「いや、バイトはしていない。仕送りの範囲内でやりくりしていると聞いている」
「ほう。じゃあステファヌはどうして、お前のところで怪しい仕事をしているんだ?」
「兄貴は寮にいるから、金がかからないんだろう。最初はステファヌもそうしていたが、半年前に寮を出たらしい。俺のところへ来たのも、ちょうどそのぐらいだったかな・・・。それでは、なぜステフファヌが、自分で家賃や生活費を稼ぎながら一人暮らしをしているのかまでは俺に聞かないでくれ。いろいろと、思うところがあるのだろう。・・・ところで話を戻すが、俺はミノリの話を信じていいと思うぞ」
机を元に戻し、洗剤とコーヒーを沁み込ませて、独特の匂いを放っている雑巾を手にしながらアドルフは立ち上がると、そう言って俺を見下ろした。
シルクのような光沢がある素材のシャツを胸元まではだけて、ピッタリとしたレザーのパンツに長い脚を包み、気怠そうな青白い顔と、襟足でルーズに纏めた、薄金色の柔らかい長めの髪。
手にしている雑巾が、似合わないことこの上ないアドルフを見上げて、俺は聞き返す。
「俺やお前が、怪しい男だという話か?」
「俺とお前が、怪しい関係だという意味なら、否定せん。しかし、ここはもう少し話を遡って、被写体の死体まで記憶を戻してくれ。俺が親父の葬儀に出たときの記憶から言わせてもらうと、ただ寝ている人間と生命活動を止めた人間とでは、一見して明らかに印象が違う。見間違えるとは思えない」
「誰も俺とお前の関係の話なんて、していないだろう。さらりと話を捏造するな、このペテン師め。・・・つまり、リラダンだっけか? そのブルジョワ野郎だか領主さまだかの弟は、実際に死んでいたと?」
ミノリは、死体の肖像画を描いてくれと、頼まれたいうのだろうか。
何のために?
「いや、それも違うだろうな・・・ミノリ、そいつは野郎と似ていたか?」
アドルフは聞いた。
「おじさんとなんて似てないよ。髪も茶色だったし、たぶん、あたしよりも若いと思う」
ミノリは俺を見てから言った。
「ちげーだろ・・・・、その領主さまと似てんのかって話で・・・・・って、おい・・・お前よりも若いって、まさか未成年か!?」
俺はミノリへ突っ込みながら、途中で思わず、前のめりになる。
「たぶんね。うーん・・・・目瞑ってたから、リラダンさんと似てたかどうかっていうのは、よくわかんないけど・・・・少なくとも、おじさんよりは似てると思うよ」
「いや、だから俺から離れろと・・・」
「そのリラダンって野郎は、何歳ぐらいだ」
「それなんだよね・・・見た目はおじさんより少し若いぐらいだけど・・・」
「おいおい、それなら下手すりゃ弟どころか、息子か甥っ子だろう」
俺もアドルフも、中年の領域に足を突っ込んで久しい。
「見た目って話になると、お前は多少若く見えんこともないからな・・・となると、野郎は30前後から半ばってところだろう。なるほど、たしかに10代の少年が弟という説明は、かなり苦しいな」
そう言うと、途端にアドルフがニヤニヤと笑い始めた。
「まさかと思うが、お前のお仲間か・・・」
アドルフはゲイだ。
「仲間・・・? イル・ド・フランスに友達など持った覚えはないが、そいつと死体の坊やは、恋人か何かなんだろうな・・・。だからといって、わざわざ遺体の肖像画を絵描きに描かせる理由はわからないが、少なくとも、ただの年が離れた兄弟という関係よりは、はるかに理解がしやすいんじゃないのか。ところでミノリ、その少年はいつ亡くなったんだ」
「先週って言ってた」
「遺体の状態は」
「すごく綺麗だったよ。だからそれも嘘かも。6月だっていうのに、臭くなってもいないなんて信じられないよね。それと甘い匂いがしてた」
ミノリはモンブランの尻尾を毟りながら言った。
「少なくとも5日前か・・・エンバーミングすれば可能かもな。・・・ミノリ、やめてやれ」
少し考え込むような顔で言った後、アドルフはミノリに注意した。
「ちょっと待て・・・俺は両親のもジュスティーヌの葬儀にも、出てないからわからないんだが、通常エンバーミングすれば、どの程度遺体の保存が効くものなんだ? ・・・それと甘い匂いってのは、一体何だ?」
「費用により千差万別だが、親父のときに頼んだ業者の説明だと10日から2週間ぐらいは大丈夫だと言っていた」
即座にアドルフが答えてくれたが、匂いについての説明はなかった。
エンバーミングとは、関係ないということだろうか。
「うそっ、そんなに保つの!? っていうか、そんなに保たせてどうするの? ・・・ああ、匂いは、よくある香水みたいな、いい匂いだったよ」
結局ミノリが教えてくれた。
「どうって、そりゃお前・・・葬儀となると、場合によっては遠方から親戚が来るかも知れないし、最近じゃあパリも、墓地不足が深刻だからな。法律上では6日以内に埋葬が義務付けられているが、そうそうすぐに見つかるとも限らんだろう。っていうか、日本はどうなんだよ。・・・それと、要するにそれは、香水の匂いじゃないのか? ほら、アドルフもつけてるだろう、甘ったるいやつ。お前だって、年頃の女なんだから、たまには香水ぐらい、つけてみてもいいんだぞ?」
「オーナーが付けてるような、むわっと来るようなやつじゃないよ。もっと青臭い感じっていうか、爽やかっていうか、とにかく綺麗でいい匂いだった。・・・うーん・・・エンバーミングという技術があることは知っているけど、ほとんど日本では普及してないよ。っていうか必要性を感じない。だってすぐに骨になっちゃうし」
相変わらずの酷い説明だったが、要するにフルーツか花の匂いということなのだろう。
あるいは、その領主さまがつけていた、シトラス系かフローラル系の香水だったのかもしれない。
ちなみにミノリのお気に召さなかったらしいアドルフの香水は、昔のハリウッド女優が、寝るときにパジャマ代わりにつけていた、というエピソードを持つ、世界的に有名な銘柄だ。
俺には寧ろ、この香水を知らない日本人女性がいることのほうが、驚きだった。
なお、アドルフが使っているのは、女物のパルファムである。
「爽やかでも、綺麗でもなくて申し訳ないが、べつにお前を口説く為につけているわけではないし、そもそもお前に香りのなんたるかが、わかるとも思えんから、お前ごときの批評など聞くに値しないとすら言いきれるのだが。・・・そういえば、日本は火葬が一般的だったな」
「うん。ごく僅かに、風習として土葬が残っているところもあるらしいけどね」
「フランスでも最近じゃ、4人にひとりは火葬だって言うしな・・・ところでアドルフ、実は今ちょっとだけ、傷付いていただろ?」
ミノリにお気に入りの香水をこき下ろされて、反論する声がわずかに高かったのを、俺は聞き逃さなかったが、俺の揶揄は聞き流された。
「保存期間についてだが、メンテナンスさえ継続させれば、レーニン像のように半永久的な維持も可能だ。また、可能性論にはなるが、何もエンバーミングに限らず、遺体が生前の姿そのままで残されている例だってある。たとえばパレルモのカプチン派修道会に眠るロザリア・ロンバルドやルルドの聖ベルナデッタの御遺体がそうだ」
「極論を言えばそうなるな・・・しかし、あれはあくまで奇蹟だろう」
聖ベルナデッタはマリア様によりお告げを託された聖女であり、パレルモの少女も厳格な修道会の茶色いフードを着ているから、あるいは信仰心の顕れだったと考えることもできる。
「ああ、無論その通りだし、だから俺も可能性の話だと前置きしている。不良三昧やり尽くしたお前が、キリスト教的奇蹟を持ち出すとは思わなかったがな・・・いや、ちょっと待て。俺の持論はさておいて、聖痕や復活、腐敗しない死体といった超常現象が、キリスト教関連には実際に沢山あって、それを否定する気はないし、今、それを議論するつもりもないんだ。つまり話を纏めると、イル・ド・フランスの屋敷に住む推定30代前半から半ばの領主は、弟と称する限りなく他人に近い10代の少年の遺体を、何らかの目的でエンバーミングさせ、腕の立つ画家に肖像画を注文したと」
「怪しさ満点だねぇ」
「そうだな。・・・だが、アドルフ・・・さっきの発言は聞き捨てならないぞ」
奇蹟の否定を認めるわけにはいかない。
「ああ、わかってる」
アドルフはいかにも面倒くさそうに応じた。
彼にしては珍しく、俺の目を見ずに・・・。
「何なに? さっきの腐敗しない遺体っていう話のこと? よくは知らないけど、あれって死蝋化ってやつなんでしょ? 湿潤と低温で無菌状態に保たれて、体内脂肪が変質し、蝋状、またはチーズ状になるっていう。だから女の人が多いんだって、テレビで言ってるのを聞いたよ。確かに奇跡的な現象だよねぇ。・・・って、あれ? おじさんどうしたの? なんだか目が潤んでるような・・・、いつもよりずっと綺麗に見える・・・やっぱり青い目っていいなあ。ほっぺも薔薇色になってるし・・・羨ましいよ」
「ミノリ、そろそろ勘弁してやれ。こいつはこう見えて、実は意外と敬虔なクリスチャンなんだ」

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