『La boheme, la boheme <<quatre>>』

   <下>

翌日、夕方6時到着の便に乗っていた日本人客をシャンゼリゼ通りのホテルまで運んだ。
いつものように500フランを請求したが、まったくフランス語が通じず、手を焼いている間に、騒ぎに気付いた制服警官が近づいて来て、結局代金そのものを貰い損ねた。
その後、バイロン通りのホテル前で拾った客を、バルザック映画館まで無事に送り届け、5時過ぎに仕事を切り上げると、フルニレズへ向かった。
夕べ、マレ地区のゲイバーで、偶然にアドルフと会った俺は、1時間程の滞在で店を後にしていた。
彼と初めてキスをしたのは、おそらく今から20年以上も前に遡る、大学時代のことだった。
そのときの、記憶はあまり定かではない。
なぜなら、彼の部屋を訪問した俺のキリマンジャロには、怪しげな薬が仕込まれていたからだ。
正常な意識を失った俺を、アドルフは襲おうとした。
そのときに恐らく、彼から好きだと告白もされたが、それ以前からたびたび、思わせぶりなアプローチを受けていて、俺は彼の気持ちに気が付いていながら、一人住まいの彼のアパルトマンを訪問していた筈だ。
その後俺が、ジュスティーヌと結婚したぐらいをきっかけにして、以後、アドルフは様々な恋人と交際をし、その数は20人を下回らないように思う。
ごく短い付き合いの後に別れることもあれば、わりと長続きしていることもあり、どう見ても一夜限りだったと思えるような相手もいた。
中にはただの友達や、本当に宿を貸しているだけの相手もいたのかも知れないが、俺の口からどういう関係なのかと追及するわけにもいかないから、実際のところはよくわからない。
ごく最近の彼の恋人であり、仕事仲間でもあったマルセル・ランドリューという美大生に至っては、フルニレズの金庫から金を盗んで姿を眩ました。
そして、厚顔無恥なことに1ヶ月程で戻って来たと思えば、今度はアドルフと仕事を始めたばかりの、ミノリが描いた絵を盗作して、コンクールに出品しようとしたり、レオンブリュムの殺戮魔をけしかけて俺を襲わせようとしたりと、大暴れだった。
今はどこで何をしているのか、さっぱりわからない。
そして、マルセルの一件をきっかけに、俺はアドルフから初めてまともに思いを告白された。
正直に言えば俺は嬉しかった。
しかし、彼に応えるだけの心の準備が、俺にはなくて、その場ではぐらかし・・・・またアドルフは、この1か月、何事もなかったように振る舞った。
俺も敢えて、その一件には触れずにいた。
これまで20年間・・・俺たちはそうやって、うまくやってきた筈なのだ。
彼の性癖を知りながら、その彼に告白され、性的なアプローチも受け、それでも俺たちはウマの合う旧来の友達として、これまでずっといい感じに付き合っていた。
またそんな関係に戻ればいいだけだと、そう思いかけていたのに。
昨夜のアドルフは、俺たちが守ってきた穏やかな関係性のすべてを、木っ端みじんに壊しにきたのだ。
何の前触れもなく、あれほど激しい口付けを交わし、身体に触れられて彼に縋りつき、いくらゲイバーとは言え、あのような衆人環視の下で快感を高められて精を吐きだし、そしてアドルフも・・・。
「まったく・・・・何をやっているのだか」
思い出すだけで、顔が赤くなり、再び身体に熱が点りそうな気がして、俺は頭から昨夜の記憶を慌てて追い出した。
あのとき俺は、それも悪くはないことだと・・・確かに考えていた。
車を歩道に少し載せて駐車すると、看板の照明を確認しながら店に入る。
或いは、臨時休業でもしているかもしれないと心配をしていたが、親が死んでも半休で仕事に戻っていたアドルフに限り、それは無用の気遣いというものだったようだ。
「ああ、おじさんいらっしゃい」
受付けカウンターで店番をしていたらしいミノリが、モンブランの毛皮を毟りながら顔をあげる。
モンブランはというと、非常に迷惑そうな顔をしていたものの、逃げる様子はないようだった。
「よう・・・・ひょっとして、お前一人か?」
開いたままの扉の奥へ視線を送りながら、念のためにミノリへ聞いたが、これは返事を貰うまでもない質問だ。
アドルフが中にいるなら、事務所の扉を開きっぱなしにしておくことは絶対にないし、猫の扱い方をまるで心得ていないミノリに、モンブランを虐待させたままにすることも、有り得ないだろう。
「オーナーならそろそろ集金から戻って来ると思うけど・・・・ねえ、おじさん達、ひょっとして喧嘩した?」
ジタンのケースから1本取りだし、口に咥えようとしていた俺は、ギョッとしてミノリを見る。
「べつに喧嘩なんてしていないが・・・どういう意味だ?」
足元に落ちた煙草を拾い、その先に火を点けながら、ミノリの返事をジリジリとした気持ちで待った。
あからさまに動揺を隠し切れていない、今の俺の不審な行動は、喧嘩こそしていないものの、何かありましたと言わんばかりだったのだろうが、幸いにしてミノリから、とくに突っ込みが入ることもなかった。
「あたし今日、朝10時にここへ絵を持って来たんだよね。そしたらオーナーがキッチンでキリマンジャロを淹れて、飲んでんの。で、あたしを見て「ああ、もう出来たのか。御苦労さん」だってさ。で、オーナーが伝票整理を始めたから、あたし目の前でモンブランの蚤とりをしてたの。でも、何も言わないんだよ? で、お昼を食べに帰って戻って来て、入れ違いにオーナーがお昼を食べに行って、さっきついでに集金して帰るって電話があって、今に至るの・・・・これって、絶対に可笑しいと思わない?」
相変わらず説明が散々なミノリの話を要約すると、こういうことだろう。
「つまり・・・・あの昼夜逆転が当たり前であるアドルフが、朝の10時から起きてコーヒーを飲んでおり、お前があいつの可愛いモンブランを虐待しているのを見て、注意もせず、しかも目に入れても痛くはない娘同然なモンブランと、お前を二人きりにしたまま、あろうことか店を長時間に亘って空けているというわけか・・・それは確かに重症だな。・・・で、お前はなぜ、この間からモンブランの毛を毟り続けているんだ?」
カウンターの上の白い毛玉が、直径30センチ程の塊になっていた。
冬から夏の毛へ生え変わる時期で仕方がないとは言え、これ以上アドルフの店を猫の毛で散らかしたら、いつもの神経質なアドルフであれば、ミノリごとサイクロン掃除機で吸引し、カーペットにブラシをかけて、さらに粘着テープで完全に除去して、カウンターの上も小型クリーナーで掃除をして、当分ミノリに出入りを禁じることだろう。
先ほどの話を聞いている限りじゃ、今日はどうやら心ここにあらずの心境で、とくに心配はなさそうだったが。
「だから蚤とりをしてるって言ってるじゃない。ちゃんと話聞いてる? それにモンブランは雄猫だよ。あのオーナーが、仮に動物であっても女を囲うわけないじゃない」
「女を囲うわけはないと来たか。上手いこと言うな。ちなみに金で繋がれているとは言え、アドルフの傍にいる自分の存在については、何も考慮しないのか? それとも性別を忘れたのか? ・・・ところで、退治した蚤はどうしているんだ?」
先ほどから毛を毟っているだけのように見えて、一向に蚤を潰すような仕草は見えない。
「それがさ、毛が絡まって上手くとれないんだよね」
性別の質問は無視されていた。
「要するに、毛を毟っているだけなんだな」
まあ、毛玉を作ったままにしておくと、蚤も発生しやすいだろうから、抜け毛を除去することにも意味はあるのだろう。
せめてブラシやコームを使ってやった方が良いと思うのだが・・・ところで。
「お前、例の死体の絵はどこにあるんだ?」
俺は事務所の整理棚から、ローラー式の粘着テープを取り出し、カーペットの上を転がしながらミノリに聞いた。
「ああ、リラダンさんの弟さんの奴だよね。あれなら、まだうちだよ」
ミノリがモンブランから手を放さずに応える。
俺は手を止めて、思わずミノリを振り返った。
「お前んちって・・・さっき、持ってきたって言っていた絵ってのは、リラダンのヤツのことじゃなかったのか?」
「それは以前に請け負っていた、マティアス・グリューネワルドの磔刑の方だよ。いや、あれは本当に疲れたな・・・イケメンじゃないキリストなんて描いたの、あたし初めてだよ」
「宗教画をそういう価値基準で判断するのはどうかと思うが・・・、確かにグリューネワルドのキリスト磔刑は、壮絶にリアルな絵だな。・・・いや、それよりだ。ってことは、死体の絵の方はまさか、まだ作業中だったりするのか? アドルフからその件について、何か指示はなかったのか?」
昨日俺は、ティエリ・デュルタルから聞かされた話を、全てアドルフに話していた。
途中からは、確かに妙な展開になりはしたものの、アドルフほどの男であれば、耳にしたクライアントの不審な情報を忘れたりするとは、到底考えられないのだ。
「ああ、・・・あの子をエンバーミングしたのって、おじさんの知り合いなんだってね」
どうやら聞いてくれていたようだった。
それなら話は早い。
「知り合いというか、まあ・・・法的には赤の他人の親戚みたいなものなんだがな。・・・それで、ルブールの野郎は、そいつに偽名を使って依頼をしていたわけだ。・・・で、アドルフはなんて言っているんだ。作業は中止か?」
「明日仕上げに行く予定だよ」
ミノリは、あっさりとそう言った。
「・・・悪い、今何て言ったんだ。絵を仕上げに行くとか、俺には聞こえちまったんだが」
「だから、そう言ったんだって」
「いや、意味がわからんぞ。ルブール・・・つまり、お前が言うところのリラダンさんだが、あいつは偽名を使って、余所様の御子息の死体をエンバーミングして手元に置いているような、得体の知れない野郎だぞ。それに・・・そのなんだ、ちょっとお前には言いにくいような、手荒な真似を、その少年にしていて・・・」
「知っているよ、その子とエッチしてたんでしょ?」
「ああ、いや・・・ええっと、まあその・・・なんだ」
よもやミノリの口からそんな性行為を指す言語を、こともなげに聞かされるとは思っておらず、俺はそうだとも言えず、口籠ってしまった。
どう見ても処女のミノリは、自分で言っている意味がわかっているのだろうか・・・・いや、ミノリとてアリーヌと同じ年の成人女性なのだ。
もちろん、わかっているのだろう。
俺が勝手に、ミノリを幼い少女扱いしているだけなのだろう・・・。
「おじさんの言いたいことは、わかっているから大丈夫だよ。オーナーもキャンセルするから仕事を中止していいって言ってくれた。でも、あたしが仕上げるって言ったんだよ」
「おい、なんだってそんな事・・・」
アドルフはやはり、責任者の立場として、言うべきことをちゃんとミノリに伝えてくれていた。
「だって、リラダンさんが、キャンセルしてきたわけじゃないのに、引き受けた仕事を中途半端に放り出したくはないもの」
「そういう問題じゃないだろう。相手は、へたすりゃ殺人犯かもしれない男だぞ」
「殺人犯じゃないかもしれないじゃない。リラダンさんとあの子はエッチしたけど、なぜかその直後に、あの子が死んじゃった。でも遺体に暴行した形跡はなくて、リラダンさんがおじさんのお友達に、あの子のエンバーミングを依頼した。わかっているのはそれだけなんでしょう? あたしには、リラダンさんがあの子を殺したとは思えないんだよ・・・。そもそも自分で殺した相手の遺体を、わざわざ誰かに見せびらかす筈ないじゃん」
「それは確かにそうなんだが・・・しかしだな、偽名を使って遺体の処理を依頼したり、まともな野郎がそんな・・・」
「怪しいのは、そこだけでしょう? そんなことを言い出したら、おじさんやオーナーだって、人を騙しておまけにそれを仕事にしてるじゃない。あたしだってそうだし、リラダンさんのことを、犯罪者呼ばわりできる立場じゃないと思うよ」
「・・・・御尤もです」
ミノリにここまで言わせてしまっている自分が、とても恥ずかしかった。
彼女は、頭の中で言葉を纏めるような間を、少しだけおいて。
「本当のことを言うと、相手が犯罪者かどうかなんて、あたしにはどうだっていいの。そりゃあ、確かに殺人犯だとしたら、ちょっと怖いけど、そうは思えないし・・・・なんていうのかな、リラダンさんはそんなことをしていないっていう気が、あたしはするの」
「どういう意味だ」
「あの子を見る目がね・・・、本当にせつなそうで。ちゃんと、あの子の死を悲しんでいたよ。顔は確かに全然似てなかったから、兄弟っていうのはやっぱり嘘だと思うけど、少なくともリラダンさんは、あの子を心から愛していたと思う・・・ううん、今でも愛しているよ。そんな人が、少なくともその子に対して、酷いことをするとは、あたしには思えないんだよね。・・・だって、身近な人を愛することは、神様を愛することなんでしょう? 神様を愛している人が、そんな酷いことをしたりしないよ・・・ねえ、おじさん?」



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