントネーの静かな街並みは、まだ夜明け前の薄闇に包まれているようだ。
素足にざらつく床敷きの感触が心地悪く、青白い爪先を見下ろして、スリッパを履き忘れたことを思い出し、さらに遅れて自分が裸で洗面所に立っていることにも気が付いた。
もう一度鏡へ視線を戻し、すっかり血の気が失せている顔を凝視する。
そして、不測の事態に見舞われた自分が、今、どれほど動揺しているかを思い知る。
エミール・ド・リラダンは両方の掌で、己の頬を強く張った。
そして何度か深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着けると、寝室へ引き返す。
階下の部屋から、時計の鐘が一つ聞こえた。
時刻は午前5時半・・・夜明けまで30分もないだろう。
6時半にはダミアンが食事を作りに来る筈だ・・・それまでにベッドの物を何とかしなければならない。
僅かに温もりが残っている部屋へ戻り、中途半端に開けたままにしてあった扉の隙間を閉め切って、電気スタンドのシェードの向きを変える。
書き物机へ対角線上に乗せられている、スポーティーなデザインの少年らしい鞄。
無造作に置かれていた重いそれを手に取って、仔細に中身を確認した。
メッシーヌ・ベルシー大学の美術学者が著わした、象徴派絵画の教科書と、同じ学者が編集した、副読本らしきカラー装丁の美術書、そしてモローとサロメについての講義内容が纏めてあり、ところどころにアンダーラインが引かれている、十数葉のルーズリーフ、持ち主の身分を明らかにする、顔写真入りの学生証・・・どこからどう見ても、メッシーヌ・ベルシー大学で美術史を学ぶ学生の鞄だ。
ナイロン地の仕切りで分けられた、大きめのポケットには、いくつかの彼のプライベートが見て取れる。
ルブールのペンネームでエミールがコラムを発表した、大衆誌、『ジュルナル・ド・パリ』の今月号と、寮のものらしき真鍮の鍵、そして2種類の錠剤が数粒程度入っている、水色のピルケース。
さらに、鞄の底へ沈んでいた塊を手にして、エミールは小さく息を呑んだ。
「これは・・・」
薄い色合いをしたプラスティック製の小さな機械には微かな見覚えがあり、コードで繋がれた先にある、折りたたまれた分厚いベルト部分に気がついて、それがすぐに血圧測定器だとわかった。
一緒に入っていた錠剤は、恐らく降圧剤・・・つまり、年若くほっそりとした容姿のこれらの持ち主は、その年代にそぐわない持病があり、狭心症や心筋梗塞などの二次リスクがあった事は、わかっていたはずなのだ。
エミールは電子血圧計を握りしめると、それをひと思いに床へ叩きつけた。
掛かり付けの病院が彼に持たせていたのか、自分で購入したものなのかはわからないが、アジア製の安っぽいその機械は、カーペットを敷いた床で角を覆う樹脂が粉砕し、小さな螺子と細かな破片がそれぞれ、木製の机の足や彼の脛に当たって跳ね返っていた。
破片を踏まないように気を付けて、エミールはベッドまで歩く。
乱れたままのシーツに埋もれるようにして、静かに横たわる少年は、僅かに瞼を見開いた状態で沈黙していた。
白い肉体には、生々しい情事の痕。
一瞬の快楽を得るために、危険を冒した目の前の死体に、とても憤りを覚えずにはいられない。
いや・・・・寧ろ、その危険性を予測できなかった己の軽率さを責めるべきだろう。
彼に何らかの疾患があったことは、承知していた筈なのだ・・・それが、よもや性行為によって死に至るものとは思わなかった、などというのは、ただの言い訳に過ぎない。
今ごろ悔やんでも、とりかえしがつかない失敗だ。
突如として射し込んだ強い光にエミールは、きつく目を瞑る。
続いて開いた掌で光を遮断し、それがカーテンの隙間から侵入してきた、朝日のせいだとわかった。
こうしてはいられない。
少年の背中と膝の裏に手を差し入れて、エミールは彼の身体を浴室へ運ぼうとした。

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