それぞれに注文した酒を受け取り、壁際の席まで移動してくると、スツールには座らず、立ったままで俺たちは話を始めていた。
この辺りは照明も少なく、カウンターも壁へ面していて人目に付きにくいせいか、込み入った話をするにはちょうど良さそうな場所と言えた。
「あんたがねぇ・・・」
お互いに注文したグラスを、一口飲んだ辺りで男はしみじみとそう口にする。
その言葉にどういう意味が込められているのかを計りかね、俺は隣の男を僅かに見上げながら振り返った。
彼は聞き慣れないドイツ語の名前が付いたカクテルを傾けながら、俺を真っ直ぐに見ていた。
翻訳すると『鋼と鉄』という意味になるらしいその酒は、ジンと香草酒で作られており、カクテルにしては珍しく苦い味がするのだそうだ。
アリーヌに言われた通り、8時半より少し前にルポ通りに到着した俺は、教会の前で待っていた。
通りで話をするとも思えないし、どこへ連れて行かれるのかもわからなかった為に、車を置いて出て来た俺の勘は正解だったらしく、約束の時間きっちりに教会から出て来たこの男は、メトロでマレ地区まで移動した。
アリーヌが出て来ないので、俺は最初戸惑ったが、話はすべて通っていたらしく、男は自分の身分を明かすと、俺の名前を聞いただけで、促すように目の間の駅の階段を下りて行ったのだ。
「俺がどうかしたのか?」
ビールを傾けながら、俺は男になるべく低い声で聞いた。
さきほどの言葉への質問・・・あるいは、不躾な態度への、細かな非難の気持ちもある。
その男、ティエリ・デュルタルこと、ティエリ・ド・カッセルは、今のところ、俺が受けた第一印象と大差のない人物といえた。
つまり粗野で品がなく、若い女へ肛門や精液の話をしかねない、好ましい感情を覚えるためには、不断の努力を要するような男。
なるほど、伝統あるド・カッセル家の上品な人々が手を焼き、スキャンダルを恐れて勘当するのも無理はない問題人物かもしれない。
むしろ、アリーヌやジョリスが、なぜこの男と友好関係を築いているのかが、俺には不思議なぐらいだ。
「いや・・・ははは。アリーヌの父親というから、どんな男かと思っていたんだが・・・なるほどなぁ、と思ってね」
視線も不快なら、口の利き方もなっていない。
まったく、元貴族だかなんだか知らないが、躾の程が知れている。
いや、子育てや親としての義務に関して、俺が人のことを言えた義理じゃないのはわかっているが、せめて相手の神経を逆撫でしない程度のマナーというものがあるだろうに、どういう教育を受けてきたのだろうか。
「どんな親父を想像していたのかしらないが、碌な男じゃなくて悪かったな」
俺はビールを飲み乾すと、代金を叩きつけて店を出る代わりに、ジーンズの後ろポケットから煙草を取りだし、ライターの火を最大にしてから、1本を口に咥えた。
代金を叩きつけようとしたのは、このビールが今のところ、ティエリの奢りだったからだ。
こんな無礼な若造に奢られるというのも、俺にとっては気分の悪い話だった。
確かにティエリの態度は大概我慢がならなかったが、しかし、ここで神経をブチ切らせて店を出たのでは、何をしていることかわからないし、せっかく橋渡しをしてくれたアリーヌに申し訳が立たない。
俺は心の中で、目の前の男が自分のライターで丸焼きになっている様子を想像することで、一時的に怒りを遣り過ごそうとしてみたが、まだ半分ほどストレスは残っていた。
「べつに悪い意味で言っているんじゃないさ。・・・まあ、あんたが立派な父親じゃないことぐらいは知っているけどね。ライター危ないぜ・・・ほれ」
目の前へ、中ぐらいの大きさで火を点けられたライターを突きだされる。
無視をするのも大人げないので、俺はそちらの火を貰うことにした。
「じゃあ、どういう意味だというんだ。・・・・いや、そんなことはどうでもいい。お前にどんな印象を持ってもらおうと、それは俺の知ったことじゃない。それより、アリーヌから聞いてくれていると思うが、例の話を聞かせてくれないか」
俺は話をさっさと切り上げて、この男と別れる努力をすることにした。
ティエリはレザー・ジャケットの内ポケットから煙草を取り出すと、俺の物に火を点けたライターで、自分の煙草にも点火した。
そして深々と一口吸い込むと、眉間に皺を寄せながら細く煙を吐き出す。
その様子が、映画のワンシーンのように様になっているせいだろうか、ぱっと目につくだけでも、5、6人の客がティエリへ視線を送っていた。
そのティエリはというと、昨日の昼間に見た時は白いTシャツとジーンズという、ラフな装いだったが、今日は黒いライダータイプのジャケットと、アドルフが良く履いているような、ピッタリとしたレザーのパンツを身につけている。
ジャケットの下はどうやら、黒いノースリーブらしく、アクセサリーは太い金のネックレスひとつきりで、広く開いた襟から見える筋肉質な胸の露出を邪魔する飾りは、他にないようだった。
盛り上がった胸には、タトゥーが二つ見えている。
左側には、大地へ突き刺さったサーベルに、虹色の蛇が二匹、互いの身体を絡ませながら巻き付いており、サーベルの柄部分には陰影のあるブラックレター書体で“PRIDE”と刻印されている。
右側は、もっとはっきりとした自己主張であり、男のシンボルマークが2つ重なり合っていた。
凡そ、まともな大人の恰好とは言い難かったが、ここでは寧ろ浮いているのは俺の方だ。
ティエリが俺を連れて来たこの店は、どうやら所謂ところのゲイバーのようで、客の年齢層は幅広かったが、出会いを求める男ばかり。
恰好もそれなりに着飾っていて、ティエリのようにマッチョさをアピールしている者も少なくはない。
俺のような、白シャツとストレートジーンズなどという、素っ気ない服装の男は他に皆無だった。
もっとも、教会の前で浮いていたのは、寧ろティエリの方ではあったのだが。
「俺が言いたかったのは、アリーヌの親父というから、てっきりもっと年取ったオッサンが来るのかと思ったら、思ったよりもずっと若そうでびっくりしたってこと。・・・だって、普通は自分の親父と同年代ぐらいのジジイが来ると思うもんだろう? しかもアリーヌと似てないこともないから、父親だと信じざるを得ないんだよ・・・これは嬉しい驚きってやつさ。そうだな・・・あれだ、この間亡くなったダクール少将に似てるって言われないか? まあ、ずっとアンタの方が若そうに見えるけど」
「まともに話しをする気がないのなら、俺は帰るよ・・・これでも仕事は朝早い方なんでな。こいつは代金だ」
「おいおい、ちょっと待ってくれよ。わかったよ、話せばいいんだろう。・・・まったく、せっかく別嬪なのに、めちゃくちゃ気が短いんだな。アリーヌとは大違いだ。・・・・ルブールの住所でいいんだよな? 伝票にはパリ市内の住所が書かれていたけど、これも電話番号から簡単に調べが付いたよ。イル・ド・フランスのフォントネーにあるクレ・ヴェルト通りだ。まったくふざけてるぜ。あの野郎が書いた住所ときたら、フルーリー・メロジ刑務所だったんだぜ。近い将来、そこに引っ越すつもりで書いたのかっつうの」
「収監されそうなことをやっているという意味か」
「へたすりゃな」
「どういう意味だ」
「遺体の少年から精液が検出されたって話は、アリーヌから聞いてくれているんだよな」
「ああ、よくも人の娘にむかって、少年が同性愛野郎にレイプされてたなんて話を、赤裸々に話してくれたもんだ」
「そりゃ悪かった。そもそも俺はなんでアンタが、そんなことで俺を非難するのか、わからないんだけどな。つまり、肛門から精液が検出されたってのは、男に種付けされたってだけのことだろう。だいたい、俺はアリーヌに、遺体がレイプされたとまでは言っていない筈だぜ」
「・・・違うのか?」
「違うな。遺体が性行為に慣れていない可能性が高いって話をしたから、アリーヌは早合点したんだろうな。野郎と少年が、カップルと呼ぶには年齢差がありすぎる点も含めて、そう思い込んじまったのかも知れないが、だとしたらルブールが気の毒だな。俺の見たところ、強姦殺人の線はないと思うぜ」
「けど、恋人同士なら、その・・・セックスはしていて当然じゃないのか? 何が原因で少年が死に至ったのかはわからないが、少なくとも性行為に慣れていない少年が、そんな痕跡を残して息を引き取るっておいうのは・・・平和的に事が進んだとは思いにくい」
「けれど、ゼロじゃない。俺は検視官じゃないから、死亡原因の特定はできないが、少なくとも致命傷になりそうな傷がなかったのは確かだ。ただし遺体を見る限り、頻繁にセックスをしているようには見えなかった。肛門や直腸粘膜の擦過傷、裂傷・・・いずれも生活反応はあるが、治癒には至っていない」
「それって、つまり・・・」
「死亡寸前の性行為で受けた傷ってことさ・・・相当痛い思いをしたんじゃないか?」
「じゃあ、やっぱりレイプされたってことじゃないか」
「あんたにだって、初体験ぐらいあるだろう? あそこを初めて掘られたとき、痛くなかったか?」
そう言いながらティエリが目を細めて笑った。
「言っておくが、俺はゲイじゃない」
「おや、そうかい。・・・まあ、相手が男でも女でもいいんだが、肛門ってのは粘膜が露出している場所だから、ちゃんと段取りを踏んで行為に及べば快感を得られる。ところが、慣れていないと身体に力が入って、裂傷や擦過傷、それに伴う出血、あるいは切れ痔や、直腸脱、直腸炎などに繋がってしまう。だからそういう雰囲気になりそうだったら、予めあそこを拡張しておいたり、セックス前に温めて柔らかくしたり、挿入時にローションを使って、指1本から徐々に広げていったり、充分に気を遣ってやるもんなんだ。さらに相手がちょっとでも痛がったら、そこで止めてやることも肝心だが、ひょっとしたら、このルブールって野郎も慣れていないのか、あるいは、よほどのエゴイストかのどちらかだろう」
「話が逸れてきてないか?」
俺はアナルセックスの心得を聞くために、ティエリを呼びだしたわけではない。
というか、聞きたくもない。
「要するに、あんたもそういう相手が出てきたときには、せいぜい気を付けろってこった」
「余計なお世話だ」
「人が親切心から話してやっていることには、真摯に耳を傾けておくもんだぜ。・・・つまりだな、残念ながら俺には、少年の死亡原因まではわからない。しかし、少なくとも遺体には暴行と認められるほどの外傷がなく、毒物を使ったような痕跡はない。だとしたら、性行為に伴う突然死だと考えるのが自然だろうな」
「ちょっと待て・・・それってつまり、性交死ってことか? 行為直後に脳梗塞や心不全を起こしたりっていう・・・」
「一番多いのは行為中らしいけどな。何しろ男の場合は、多いときには一気に100以上も血圧が上昇するらしいからね」
「だが、そうなってくると、ますますわからん。お前はなぜさっき、ルブールが殺人犯だなんて言ったんだ?」
「断定した覚えはない。だが、考えても見ろよ。相手は二十歳前後の男の子だぜ。遺体を見たところ、ほっそりとした、まるで少女のような容姿の綺麗な子だった。脂ぎった中年や肥満体型ならともかく、あまり腹上死とは縁がなさそうなイメージだと思わないか? もっとも、なんらかの疾患をもっていた可能性がないとはいえない。だがそういう子なら、行きずりの男とセックスなんて、さすがにしないと思うんだよ」
「行きずりのセックスってのは、どこから来る発想だ」
「恋人の可能性が低くて、レイプじゃないとしたら、そのへんぐらいしかないだろう? だが、その可能性も低いと、俺は言っているんだ。だとしたら、ルブールとこの少年の間には、恋人とまではいかなくても、いくらかの恋情・・・・少なくとも少年の方には、そういう感情があった筈だ。その結果としてのセックスで、合意のもとに行われたのだろう」
「話が見えなくなってきた。それのどこが殺人なんだ」
「合意の下に二人はセックスをした。だが、不幸にも相手が死亡した。・・・・愛があるなら救急車を呼ぶなり、相手の家族に知らせるべきじゃないか? 百歩譲ってルブールが怖気づいた末に隠ぺいを謀ったのだとしよう。その結果、偽名を使って遺体をエンバーミングするってのは、一体どういう神経なんだ」
「ルブールが怪しいっていうのは、なんとなくわかった。だが、そこまで言うなら、なぜお前は警察へ連絡をしない」
「ひょっとしてあんたには、俺が市民の務めを正しく果たす、健全なフランス人に見えるのかい?」
「自覚はあるわけか」
ティエリは快活に笑ってすぐに立ち上がると。
「まあ、なんであんたがこんな事件に首を突っ込もうとしているのかは知らないが、ほどほどにしときなよ。どう考えてもルブールはまともな男じゃない」
「そりゃあまあ、俺だって出来ればそんな変態野郎と、関わり合いにはなりたくはないんだが、そうも言っていられないからさ」
「わかっているだろうが、相手は綺麗な男が好みのゲイだぜ。あんたみたいな別嬪がホイホイ近づくと、それこそ犯されかねない。・・・そっちに興味があるっていうんなら、まあ話は別だが」
「気味の悪い冗談はやめてくれ。・・・たいがいしつこいから、改めてはっきりと言うぞ。俺がゲイのわけがないだろう。お前だって、俺に娘がいることは知っている筈だ。なぜそういう発想になる」
「そんなことは理由にならないからさ。結婚しているゲイなんて腐るほどいるし、子供がいるゲイも珍しくはない。・・・あとから目覚める場合だってあるし、さっきからアンタを狙っている野郎も沢山いるみたいだしな・・・チャンスは腐るほどあるぞ」
「何がチャンスだ、危険の間違いだろう。・・・全く、いい加減にしろ」
俺はうんざりしながら、煙草を深く吸い込み、溜息混じりに煙を思い切り吐き出した。
不意に肩が重くなったと思うと、後ろからティエリが俺の肩を抱きこむようにして、間近に顔を近づけてきた。
俺は焦って顔を逸らしながら、腕を払い落そうとする。
だが。
「なあ、どうせなら俺とやってみないか? ・・・実はこの店の地下がヤリ部屋になっていてさ・・・っと、アドルフじゃねぇか・・・痛てててっ・・・!」
次の瞬間、俺の身体はティエリの腕から引き離されており、俺とティエリの間には、いつのまにかアドルフが立っていた。

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