「可愛いデザインだよね」
小さなメダイを指先で摘まみながら、ミノリはそう呟いた。
礼拝堂でシスター・リドヴィナと別れた後、売店へ立ち寄り、そこでミノリはメダイのネックレスとピンク色のビーズが可愛らしいロザリオを購入した。
精算をしていると、他の客の対応をしていた、日本人らしき初老のシスターが、俺たちに気が付いて、少しだけ待ってほしいと声をかけてきた。
その後シスターは、わざわざ俺達のところまで挨拶に来てくれて、そこから日本人のミノリのために、仕事の手を止めて5分程も話をしてくれたのだそうだ。
会話は日本語だったので、俺にはさっぱりわからなかったが、どうやら絵を勉強しに来たというミノリの滞在目的や、入国早々の彼女の身の上に起きた辛い出来事を聞いてくれ、さらに少しだけ日本の話をした後に、メダイや教会についても話し、最後に、ミノリのために祈ってくれたのだという。
この出来事は、それなりにミノリへ感動を与えていたようで、何よりだった。
教会を出てバック通りへ戻ると、車へは戻らずに、俺達はそのままバビロンヌ通り付近まで歩いてきて、交差点に建っているカフェへ入った。
テーブルへ案内されて、漸く腰を落ち着けた頃には、既に1時半を過ぎていたのだが、教会の扉を出てから、注文したランチメニューが目の前に現れるまでの間、絶えずミノリが、腹が減ったと騒ぎ続けていたことは言うまでもないだろう。
2階の席へ案内されて、メニューを開くなり、ギャルソンが魚料理のコースがお勧めだと言って、ミノリもそれでいいと言うからすぐに2人前を注文し、ミノリにはオレンジジュースを、俺は水を別に頼んだ。
10分程で冷たいジャガイモのスープが運ばれてきて、続いてグレープフルーツジュレのドレッシングをかけた、茹で海老とアボカドのサラダがやってくる。
メインの皿は、ローズマリーを載せて、バターソースで味付けをした鰈のムニエルに、色鮮やかで香りの良いサフランライスという、見た目も美しい一品。
これらに、焼きたてのバゲットとコーヒー、そしてデザートが付いて90フランというお手軽な内容のコースだった。
しかし途中でミノリが、勝手に鯖とオレンジのマリネを注文して厨房を混乱させ、結局メインのあとで運ばれてきたそれを、一人で完食していた。
そういえば、昨夜から何も食べていないと言っていたから、量が足りなかったのかと思えば、一向に籠のバゲットへは手を付けないので、理由を聞いてみると、ご飯とパンを一緒に食べるのは変だという答えが返ってきた。
コースの途中で、アラカルトメニューを追加注文する不作法には無頓着のくせに、譲ることができない、食への拘りというものが、一応、本人なりにあるらしかった。
・・・とまあ、カフェにしてはしっかりとしたボリュームの昼飯を終えて、テーブルには食後のコーヒーと、デザートのチェリータルトが運ばれていた。
甘ったるい菓子は苦手なもので、俺はそれをパスし、煙草に火をつけた。
まだコーヒーに手をつけていないミノリは、ケーキを半分ほど食べたところで、テーブルに肘を突き、オレンジジュースのストローを口に咥えて動かしながら遊び始めている。
ストローを取り上げて止めさせると、今度は紙袋から買ってきたネックレスを取りだして、真新しいアルミのメダイを指先で摘まみながら、しげしげと眺めた。
「言っておくが、それはアクセサリーやお守りじゃないんだぞ」
「はいはい、わかってるよ。なんだっけ・・・信仰心をもって身につけるんだよね。信仰心って言ってもなぁ・・・あたし、日本人だし、キリスト教徒じゃないし。よくわかんないよ」
どうやらシスターに聞いた話を思い出しながら、ミノリは言っているらしかった。
正直に言えば、この場合に信仰心という改まった単語の選択は、少し違うという気がした。
シスターの言葉は日本語でミノリへ伝えられ、ミノリの理解の上で、俺の前で再現されているから、あるいはどこかで食い違ったのかもしれないし、そのままだったのかもしれない。
さらに、日本人のミノリやシスターと、フランス人の俺とでは、育ってきた環境も宗教観も違って当然だし、俺はずっと身近に教会があり、信仰がある生活を自然なものとして受け入れており、大部分のフランス人がそうだろう。
だが、同じフランス人でもアドルフはまた違う・・・なぜ、アドルフがあれほどシニカルにキリスト教を捉えているのかは、俺にはわからない。
俺やアドルフ、そしてミノリも、宗教へのスタンスはそれぞれに違って当然だし、何をどの程度受け入れられるのか、どこからは抵抗があるのかという境界線も、また違って当然だろう。
もちろん、ずっと信仰を持って生きてきた俺が、けして誉められた人間じゃないどころか、アドルフの言葉を借りれば、不良三昧やり尽くした碌でなしだっていうことも、わかっている。
それでも、俺はミノリに、自分なりの考えを・・・それは、本当にシンプルであり、単純なことだが、忘れないでいて欲しい、愛の尊さというものを伝えたかった。
「まず、信仰に国籍や民族は関係ないぞ。それにメダイを身に付けることに、信者であるなしも関係ない。要は信じて身に付けていればいいんだ。・・・ほら、子供のような気持ちで、素直になるんだよ。そうすれば、神は必ず祝福してくださる筈さ。神様は人間を愛していらっしゃる。だから俺達も神を愛し、自分を愛するように人を愛する。人を愛することを実践するには、まず身近な人から愛し・・・っと、こういうことを言うと、また変な誤解を招きそうだな。つまり、国に居る御両親やお前の友達、世話になった先生・・・そんな人から愛していけ。身近な人を愛していれば、きっと愛がわかってくる。それが大きな愛に繋がっていく。人にすることは、神に対してすることだと思え。エゴを捨てて、世の人々に奉仕することが大事・・・って、おいこら、聞いてるのか!」
「だって、コーヒーが冷めちゃうよ。おじさんも煙草ばっかり吸ってないで、さっさと飲みなよ。淹れてくれた人が悲しむじゃん。それってつまり、神様を悲しませるってことなんでしょ?」
ミノリはそう言って、コーヒーカップに砂糖をいれると、ぐるぐると掻き混ぜてから、半分ほど飲み乾した。
「ううむ・・・ああ、ええと・・・そうだな・・・」
「だめじゃん」
最後はなぜか俺が説教される羽目になったが、とりあえず俺の話は、ミノリなりの解釈の仕方で、ひとまず理解されたようなので、それで良しとした。
俺も黙って、温くなったコーヒーを全部飲み乾す。
給仕がミノリのケーキ皿と、空いたグラスを下げて、ついでにコーヒーのお替りを注いでから立ち去って後に、ミノリが再び口を開いた。
「おじさんは、そのメダイを身に付けて、何かいいことがあった?」
最初は絡まれているのかと思ったが、聞きながらメダイを指先で弄ぶミノリのこげ茶色の丸い瞳は、邪気のない子供のようだった。
「そうだな・・・あったよ。いいこと」
そう俺が応えると。
「なになに、教えて!」
ミノリの顔がパッと輝き、好奇心に溢れた少女らしさで、自分の興味を今すぐに満足させろと、俺に要求してきた。
「駄目だ。人に言うようなことじゃないからな。・・・だが、俺にとっては何よりも尊く、命にも代えがたい、とても大切な宝物を手にできた」
同時にお袋の深い愛情を感じ、さらに大きな自己嫌悪で、何年も苦しみもがき続けた。
遂にはこの手で目の前の愛をぶち壊し、娘と同じぐらいに愛した女を永遠に失った。
そして俺はとうとう、神の愛を疑った。
今でもなぜ、ジュスティーヌが死ななければならなかったのか、俺はわからない。
俺のような碌でなしが未だにのうのうと生き永らえているのに、ジュスティーヌは死んだ。
神が本当に存在するならば、この理不尽の答えを、どうか俺に示してほしい。
ミノリに愛を説きながら、俺はジュスティーヌのことを思う時、もっとも尊い神の愛を疑っている。
そしてこんなことを思っている傲慢な俺が、敬虔なクリスチャンである筈などないのだ。
俺にミノリを説教する資格も、あるわけがない。
「なんとなくわかったよ・・・・よし、あたしも信じてみる。パリに来て、最初はさんざんだと思っていたあたしが、なんとか絵を描いていられるのも、ひょっとしたら神様のお導きってやつなのかもしれないね。それでも、あたしには神様なんかよりも、おじさんやオーナーの方が、うんと身近で、信じやすい存在なんだけど。こんなあたしが、少しは優しい気持ちでいれられるようになったのは、きっと神さまを信じている、おじさんのお陰なのかもしれないね」
そう言うと、ミノリはニコニコと笑って見せた。
その笑顔に、出口の見つからない闇を彷徨いかけていた俺は、救いの手を差し伸べられたような気持ちがした。
そして。
「ひとつ説教しとかんと、いかんな。再三言っていることだが、俺はともかくアドルフをあまり信用するんじゃないぞ。あいつは信仰心の欠片もない、本物の悪人だからな」
ここだけはどうしても譲れなかった。
2時間ほどでバック通りを後にして、モンマルトルにあるミノリのアパルトマンへ戻る途中のこと。
リヴォリ大通りに面した交差点で、長い信号待ちをしていた俺は、赤いテントの店構えを背にして、通りへ向けられた木製の椅子に座っている、黒いサングラスをかけた若い女に気が付いた。
鮮やかな金色の癖がない髪を肩に垂らし、早くもノースリーブの白いワンピース姿で、まだ日焼けをしていない、ほっそりとした白い膝頭を交差させている姿は、それだけでも充分に人目を引きつけている。
女は昼下がりの明るい日差しの下で、綺麗な指を2本ピンと立てて、火の点いた煙草をそこに挟みながら、ゆっくりと辺りへ視線を巡らしているように見えた。
俺は運転席側のウィンドウを下ろし、それに気が付いたようなタイミングで、女が椅子から立ち上がる。
「アリーヌ!」
初夏の生温かい風や都会の雑踏とともに、突如として車内へ飛び込んできた、聞き慣れぬ男の声。
そして俺は偶然、街の中で見かけた自分の娘に対し、声をかけるチャンスを失っていた。
「おじさん、信号変わってるよ」
「あ、・・・ああ」
怪訝な顔をして助手席から俺を見ているミノリに、曖昧な返事をし、早く前を開けろと急き立ててくる、真後ろのプジョーのクラクションに舌を打ち鳴らしながら、俺はブレーキからアクセルペダルへ足を置き換えた。
サイドミラーに、一瞬だけ見えたカフェテラスの席には、ひと組の男女の姿。
アリーヌに声をかけていた男を思い返し、俺は胸騒ぎを覚える。
明るい栗色をした癖のある無造作な髪型に、色あせたジーンズと白いTシャツを合わせた、だらしのない恰好のその男は、先ごろ国政選挙に当選した上院議員であり、娘の夫であるジョリス・ド・カッセルとは似ても似つかない人物のように、俺には見えた。



 07

欧州モノ:『La boheme, la boheme』シリーズへ戻る