「こっちに来たのなら、なぜ言ってくれなかった」
そう言ったアドルフの言葉の意味を正しく理解できたのは、実は家に帰ってからだった。
ティエリは、アドルフに捻りあげられた腕を痛そうに押さえながら、俺とアドルフの顔を何度も見比べて、何かを納得したかのようにすぐに帰ってしまった。
そして、元々ティエリが立っていた辺りのスツールを引いて、アドルフがそこに腰掛けると、俺もそれに倣って近くのスツールに座ることにした。
「ティエリと知り合いだったのかよ」
「俺はその名前で呼んではいないが、確かにデュルタルの本名はティエリだったな・・・お前こそ、なぜあいつとここにいる?」
「先にそっちから言えよ」
どうやらアドルフはあまり機嫌がよくなさそうだったが、俺は彼がここへ来た理由を先に説明させることにした。
「ここは見ての通りゲイバーだ。ましてやマレ地区ではかなり有名な店だからな・・・俺がここにいることに対して、そう不思議はないだろう」
「つまり・・・ナンパに来たのかよ」
その瞬間、さきほど俺を揶揄ってきたティエリが言っていた言葉を、思い出していた。

・・・実はこの店の地下が、所謂ヤリ部屋になっていてさ・・・。

アドルフもこんな店で、適当な相手を見つけて、そういうことをしているというのだろうか。
いや・・・、それはべつに、不自然なことでも何でもないことで、少なくとも俺がとやかく言う問題ではない筈だ。
だが・・・なぜか俺には釈然と出来ないものがあった。
「ナンパしに来たわけじゃない・・・そういうことは、最近まったくしていないから誤解しないでくれ」
違うのか。
「じゃあ何しに来たんだよ」
「ここに来る目的は、大抵仕事だ。知っての通り、俺の本業には、俺の性癖が大きく関わっている。スタッフをスカウトに来ることもあれば、営業に来ることもある。・・・まあ、今夜はちょっと違うんだが」
「はっきりしないな」
「・・・気になるのか?」
アドルフはそう言って、薄い色合いの目を意外そうに見開くと、次の瞬間、少しだけ微笑んだように見えた。
「お前が思わせぶりな言い方をしているだけだろう」
「そう聞こえたのならすまなかった。・・・それよりお前こそ、そろそろ教えてくれないか。こっちは気になって仕方がないんだ。なぜここにいる。それもデュルタルと一緒に・・・あいつになぜ、あんな真似をさせていた」
「それこそ、とんだ誤解だ」
俺はティエリ・デュルタルと会っていた理由を、包み隠さずアドルフに説明した。
「なるほど・・・そういう理由だったのか。あいつに口説かれていた説明にはなっていないが、・・・まあ、そこは見逃してやろう」
「おいおい、変な言い方するなよ。あいつは俺の反応を見て遊んでいただけじゃないか・・・っていうか、本当に気分が悪い野郎だったぜ。何なんだあの男は!」
俺のティエリに対する印象は、結局1ミリも改善されないままに終わっていた。
つくづく、どうしてアリーヌがあんな野郎と、仲良くカフェでお茶を飲み、ボランティアの手伝いなどを頼んでいたのか、理解が出来ない。
「お前を口説いていたことは許し難いが、デュルタルはそんなに悪い男じゃないぞ」
「おいおい、お前もかよ! まったくアリーヌといい、ジョリスといい」
「あいつの家族が名門だということは知っていたが、よもやジョリス・ド・カッセルの兄貴だったとはな・・・さすがにそこは、俺も結び付かなかった。世の中は狭いもんだな。・・・だが、デュルタルは弟思いの良い奴だぞ。今の仕事だって、人生の最後の瞬間を飾ってやりたいからやっているんだと・・・そんなことを本気で思っている男だ。俺なんかは、死んだらそれきりで、肉体なんて生ゴミだと思っているし、天国も地獄もないと考える無宗教者だがな・・・だから、そんな顔をするな。お前と議論をする気はないと、前にも言っただろう。勘弁しろ。・・・けどな、デュルタルは違うぞ。あいつは、寧ろお前と同じで真面目なクリスチャンだ。俺としてはクリスチャンとゲイが両立することが不思議で仕方がないが、神父が少年を強姦するような時代だから、俺のような男の方が、頭が固いのかもしれんな。・・・とにかく、お前の話を聞く限り、おそらくデュルタルがそんな犯罪染みた事態を目の当たりにして、警察にも通報しないっていうのは、お前が誤解しているような不道徳や無責任が理由ではなく、ジョリスのためなんだろう」
「ジョリスの・・・?」
「ジョリス・ド・カッセルはすでに有名人だ。それもスキャンダルをもっとも恐れる政治家だろう。自分の存在が何かの拍子に、世間に知られて、ジョリスの名声を傷つけたくはなかったんじゃないのか」
「そんなことが理由で・・・」
「そんなことにまで気を回すような奴だから、家族と絶縁して改姓までしたんだよ、デュルタルは」
意外すぎた。
ちなみにアドルフの話だと、上手くいっているのはあくまでジョリスとだけらしく、両親・・・、とくに父親とはさっぱり絶縁状態らしい。
アリーヌは理由がわからないと言っていたが、アドルフは性的嗜好が原因であり、さらにデュルタルが今の仕事に就いた主な理由である、彼の元恋人との間に起きた出来事が、引き金になっていると言った。
「どんな恋人だったんだ?」
「詳しくは聞いてないが、学生時代に死に別れているようだな」
現在35歳だと言うティエリよりも、さらに一回り以上も年上だったそうで、つまり生きていたら俺達よりも年上ということになるのだが、旅先で海難事故に遭い、生前は美しかったという面影もない状態で対面させられたのだそうだ。
葬儀において、対面を拒む遺族もいたらしい。
それを見てティエリは深く傷つき、エンバーマーを志したのだという。
その話は、ついさきほどまで俺に不愉快な思いばかりをさせていた、ナンパなゲイ野郎の印象とは、あまりにかけ離れて聞こえた。
さらに、彼がエンバーマーの仕事に信念と誇りをもって従事していることがよくわかったし、寧ろその事実をもってして両親と絶縁する理由が、ゲイではない俺にさえ、ますます理解できないほどだった。
「立派なことじゃないか。・・・いったいどうして、御両親は彼に理解を示さないんだ?」
「恋人が女性だったり、あるいは亡くなったのがただの友人だったらな・・・まったく気に病むことはないんだろう。だがデュルタルはその恋人と、リアルな恋愛をしていたし、生前や死後に至ってもなお、自分の人生や哲学を変えてしまうぐらいの、大きな存在だったんだ。その恋人への思いが真剣であればあるほど、それが同性である場合に限って、なかなか家族の理解は得にくいんじゃないのか?」
それはそのまま、おそらくアドルフに跳ね返ってしまう言葉だったのだろうか。
彼の口調はとても真剣なものだった。
「でも、絶縁までしてしまう必要があるのか?」
少なくとも、アドルフはそこまでしていない。
法に背いて生きている、この男であってもだ。
だから父親の葬儀に参列するという、俺でさえ出来なかったことを、アドルフはちゃんとこなしていた。
「そのぐらい、ティエリの神経が細やかということだろう。彼は父親とは険悪だが、お前も知っての通り、弟のことは心の底から可愛がっている。本当に弟の脚を引っ張りたくないんだろうな」
それが理由なのだとしたら、・・・あまりに悲しいだろう。
なのに、今度は俺にも理解できてしまった。
自分の存在が、愛する家族の足手纏いになるとわかれば、身を引くしかない・・・その辛さを、俺はよく知っている。
弟と言えば。
「ところで、ステファヌの兄貴はその後どうなっているんだ?」
俺が尋ねると、アドルフはグラスを傾けながら、視線だけをこちらへ向けた。
そして、半分ほどに減ったビールをカウンターに置いて。
「ああ、進展なしだ」
「寮にいないのか?」
ステファヌが、寮まで兄貴の様子を見に行くと、言っていた筈だった。
「そうらしいな。寮生もここ数日、姿を見ていないと言っているようだ。
大学へも出ていないらしい。
「やれやれだな・・・彼女とのんびり、旅行にでも行っているんじゃないのか?」
「かもな・・・と言いたいところだが、そう悠長なことを言っていられる状況じゃないらしい。どうやら高血圧の持病があって、処方されている薬が、部屋へ置きっぱなしになっているみたいなんだ。携行しているピルケースには、せいぜい1日か2日分しか入らないらしく、本人は既に1週間以上も部屋を空けている」
「そういうことだったのか・・・」
だとすれば、家族やステファヌが大騒ぎするのも納得だ。
「まあ、旅行へ出る予定があって、予め余分に買ったピルケースを携行していて、本人は今頃恋人と仲良く、イビサやシチリアあたりを観光しているということなら、問題ないんだけどな」
そう言いながら、アドルフがスツールから腰を上げる。
「そう願うよ。・・・もう帰るのか?」
「いや、すぐ戻る」
「ああ、トイレか」
そしてアドルフを見送った。
数分後。
「一人かい?」
俺は知らない男に声をかけられた。
「いや違うが・・・」
男は先に帰ったティエリよりもさらに若く、せいぜい20代半ばほどにしか見えなかった。

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