昼前に一旦仕事を切りあげると、俺はその足でモンマルトルのアパルトマンへ向かい、そこでミノリを拾って、セーヌを渡った。
「いきなり押し掛けてきて、何なの?」
ミノリが非難するような声で聞いてくる。
俺がアパルトマンへ訪問したとき、彼女は件の肖像画にひと区切りをつけたところだったらしく、タイミングとしてはちょうどよかった筈だが、まさにペイントナイフを置いたばかりの見た目は、酷い有様だった。
まず、あちこち擦り切れて絵具の汚れだらけになっている、不潔なTシャツを着替えさせ、石鹸をつけて手を洗わせて、少々匂う頭はこの際我慢するとして、髪にブラシを入れさせて、俺の車に放り込む。
その間にも、腹が減っただの昨夜から何も食べていないし、水も飲んでいないだのと、さんざん文句を言っていた。
つまり飢えているらしい。
よほど夢中になって、絵にとりかかっていたのだろう。
車はロワイヤル橋からバック通りへ入った。
目指すべき場所は、もうすぐそこだ。
「このあとで何でも好きなものを食わせてやるから、少しだけ付き合え。・・・見えて来たぞ。あの教会だ」
俺はデパートのショーウィンドウ前でメルセデスを駐車すると、ミノリを降ろし、向かいにある建物を指した。
外観からはそれとわからないほど、シンプルで殺風景とさえ言って良い、4階建ての壁面。
アーチ型の扉の上にある、3階の高さに聖母子像を見つけられなければ、気付かず通り過ぎてしまいそうなほど、その教会は都会の裏通りの景色に馴染んでいた。
開放されている黒い扉から中庭へ入ると、100メートルほどの通路が続く。
左側の壁には聖母子像とともに、石板の美しいレリーフが飾ってあり、足元の小さな植え込みには満開のアイリスが咲いていた。
レリーフの内容は、この教会のシンボルとも言える、神秘のメダイに纏わる伝説と教会の歴史の物語だ。
右側には閉め切った幾つかの窓と、ガラスケースに収められた掲示板の催事の告知、そして営業中の小さな販売所があり、奥にはまさにパリの奇蹟の舞台となった、ここの礼拝堂がある。
ミノリの手を引っ張り、俺はまっすぐその礼拝堂を目指した。
「おじさん、なんでそんなに急いでるの? っていうか、突然、教会なんかに連れて来て、一体どういう・・・」
「説明は中でするから、とにかく急いでくれ。最近のお前は、少しばかりアドルフに毒されてきているからな・・・。今更言う事でもないが、俺はお前をあんな男のところへ預けちまった事を、ちょっと後悔しているんだ。このままでは、間違った方向へ進み続けて、アドルフみたいに捻くれた人間になっちまうだろう。今からでも正しい生き方を知るべきだ。ここで神の愛に触れ、神の子であることを知れ。生あらんかぎり神を愛し、人を愛するんだ。俺がお前に、本当の愛を教えてやる・・・さあ、来・・・」
その時、突然凄い勢いで手を振り払われた。
身長150センチそこそこの小さな身体に、よくそれだけの力があったものだと、感心するほどの。
「ば、ばばばばばばっかじゃないのっ・・・!!?」
ミノリは拳を強く握りしめ、声を震わせながら高い声で叫んだ。
「おい、ミノリ・・・?」
通りすがりの信者達が、全員ミノリを見て、次に俺を見る。
足を止め、一体何事かと興味を持ち、訝しげに目を細めて俺を観察しながら、シスターを呼ぶべきか、或いは通りの警官を呼んで来るべきかと思案している者が、そのうちの80パーセントほど・・・。
そりゃあ、そうだろう。
中年の男と、片やどう見ても家族以外の若い娘。
場所が教会でなければ、即刻俺が取り押さえられていても、不思議はない。
とりあえず、ミノリを黙らせなければ・・・。
「やだよ、触らないでっ! 冗談じゃないっての!」
騒ぎが大きくなりそうだった。
「こら、落ち着け・・・何をそんな・・・真っ赤になって・・・」
何名かの野次馬が動き出した先は、それぞれ礼拝堂と、バック通り・・・1分以内に警官が見つからないことを祈る俺。
1分経過したら、教会から一旦退去だ。
「あた、あた、あたし、おじさんのこと、そんな風に見られないから〜っ・・・、思ってたよりいい人だったけど、年が離れすぎてるし、だいたいおじさんにはオーナーが・・・」
「だから、大声出すなって・・・、っていうか、なぜそこでアドルフが出て来る・・・」
その後、遂に暴れ始めたミノリを押さえ付けようとしては、まるで夏の虫でも振り払うように手や腕を叩き捲られ、宥めようとしては、聞く耳をもたないミノリが、さらに高く叫ぶ始末で、俺達はすっかり人だかりに囲まれていた。
中には、「いい年して、いい加減にしとけよ」だの、「あやかりたいねぇ〜」だのと、俺達の関係を誤解しているというよりは、明らかに揶揄っているのであろう、野次を飛ばしている男もいた。
そして。
「お静かになさい!」
遂に販売所から顔を出したシスターの、静かではあるが緊張感を持った叱責によって、漸くミノリが口を噤む。
さらにその場で、俺達がこんこんと説教を食らったことは、言うまでもないが、まあ通りへ出て行った信者が連れて来た警官へ、事情を説明させられるよりは、よほどましだった。
そうなると、事情聴取で済まなくなっただろうし、ミノリに至っては国外退去を言い渡された可能性が高い。
シスターの名前はリドヴィナと言って、後にフランクフルトからやってきたと教えてくれた。
俺達は中庭で5分程説教をされた後、静かにしていることを条件に礼拝堂へ入ることを許された。
ミノリがここへ来るのが初めてで、聖カタリナを見せてやりたいのだと告げると。
「そろそろお昼休みで、あまり時間もありませんから、よろしければ・・・」
そう言って、シスター・リドヴィナは、自らガイド役を買って出てくれた。
この教会は午後1時で一旦門が閉まり、今日は行事か何かで、午後は一般人に開放されない。
俺が急いでいた理由はそれだった。
礼拝堂には、まだ20名ほどの信者が残っていた。
十字を切って中へ入り、まっすぐに祭壇へ近づいてゆく。
白い丸天井で、窓から沢山の外光が取り入れられた堂内は、とても明るい雰囲気で、正面奥の壁に、聖母マリアの傍に跪く聖女カタリナと、お二人を取り囲む天使達の美しい絵画が描かれている。
それは、一見すると絵本の絵かと思うほど、明るく可愛らしい印象のものだ。
礼拝堂全体が、落ち着いた中にも、華やかさに満ち溢れているのは、恐らく、この空色と金色を基調にした、大きな壁画のお陰なのだろう。
ミノリは暫く立ち止って、その絵を見上げていた。
「付いていらっしゃい」
シスター・リドヴィナはそう声をかけると、ミノリの手を取って祭壇の右側へと導いていく。
そこには地球儀を手に持つマリア像があり、足元のガラスケースの中で、手を合わせ、静かに横たわっているシスターがいる。
「彼女が、シスター・カタリナよ」
シスター・リドヴィナがそう告げたとき、ミノリは目を見開いて、一瞬強く息を呑んだ。
俺も御遺体の前で十字を切ると、目にするたびに驚愕と感動を覚えずにはいられない、偉大なる奇蹟の前で、暫くの沈黙を守る。
カタリナがこの世に生を受けたのは、19世紀初頭。
農家の娘として18歳までそこで育ち、貧しいながらも信仰心を強く持って、5キロ先の教会で祈りを捧げる毎日だった。
その後、修道女になりたいという願いとは裏腹に、ウェイトレスとして5年間をパリで働き、23歳になって、漸く愛徳姉妹修道会から入会志願者として認められたのだ。
奇蹟が起きたのは、それから半年後のこと。
1830年7月、夜中に突然強い光を見たカタリナは、美しい少年に導かれながら聖堂へ赴くと、祭壇前には貴婦人が座しており、そこで7月革命の予言を聞いた。
さらに11月。
夕方の黙想中に、再びカタリナは聖母の御出現を受け、「無原罪の聖マリア、御身により頼み奉る我等のために祈り給え」という文字を、その周りに見た。
「この通りにメダイを作ってもらいなさい。そして、そのメダイを身につける人は、必ずや大きな恵みを受けることでしょう。信頼をもって身につける人には、一層豊かな恵みに満ち溢れることでしょう」
そう言い残して聖母が姿を消すと、忽ち絵は反転し、今度はカタリナの目の前にメダイの裏側が現れたのだ。
それはマリア様を表す大きな「M」の文字に横棒が架かり、その上には十字架が乗っている。
Mの文字の下には二つの心臓があり、それは茨に囲まれたイエスの聖心と、剣で貫かれたマリアの御心だった。
さらに12の星が全体を取り巻いている。
そのようにして、幻視は終了した。
御出現から2年後、カタリナの幻視を元にデザインされたメダイが、大司教の認可のもとに200個生産された。
それを配ると、伝染病に冒された人々が回復していき、神から背いて生きていた人々が、信仰を取り戻していったと伝えられた。
次第にこの教会のメダイは、その為の祈りとともに広く普及し、聖母マリアの御出現から5年後の1835年には、150万枚ものメダイがヨーロッパ中に広がって、多くの人々へ恵みをもたらした。
聖女カタリナは1876年12月に天へ召された。
そして死後56年が経過して、さらなる奇蹟が起きたのだ。
御遺体が発掘されたとき、そのお身体は元のままであり、聖母を見た目は青い瞳孔さえ残していたという・・・。
その聖女カタリナが、俺の目の前で、まるで眠っているようにしか見えず、安らな表情で手を合わせられている、このお方なのだ。
「ああ、どこかで見たマークだと思ったら・・・」
不意にミノリが、俺の胸元をさしてそう言った。
しまったと思い、咄嗟にシャツの襟を止めたが、もう遅かった。
中央にクリアな色合いのブルーアパタイトが入っている燻銀のクロスと、その陰に隠れるようにしてチェーンに垂らしている、女の小指の爪ほどの大きさの、小さな銀製のメダイ。
クロスとは違った意味で、こちらも硫化銀が発生し、すっかり黒く変色してしまっているが、それは紛れもなくこの教会のものだった。
「お二人には必ず、神の恵みが訪れることでしょう」
そう言ってシスター・リドヴィナが手を合わせてくれた。



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