「本当に死体だったんだってば!」
目の前にいる少女は、興奮した調子で小さな拳をリビングの机にぶつけた。
白いソーサーに載せられたカップは、波立たせたキリマンジャロを僅かに溢れさせ、微妙なバランスで陶器に載せられていた銀製のスプーンが、甲高い音を放って机へ落ちた。
「行儀の悪い娘だな・・・食器の音を立ててはいけないと、日本の御両親から習わなかったのか?」
腕を伸ばしてチェストの上からティッシュを1枚抜き取ると、未だに拳を握りしめたままでいる、少女の目の前でヒラヒラとさせてみた。
しかし2秒経っても受け取ってもらえる気配がなかったため、諦めて腰を上げ、マホガニー材に落ちた茶色い水滴を自分で拭う。
そして繊細な細工が施してある銀スプーンの持ち手に埋め込まれた石が、自分の手元にある物とは違う事に、今更気が付く。
この日本人の物は、おそらく柔らかい色調の翡翠であり、自分のスプーンには深い色合いのラピスラズリが入っていて、記憶にあるかぎり、最近の1か月は、ここへ来る度に、俺、ピエール・ラスネールがこの家の家主から出されるキリマンジャロのカップへ、必ず添えられているスプーンと同じものだった。
さらに、自分のカップのすぐ近くへ出されている、燻銀の灰皿にも、同じようなラピスラズリがふたつ入っている。
モントルイユの蚤の市で手に入れたという、名もなき芸術家の傑作なのだと絶賛し、ここの家主はえらくお気に入りの様子だが、当の本人は煙草を吸わない。
「その家の男の人が呼びに来て、男の人が席を外したときに、あたし触ってみたんだよ。だって、いくら眠っているからって、本当に全然動かないんだもん、変じゃない。そしたら、男の人の手が冷たくてさ・・・」
「ちょっと待て、ミノリ・・・今、話に3回ほど男の人が出て来たのだが、それは全て別人なのか・・・・」
話の進め方が、極めて明瞭さに欠ける、この日本人少女に、俺は登場人物設定を再確認した。
彼女、河上ミノリ(かわかみ みのり)は、少女といっても年齢は22歳で、今年結婚した娘のアリーヌと同い年の成人した女なのだが、外見も話し方も、とてもそうとは信じられないほど、幼い印象を与える天才画家だった。
すなわち、この家の家主であり、俺とは大学以来の腐れ縁である、インチキギャラリー、『フルニレズ』のオーナーであるところの、アドルフ・フルニレと契約を結ぶ、プロのアーティストである。
今から2か月ほど前のこと、ルーヴル美術館のダリュ階段に座り込み、フランスの宝、サモトラケのニケ像をそっちのけにして、来場者ばかりを熱心にデッサンしていたミノリの才能を見出だし、当時は浮浪者同然だった彼女へ職業斡旋をしてやったのが、この俺なのだが、・・・それが今では、少しばかり良心の呵責の種にもなっている。
なんといっても、ここはインチキギャラリーなのだ・・・。
『フルニレズ』が取り扱っている絵画は、どれも素晴らしくハイクオリティな作品ばかり。
それはアーティストも取り扱う責任者も、徹底した職人気質を持っているせいだろう。
フランス印象派や象徴派を中心とした、素晴らしい名画の数々が、この家にあるギャラリーの3フロアを使って展示されているが、残念ながら一見さんは入室できない。
所蔵品は贋作ばかりなのだから、それも当然だ。
これらの絵画は今のところ、主に、アドルフが本業で知り合った、彼が個人情報を性癖に至るまで入手済みの、地位も名誉も欲しいままにしている紳士達へ、売却されている。
ところが、購入した客の方は、こうしたゴッホやルノワール、セザンヌといった贋作を、喜んで会社のロビーや自宅の応接間へ飾って、新たな注文さえしてくるというのだから、呆れたものだ・・・いや、お互いが幸せなら、それでいいのかもしれないが。
その贋作を手掛けているのが、ここにいる日本人の少女というわけだ。
以前は、このビジネスをアドルフへ持ちかけた張本人である、マルセル・ランドリューという美大生が描いていたが、諸事情あって、彼は現在逃亡中である。
二度と帰ってくるなと、呪っている。
さて、ミノリはというと、先日、モントルイユのヴェリテ現代美術館で開催された、絵画コンクールで見事に優勝を手にし、副賞であったルノーに乗って、念願の写生旅行に出掛けるような暇もなく、彼女の元へはフルニレズの仕事以外にも、注文が殺到している状態らしい。
つまり、件の死体とは、そちらの個人的な仕事で訪問した屋敷において、遭遇したらしいのだが・・・・、もう少し話を聞く必要があるだろう。
ひとまず俺は、登場人物をそれぞれ、Aさん、Bさん、Cさんと命名して、もう一度ミノリに説明をさせた。
「だからさ〜・・・リラダンさん・・・じゃない、Aさんが・・・」
途端に、ミノリが苛々としだしたので、俺は助け舟を出してやった。
「クライアントとの契約上、特に問題がないようなら、実名報告でいいんだぞ」
その後ミノリは、一人だけどうしても名前がわからない人がいるし、さらにもう一人は本名かどうか不明だから、この場合はリラダンさん、リラダンさんの弟さん、Cさんでいいのかと確認された。
そして時間をかけて、なんとか全容を聞きだしたのだが、要約するとこういうことだ。
イル・ド・フランスに住む、ド・リラダンなる裕福な青年より、弟の肖像画を描いてほしいという依頼を受けて、ミノリは単身フォントネーへ向かった。
仕事はなぜか、コンクールで優勝して以来、ミノリーのマネージャー業を始めたらしい、アドルフを窓口として請け負ったのだそうだが、・・・そこは深くは追求しないことにする。
要するに、アドルフという野郎は、金の匂いに敏感で、不労所得の天才ということだ。
話を戻す。
さて、丘の上の緑豊かで豪奢な屋敷へ招かれたミノリが、画材を片手にとある部屋へ入ってみると、被写体となるべき主の弟が、ベッドで横たわったまま少しも動かない。
リラダン氏曰く、弟は不治の病で寝たきりだが、構わずに描いてくれという。
しかし、使用人・・・これがどうやら、ミノリが言うところの、名前がわからない「Cさん」らしいのだが、そのCさんが呼びに来てリラダン氏が部屋からいなくなった隙に、ミノリが被写体に触れてみたところ、皮膚は冷たく、脈はなかった・・・そういうことらしかった。
「なるほど、な・・・。お前が呼び方に頭を悩ませて、話を中断させたほどの、その出来事における、”Cさん”の重要性が、俺にはまったくわからないままなのだが・・・、それはともかくとして、お前はそもそも、リラダン氏の弟の脈を、正確に探してみたのか? 彼が強烈な冷え症だったという可能性もあるぞ」
どの程度リラダン氏が席を外したのかにもよるが、果たして目の前に、生きているか死んでいるかが、不明な人物がいたとして、その家の住人の目を盗みながら、身体に触れるだけでも、それなりに勇気が必要だろう。
そもそも、“生死が不明”なのである。
つまり、本人も目を覚ます可能性さえある状況で、脈に触れる・・・つまりある程度の時間、果たして冷静な精神状態で、その人物の手首などに触っていられるものだろうか。
「本当に死んでいたんだってば!」
ミノリは先ほどと同じ言葉を繰り返した。
そして、再び小枝のような手首を振りおろし、マホガニーの机を拳で叩いて、翡翠の銀製スプーンを散らかした。
「いいかげんにしろ、モンブランが落ち着かないでウロウロしているだろう、可哀相に・・・」
「よお。ステファヌは一体なんだって・・・?」
白いペルシャ猫、モンブランを抱えて部屋へ入って来た、黒装束の男に、俺は声をかけた。
「ああ、とりあえず寮へ行ってみるとさ・・・、ミノリ、ここを片づけろ。いや、いい・・・俺がやる。お前はモンブランを抱えてろ」
「うん。・・・ステファヌって誰だっけ・・・?」
ペルシャ猫を預かりながら、ミノリが俺に聞いてきた。
「ああ、ステファヌ・ゾラってのは、メッシーヌ・ベルシーに通うアドルフのスタッフで・・・・って、職種は違っても、お前の同僚だろうが。なんで俺が説明をしてるんだよ」
「そんなこと言っても、あたしは一介の絵描きで、オーナーの怪しい仕事仲間のことは、よくわかんないんだよ・・・・ふうん、男の子達の一人なんだ。で、その子がどうかしたの?」
オーナーとはアドルフのことであり、つまりアドルフは、自分が金を出して雇っている絵描きの小娘に、たった今不審人物扱いをされたわけだが、たいして気にしてはいないようだった。
テーブルからカップを片付けると、流し台から固く絞った濡れ布巾を持ってきて、アドルフは丁寧にテーブルを拭い始める。
こういう仕事を、アドルフはけっしてミノリにはさせなかった。
どちらの仕事という問題ではなく、単純に向き不向きが理由であり、何度かミノリのアパルトマンへ行って、その惨状をよく知っている俺には、ごく自然なことのように思えた。
「1個違いの兄貴が、このところ音信不通にしているらしい。心配だから様子を見て来てくれと、田舎のお袋さんが言ってきたが、電話をしても出てくれないのだそうだ」
「へえ。ステファヌのお兄さんって、何してるの? やっぱり、怪しい仕事?」
モンブランの肉球を指で押しながらミノリが質問する。
「お前、俺やアドルフがらみだと、全員犯罪者だと思ってないか? 自覚がないようだから言っておくが、お前もすでに、立派な犯罪の片棒を担いでいるんだぞ。・・・ステファヌと同じでメッシーヌ・ベルシーの学生だよ。といっても、学部は確か、違うんだよな」
正直に言うと、俺もステファヌのことはあまり知らない。
ここで何度か、顔を合わせたことはあるが、いずれの機会も、挨拶程度の会話で終わっていた。
外見は、いかにもアドルフが好みそうな、華奢で可愛らしい美少年だが、ステファヌは大人しい雰囲気の少年で、悪く言えば地味であり、たとえばマルセルのような、活発で小悪魔的なタイプとは対極にあるイメージだった。
逆に言えば、なぜああいうバイトをしているのか、わからないスタッフの一人である。
アドルフのところには、ごくたまに、そういうホストがいるのだが、おそらく各自、事情があってのことであろうし、門外漢の俺が首を突っ込むことでもないので、とくに話題にしたこともない。
「ああ。兄貴の方は美術史学科で、ステファヌは国文学専攻だ。・・・机を動かすから、カップを持ってくれ」
「ああ、悪い・・・お前、何も今そこまで・・・」
「放っておくと染みになる」
呆れる俺の前でアドルフは机を50センチ程動かすと、その場に跪き、スプレー式の洗剤を吹き付けて、カーペットの染み抜きに着手した。
汚し主はソファに胡坐をかき、モンブランの手足を動かして遊んでいる。
モンブランはニャアとも鳴かずにされるがままだが、気難しい顔で眉間に皺を寄せているところを見ると、まず快いとは思っていないようだった。
「・・・とりあえず、早いところ連絡をつけて、お袋さんが安心できるといいな。しかし、パリに出て来た大学生の息子が、1か月や2か月連絡を寄越さないからと言って、そこまで心配するもんだろうかと、俺は思うのだが」
自分が大学に通っていた頃は、半年や1年、しょっちゅう音信不通にしていて、帰る度に親父やお袋から説教されたものだった。
しかし、それも積み重なるうちに、寧ろ用もないのに連絡をしたほうが、却って心配をされるようになる。
1年ぶりに帰った実家で金を盗み、それがバレて親父からボコボコに殴られたこともあった。
叩き出されるようにしてパリへ戻ってみると、鞄の底に一万フランを入れた、銀行の封筒が忍ばせてあった。
『こんどは、3にんで帰てくんだよ』
学のないお袋が書いた、間違いだらけの手紙の文字を見て、俺は一晩じゅう声を出して泣いた。
そして保険に入っていなかった俺達は、その金をアリーヌの出産費用に充てたのだ。
借金は結局、返していない。
十年、二十年の月日が流れ、一度も孫や息子の嫁の顔を見ることもなく、お袋は他界した。
その後を追うようにして、ちょうど1年後に親父も逝った。
最後まで親不孝しかしなかった俺は、今になって初めて、親父から殴られたことさえも、ひとつの幸せだったのだと、思えるようになった。
俺は特別馬鹿だったし、今でも親父やお袋に顔向けできる人生じゃない。
しかし、男なんて所詮そんなものだろう。
若い間に散々バカをやらかして、親に叱られ、あるとき後悔して、初めて反省する。
まあ、ステファヌの兄貴がどこで何をやっているのかは、知らないが。
「ステファヌと同じで真面目な青年らしいぞ」
アドルフが言った。
「ふうん。やっぱり怪しい仕事なんだ」
自分も怪しい仕事をしている自覚がないミノリが、一人で頷き納得する。

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