事実関係を確認する機会は、偶然にもその夜に娘から架かってきた電話で訪れた。
「まったく、父さんったら・・・見ていたんならどうして声をかけてくれなかったのよ!」
最初は奥歯に物が挟まったような俺の話しぶりに疑問を投げかけ、引き続いて俺が見た一部始終を聞きだし、自分へかけられていたその疑惑に対する回答を、理路整然と説明してみせ、ひとしきり笑い飛ばしたあとで、父親から不倫を疑われたことに気が付いたアリーヌは、やや声に不機嫌を滲ませながらそう言った。
相手の男は、彼女の夫、ジョリスの実の兄であるティエリ・デュルタルという名前の人物であった。
二人が会っていた背景には正当な理由があり、当然ジョリスも承知の上であり、さらに言えば、その機会を与えたのは、他ならぬジョリス本人だったようだ。
言うまでもなく、俺の心配は杞憂ということである。
兄弟でありながら、姓が違う事情にも、それなりの経緯があるようだった。
ちなみに自分の娘が、ド・カッセル家の長男に嫁いだわけではなかったということや、ジョリスに兄弟がいたということも、俺はこのとき初めて知った。
「こっちも信号待ちの最中だったからな・・・。お前、ボランティア活動なんてさせられているのか?」
アリーヌが言うには、どうやらそのボランティアへの協力を求めるために、デュルタルという男を、ジョリスに紹介してもらったようなのだ。
アリーヌは少し強い語調で、俺の言葉を訂正する。
「させられているんじゃなくて、しているのよ。・・・そう、車の中からというなら、仕方ないわね。今はまだ、お義母様の手伝いをさせて頂いているだけなんだけれどね。11区のアパルトマン辺りを中心に、一人住まいのお年寄りの御宅を訪ねて、食事や掃除、お買い物をしたり、家に籠りがちな方のお話し相手になったり、お散歩に連れ出したりといったようなことよ。有志の方達が集まってグループを組み、お仕事や家事の合間のそれぞれが出来る時間に、そういう活動をして頂いているの。私は皆さんのスケジュールを管理したり、入浴介助の指導をさせて頂いているわ」
11区ということは、ド・カッセル邸の近所であり、ジョリス・ド・カッセルの選挙区でもある。
「大変なことじゃないか。入浴介助なんていつ覚えたんだ」
「ずっと昔よ。父さんが知らないだけ」
「そうなのか」
その言葉は少しだけ突き放したように聞こえ、俺の追及を拒んでいるようにも感じられて、軽いショックを覚えた。
22歳の娘の”昔”に、大した年月はない筈だが、俺がジュスティーヌと別れて、アリーヌがジョリスと結婚するまでの間の日々を指していることは、間違いないだろう。
アリーヌは話を続けた。
「ところが、悲しいことに、訪問したお宅で孤独死を発見することも、中にはあるのよ・・・。そういうときのマニュアルは一応あるんだけれど、当然ケースバイケースになるし、必ずしも訪問スタッフが正しい判断をできるとは限らない。人命救助の観点から御遺体に近づく担当者が殆どだし、そうなると、場合によってはウィルス感染のリスクに皆さんが晒されることになる。だから、最低限の知識を彼女たちに徹底させた方がいいという話をジョリスとしたいたら、だったらティエリがエンバーマーだから、相談してみたらどうかと言ってくれたのよ」
「つまり、ド・カッセル家の人間が、エンバーマーなんて仕事をしているのか?」
その話は多少奇妙な印象を俺に与えた。
元伯爵家出身の伝統ある家門であり、親子とも上院議員という、いかにも体面を気にしそうな家柄の息子が、死体を相手にする仕事をしている・・・ド・カッセル家のお上品な方々は、それを許しているのだろうか。
そこで俺は、そのティエリという名のジョリスの兄が、違う姓を名乗っていることや、わざわざジョリスがその男を、アリーヌに紹介した事実・・・つまり、世帯を別にしているということを、今一度思い返し、アリーヌが口を開くより前に、質問を追加した。
「ジョリスの兄貴は、ひょっとして勘当でもされてるのか?」
「そうみたいね。でも、ジョリスやお義父様、お義母様の名誉のために言っておくけれど、それはけしてティエリの仕事が原因ということではないわよ。職業差別をするような方達じゃないもの。どちらかというと、もっと根が深い親子の問題が原因みたい・・・私の立場では、それ以上首を突っ込めないから、よくはわからないけれど」
「なるほどな・・・ところが、兄弟の関係は良好ということなんだな」
俺は、自分の記憶に残っている、ジョリスとは似ても似つかぬラフな容貌を思い出し、アリーヌの話にひとまず納得した。
確かに個性の強そうな男ではあった。
「ええ、ジョリスとはしょっちゅう連絡を取り合ったり、会って話したりしているみたいよ」
そう付け加えるアリーヌの声に、否定的な感情は微塵も見受けられない。
だからこそ、心配になってしまうのは、父親の立場としては自然なものだろう。
しつこいと言われようとも。
「なあ、アリーヌ・・・お前、本当に何ともなかったんだろうな・・・。つまりその・・・見たところ、野郎はなんというか、あまり紳士的な男のようには・・・」
「とーうさ〜ん?」
呆れるような、揶揄うような口調で、アリーヌが俺の言葉を遮って来た。
「すまん・・・違うならいいんだ、忘れてくれ」
「まったく心配性なんだから。あのね・・・これは黙っておこうと思ったんだけれど、どうにも疑われたままじゃ、私も気持ちがよくないから言っちゃうけど・・・」
「いや、すまん・・・もう疑ってない、本当に」
「嘘よ、疑ってる。・・・あのね、父さんの心配は絶対にあり得ないことなの。つまり・・・ティエリは女に興味がないのよ」
「なんだと?」
「ゲイだって言っているの」
「その・・・あれか、つまりそれが原因で、体面を気にしたド・カッセル家がジョリスの兄貴を・・・」
「だから、勘当の原因についてはよく知らないって言っているじゃない。・・・まあ、それもあるのかも知れないわね、血筋を絶たせるわけにはいかないでしょうし」
「それは確かなのか? ・・・お前の手前、そう言って油断させているとか、そういう可能性だって・・・」
「あまりしつこいと、いい加減に怒るわよ」
「すまん・・・」
「確かだと思うわ。昼間だって、最近処置をした美しい少年の遺体の肛門から、精液が出て来たなんて話を、それは楽しそうにしてくれたもの。少なくとも普通の男性なら、若い女とカフェでそんな話をすると思う?」
なんてこった・・・よもや我が娘の口から、肛門だの精液だのという単語を聞かされるとは。
「わかった、信じよう。本当にすまなかった・・・」
眩暈を堪えつつ、話を打ち切るつもりで俺は自分の誤解を彼女に謝ったが、アリーヌの話はそこで終わらなかった。
「しかもこの御遺体が、随分とわけありのようでね、依頼主は自分をメメ・シャルリュスだと名乗り、遺体を弟のモレルだとティエリに告げたのだけれど、これがどうにも全然似ていないらしいの。大体、言っていることが本当だとしたら、弟を暴行していたことになるのに、ふざけた話よね。怪しさ満点だわ」
俺はその名前に思わず吹き出した。
「おい、ちょっと待て。それってまさか、小説に出て来る登場人物じゃないのか!?」
シャルリュスはモンテスキュー伯爵をモデルにしたと言われる男爵に付けられた名前で、モレルは彼を夢中にさせる美貌のヴァイオリニスト・・・つまり、同性愛をテーマにした古い小説の登場人達だ。
ついでにこのエンバーマーが名乗っているデュルタルというのも、ユイスマンスが書いた悪魔的な小説の主人公と同じ名前なのだが・・・、これまでは、あるいは母方の姓か何かだと思って聞いていたが、ここにきて、漸く俺は偽名の可能性に気が付いていた。
だとしたら、第一印象で胡散臭い男だと感じた俺の直感が、正しかったということになる。
そもそも、こんな話を若い娘にぺちゃくちゃと喋り倒す時点で、まともな神経の持ち主である筈がない。
「ええ、つまりティエリもそこに気が付いたってわけ。そこで彼は連絡先の電話番号から依頼主の本名が、エミール・ド・リラダンだと調べ出し、その正体がコラムニストのルブールだとわかったらしいのよ」
「ルブールって・・・あの、『ジュルナル・ド・パリ』なんかで、カフェが嫌いだの子供が嫌いだのと、言いたい事を言ってる野郎のことか? ああ、あの野郎なら間違いなくオカマだな。読んでりゃわかる。言ってることがまるで、女の井戸端会議並の憎まれ口だし、文体も女々しいことこの上ない。まったく、日記にでも書いていりゃいいようなレベルの文章で、どうしてあいつはあんなにマスコミからチヤホヤされているんだ?」
このルブールという人物は、2、3年ほど前から新聞や雑誌で名前を見かけるようになったコラムニストで、パリ近郊に住んでいる男という以外はまるで正体不明。
テレビ取材は受け付けず、紙媒体への顔出しも一切なしという徹底振りで、今のところ隠し撮りらしき顔写真すら一枚も見たことはないのだが、噂によると30歳前後のなかなかの美男子らしい。
辛口でシニカルな独自の表現方法と、その神秘性がウケているせいか、最近、やたらと若者たちからカリスマ的な支持をされているのだそうだが・・・、正体を明かさずに不平不満を吐いていれば、ファンが付いてくるとは、嘆かわしい世の中になったものだ。
中には、親衛隊のように振舞っている男子大学生グループもいるらしく、この連中がルブールの邸に出入りをして、本人の身の回りや、夜の世話をしているのだと、ゴシップ専門紙の『ヌーベル・ド・パリ』が書いていたのを読んだことがある・・・・、これだけでもムッシュウ・ルブールは男色家決定でいいだろう。
最近は調子に乗っているルブールが、例の学生グループに自分を教祖と崇めさせ、本人も自分を神だと信じ始めており、パリ近郊の屋敷で毎夜毎夜、黒魔術的な儀式に精を出しては、美少年の信者を裸に剥いて生贄に捧げ、その生き血や精液を啜って、若さを保とうとしているのだという・・・。
まあ、8割以上が嘘とは思うが、とりあえず噂によると胡散臭い野郎であることだけは、確かだ。
そこまで考えて、俺はアリーヌが先ほど教えてくれた、ルブールの本名を、最近どこかで聞いた記憶があることに気が付いた。
「父さんの口の悪さは昔から知っているけれど、差別的な言動は少なくとも娘の前だけでも慎んでちょうだい」
「ん・・・何か言ったか?」
「ルブールをこき下ろす材料を与えたのは、私だから構わないけれど、それに乗じて女を見下すような言い方は・・・」
「そうだ、ルブールだよ! なあ、アリーヌ、その男の住所について、野郎は何か言っていなかったか?」
「住所って・・・さすがにそこまでは。どうしたのよ、いきなり・・・」
「そうか、いくらなんでも明かさないよな」
だが、リラダンという名前に、得体の知れない少年の遺体・・・・それだけで俺は充分に確信していた。
ミノリに遺体の肖像画を依頼した男が、コラムニストのルブールということだ。
不意に受話器から、盛大な溜息が聞こえた。
「何か気になることが、あるっていうことなのよね・・・。だったら、直接ティエリに聞けばいいじゃないの」
呆れたような口調で、アリーヌが提案をしてくれる。
「ティエリって・・・ジョリスの兄貴に聞けっていうのか? 俺は面識もないのに、難しいだろう」
「明日、さっき言ったボランティアの件で、もう一度ティエリと会うことになっているのよ。近いうちに、皆さんの前でティエリにエンバーマーの観点から話をして頂くことになったから、明日は他のスタッフも交えて、その打ち合わせをしたり、当日配る資料の作成をするの。他の人たちは仕事を終えたあとで集まることになるから、終わるのは8時を回ると思うけれど、その後でよかったら8時半ごろに、ルポ通りの教会前に来てちょうだい。きっとティエリを紹介できると思うわ」
かくして、意外な展開により俺は、明日ティエリ・デュルタル・・・つまり、アリーヌの義理の兄にあたる、ド・カッセル家の人間と会う事になったのだ。
「なんだか、悪いな」
「構わないわよ。ティエリのことを話したのは私のほうだもの・・・それに、そこまで父さんが気にするってことは、何か特別な事情があるのよね」
「ちょっとな・・・どうやら俺の身近な奴が、事件に巻き込まれているかも知れないんだ」
ミノリのことをアリーヌに何と話したものか・・・俺は少し迷った。
友達というには、年が離れすぎているし、知り合いというのも他人行儀だ。
だからと言って、面倒を見ている女の子では、却って思わせぶりで、恩着せがましく、だいたい面倒を見ているのは俺ではなく、アドルフであり・・・、そんなことを考えていると。
「そうだったの。だったら早く何とかしてあげないとね」
しかし俺とミノリの関係など気にする様子でもなく、アリーヌはそう言ってくれた。
「ありがとう、アリーヌ。じゃあ、邪魔することになるが明日はそっちへ行くよ。世話をかけるが、ジョリスの兄貴に宜しくな」
「ええ、伝えておくから安心して。・・・それと、父さん」
「ん?」
その後アリーヌは、俺に女性を見下すような発言をしたことを、きっちりと謝罪させてから電話を切った。
いつのまにかアリーヌは、俺が思っていたよりもずっと逞しく、強い女になっていたようだった。
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